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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

能登國総社(のとこくそうじゃ) in 石川県七尾市古府町

2017年12月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市古府町に鎮座される「能登國総社」。御祭神は『能登國式内四十三座神』『建御名方神』

社伝に【往古『大穴持命』を奉祀したのに始まり、『源順(みなもとのしたごう)』が、能登守のとき再建して、能登国中の式内四三座の神を勧請したという。「能登国式内等旧社記」には「惣社矢田郷古府村鎮座称惣社明神或云惣座宮。往古国府神拝之惣社也」とある。明治40年に諏訪神社を合祀した。】

総社という名から、漠然と規模の大きな神社を想像していましたが、意外なくらいこじんまりとしています。 ただ、境内の静謐さはとても心地よく、深く吸い込んだ空気はことのほか澄んで感じられました。

七尾市指定有形文化財の社殿は一間社流造・柿葺。棟札によると寛永14年(1637)の造立で、延宝2年(1673)に南側に建て替えた旨が記されています。覆屋の中なので本殿は見られませんが、拝殿の扉には「丸に桜」の神紋。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和10年(1935)4月建立の狛犬さん一対。丸い団子鼻から口に沿って耳元に流れる曲線が不思議な表情を生み出し、中々にユニークな顔立ち。目が合った瞬間、なんとも微妙な薄笑いを浮かべる阿吽の一対(笑)

注連縄が張られた御神木。

境内右手に置かれた「力石(盤持石)」「幕末次代を最盛期として能登地方農村地域において力比べとして盤持ちや俵担ぎなどが行なわれた。当古府町では大正七年(1918)唐戸山大関となった中の戸は壱石盤(150㎏)を軽々と差し上げたと云い伝えられている。」現地説明より

「靖国英霊鎮魂の碑」。単なる忠魂碑ではなく「靖国英霊」の文字に想いがあふれ出します。 靖国=戦争賛美だと喚く愚者には、命を賭してでも・・と願った彼らの心根は決して理解できないのでしょう。守りたかったものは日本国という自らの故郷。その故郷に生き、愛する者たち、その全てです。彼らの命で贖われた平和は、決して勝者が恵んでくれたものではない事を知るべきです。

「無常観音」

参拝日:2011年10月17日

 


市杵島姫(いちきしまひめ)神社 in 石川県七尾市松百町

2017年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市松百町に鎮座される「市杵島姫(いちきしまひめ)神社」、御祭神は『市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)』

由緒「当地方は風景絶景なる勝地、松百の半島地たる島端字白崎に産土神として、竹生島明神(市杵嶋姫命)を本斎されるものにして、養老年間以前の古祠であると伝えられるが、鎮座地は山嶽、海崖に近く、風濤によって社殿の損害激しく、また、交通不便が故に現在地へ移転。明治23年現在地で正遷宮される。」石川県神社庁HPより

拝殿後方に、比較的新しく造営されたと思われる本殿鞘堂

拝殿前左右より神域を守護されるのは皇紀2600年(昭和15年(1940))建立の、ややメタボ気味の狛犬さん一対。阿形さんの笑顔は飛びっきり上等。対する吽形さんは真一文字に硬く口を結んで、必死に笑いをこらえているようす。

そりゃぁね・・こんな事されたら・・(^^;) 怒るわけにもいかないし。もう笑うしか無いですね(笑)

参拝日:2011年10月17日

 


印鑰(いんにゃく)神社 in 石川県七尾市

2017年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市府中町に鎮座される「印鑰(いんにゃく)神社」。御祭神は『市杵嶋姫命』

由緒【養老3年國府を七尾港付近に設け、港の守護神と鎮祭し、能登國國衙の印璽を保管した由来から「印鑰神社」と称す。戦國の爭乱天難を土中にさけ、文緑年中赤間田より『地主・両川市左エ門』『郡奉行・三輪藤兵衛』の夢告により出土し、慶長2年大手町、寛永16年府中町と府中村の入会浜に移転、文政8年現地に遷宮す。】

拝殿前左右より神域を守護されるのは、明治26年(1893)建立の狛犬さん一対。大きな口を開けて笑う阿形さんの楽しそうな事。わずかに口角を上げて微笑む吽形さんは、ちょっと大人。

本殿左横に鎮座される「西宮神社」。御祭神は『事代主命(恵比寿神)』。かつて印鑰前通りにあった恵比寿堂がこの地に遷座、「西宮神社」と改称されました。

拝殿左側に鎮座される「金毘羅神社」

境内の一角に展示されていた「府中町でか山車輪」

境内の石像2基は七尾の財閥・樋爪家にあったもので、樋爪家が没落した後に奉納されました。

帰り際に見かけた「府中町でか山」の山倉。

参拝日:2011年10月18日

 


大地主(おおとこぬし)神社 in 石川県七尾市

2017年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

七尾市山王町に鎮座される「大地主(おおとこぬし)神社」。御祭神は、『大山咋命、素盞嗚命、伊許保止命(いこほとのみこと)』

由緒【養老二年能登国の守護神として当社を勧請す。天元年間国司『源順(みなもと のしたごう』社殿を再建し、始めて4月申日(5月14日)の祭典(青柏祭)を修行す。文明5年『畠山修理大夫義統』青柏祭に曳山を奉納す。天正10年6月『前田利家』社殿を再建し、古格の祭礼を再興す。当社はもと「能府地主山王宮」と称し、昭和3年「大地主神社」と改称す。】

千鳥破風唐破風付き入母屋造り・銅板葺きの拝殿は、大正二年の建築。拝殿には数多くの彫刻があったのですが、ご亭主殿の怠慢で画像は無し(T^T)。なんでご亭主殿の責任?と思われそうですが、御朱印を頂く間、ずっと玄関内で待っていたので、境内の写真はご亭主殿に一存していたのです。

と言うことで境内社も、私が写した川原町の「登口神社」のみ。予定にせかされると、往々にこういう事があり、結果、後になって後悔するのです。でもしつこいようですが、今回は!ご亭主殿が悪い"(-""-)"

境内入り口の「昭和の碑(大東亜戦争戦没者御芳名)」に深く首を垂れて・・

鳥居の内に「御神木」「青柏祭」の碑

「大地主神社」の御神輿庫。上部には、「丸に三柏」の神紋があり注連縄が張られています。毎年5月3日から5日まで開催される「大地主神社」の祭礼「青柏祭(せいはくさい)」。 神饌を青柏の葉に盛って神前に供え、天下太平五穀豊穣を祈る、山王神社の春の例大祭。七尾四大祭の一つ、北陸三大祭の一つとしても知られ、国重要無形民俗文化財に指定されています。

「青柏祭」に奉納される「でか山」は「府中町」「鍛冶町」「魚町」の三台。 高さ12m 長さ13m 幅4・5mで山車としては日本最大級、体積・重量では日本一といわれます。実物は見た事がありませんが、ネットやポスターなどで見る限りでは、圧倒的な大きさで迫力は満点。

「七尾フィッシャーマンズ・ワーフ・能登食祭市場」内に展示されていた「でか山の開き」。上段に飾られる歌舞伎人形を間近で見る事ができます。

入口に展示されていた「でか山」の車輪。

市内で見かけた郵便ポストの「でか山」モニュメント。

参拝日:2015年5月20日

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御神名一口メモ

『伊許保止命(いこほとのみこと)』、阿波(安房)国造の祖とされる。

 


穴水大宮(あなみずおおみや) in 石川県穴水町

2017年12月14日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

穴水町大町に鎮座される「穴水大宮(あなみずおおみや)」。御祭神は『宗像三女神』『正一位稲荷大明神、大山咋命、加具頭知命(かぐつちのみこと)、宇迦魂命、少名彦命』。延喜式内社「辺津比咩(へつひめ)神社」とされます。

社伝に【本殿正殿の地中に大概六尺四方の神秘な石棺あり、神代の宝器・旧記等が納められているという。(中略)桜谷と称する洞穴より出ずる清泉を真名井と言い、穴水とも同意なり(中略)。元祿度より亨保度まで徳川家の御領に相成り、代官在住支配の節も、当社は郡中の総社と定められ尊敬の御社にして、即ち、寄附の金幣・金灯籠など今なお現存す。又、北陸最古の絵馬(帆掛船)あり。永治度『西行法師』当社へ参拝の折、奉納詠歌などもあります。文徳天皇仁寿年始正六位に叙位、格天皇文化4年正一位の神位を奉授された。孝徳天皇の御宇より神祗官から祈年の奉幣があった。】

社殿の内には北陸最古の絵馬が奉納されているそうです。

拝殿前より神域を守護されるのは、貴族的風貌が凛々しい顔立ちの狛犬さん一対。吽形さんは角を、阿形さんは鞠に手を置いています。台座の位置が高いので、下から見上げると目と目があって・・なんだか照れ臭い(笑) 

境内の一画に『西行法師』参拝の折に奉納したという詠歌。

【  立ち帰り 辺津の入り江に 舟とめて いくたびも見む 能登の島山  】

所願成就の絵馬は、穴水大宮に残る「北陸最古の帆掛船奉納絵馬」をなぞったもの。

「戦慄記念・主砲」

参拝日:2015年5月22日

 


長谷部(はせべ)神社 in 石川県穴水町

2017年12月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

穴水町川島に鎮座される「長谷部神社」。御祭神は『長谷部 信連公(はせべのぶつらこう)』

真新しい由緒書きに刻まれた御神紋は『長谷部家】の家紋「九曜」。「九曜」とは、七曜星に「羅睺(らご)・計都(けいと)」の二星を加えたものを言います。

由緒に【能登国大屋荘の地頭で、「平家物語」でも著名な鎌倉武士の『長谷部信連公』を祀る。信連公が建保六年(1218)の逝去に先立ち、自作の肖像を刻んで大町来迎寺の御影堂に安置したのが、当社の起こりという。江戸時代には「武健(ぶけん)大明神」と称し、昭和十年・由縁深い穴水城の麓の現在地に移転した。寛永二十一年(1644)建立の本殿は、神社建築に特異な禅宗様で、殿内の宮殿は漆塗に極彩色を施した唐破風の精緻なものである。】

本殿は雪囲いがされていて、外からでは由緒にある諸々は全く見ることは出来ません。 が、その殿内には御祭神が人であった時代に必要とした、生活用具一色が納められているとか。本殿の中にそんなに沢山のものが?と思いましたが、それらは皆、小さく誂えられた品だそうです。

拝殿前より神域を守護されるのは安政6年(1859)建立の狛犬さん一対。中々に味わいのある顔立ち。普通に「耳まで避けた口」と言うと、獰猛とか怖い!のイメージですが、こちらは全く例外(笑)

本殿の向かって左隣、祠の中に鎮座するのは「子宝石」。いわゆる「陰石・陽石」。子宝などを必要としない年齢になった私たち、すでに宝である者の幸せを願ってきました。

清冽な空気が漂う境内の一画に建立された「彰忠碑」。戦で命を落とされた方々を可哀想と言ってしまうのは、平和に慣れきった愚者の驕り。有史以来、人は我が身を守る為、様々な敵と戦い生き抜いてきました。我が身が家族になり一族になり、地域になり国になり・・その歴史のうえに私達が存在するのです。薄っぺらい「平和」を盾に、国の礎となられた方々を貶める愚者を、私は心底、軽蔑します。

入口近くに建立されていた句碑、【 八重桜 手まりのごとく 風にゆれ 】 

こちらの「長谷部神社」ですが、実は御朱印を頂きたくて2015年に再度参拝しました。何度おとなっても社務所には人の気配が無いようで、残念ながら御朱印は諦めざるを得ません。そうそう、もと護摩堂として建てられていた拝殿、いつの間にか新しくなっていました。

参拝日:2011年10月17日&2015年5月22日

 


能登さくら駅と曽呂神社 in 石川県穴水町

2017年12月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

桜のトンネルで有名な「のと鉄道七尾線:能登鹿島駅」、別名「能登さくら駅」

生憎と私達が訪れたのは五月も終盤に差し掛かり、桜は既に濃い緑の葉桜。本当に「○○の桜」と名の付く物には縁のない二人(^^;)

波静かな七尾北湾を望む無人駅ですが、季節には大勢の花見客を迎えて賑わうとか・・・ 満開の桜が映えるだろう瀟洒な駅舎は「中部の駅百選」にも選ばれています。

滅多に無い事に丁度電車が入ってくる様子。取り急ぎホームへ。 入ってきたのは可愛らしいというべきか、綺麗というべきか、とてもお洒落なラッピング電車。多分「のと鉄道」に関連したイラストなのでしょうが、葉桜の中に見る姿はとても可愛らしくて素敵。

線路の向こうに小さくなってゆく電車を見送って、ホームの階段から見た葉桜越しの七尾湾。初夏の陽光を受けてキラキラと輝いています。

車に戻りかけて、ふっと駅のすぐ傍に鎮座される「曽呂神社」の鳥居が目に入りました。 予定外ですが目に止まったのも何かの縁、御祭神は不明ですが参拝を。

鳥居から拝殿までの石段はそれほど距離も無く、直ぐ先に拝殿が見えています。 真新しい鳥居だったので狛犬さんは期待していなかったのですが、良い意味で裏切られました。

笏谷石のような色合いと手触り、加賀獅子を思わせる顔立ち。これは絶対に狛犬さんたちに呼ばれたんだとご亭主殿、大喜び(^^;) 

今は凪いでいる七尾湾ですが冬の海風はきつい筈・・こんなに綺麗な狛犬さんに会わせて下さって有難うございます。

訪問日:2015年5月22日

 


能登長寿大仏 in 石川県穴水町

2017年12月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

穴水町乙ヶ崎に「能登大仏」が座すと聞き、訪ねてきました。実際に拝観した大仏と言えば「奈良の大仏」に、富山の「高岡大仏」。超レアなところで大阪の「石切り大分」に、京都の「丹後大仏」。今回の「能登の大仏」で調度五体目。だから何だと言われても特に何も無いのですが(^^;)

「能登大仏」が、乙ケ崎地区の高台「真和園」に建立されたのは、2003年6月のこと。 大きさは8.4メートル。日本三大大仏の一つ、富山県高岡市の「高岡大仏」よりも大きいそうです。

ちなみに「日本三大大仏」は、「奈良東大寺の大仏」「鎌倉高徳院の大仏」。で、残りの一つは時代によって「京都の大仏」から「兵庫の大仏」と変遷し、今は先にあげた「高岡大仏」も含めて、それぞれが「日本三大大仏」であると主張されているようです。ん・・・・?、そういえば、確か大阪府東大阪市でも「日本三番目の大仏・石切大仏」と主張されてたような。

それはさて置き、大仏様がおいでになる一帯は広い公園になっており、これまでの大仏拝観とは全く異なった雰囲気で、まぁ何とも気持ちの良い解放感。

さほど古さを感じさせない三重塔ですが、この緑の中の佇まいがとても美しい。 歴史的に古いから価値があるという説は当然ご尤もですが、ここに立っていると、何となくそれだけではない気がします。神も仏も、奉る・祀る人があるからこそ世に存在するもので、言い換えればそれは「悪しき存在」であっても同じかもしれません。だからと言って「悪しきもの」への崇拝を肯定しているわけでは、絶対に!!有りません!!

間近にたって見上げて、そうして気持ちが和やかになれるなら、歴史の重さなど意味がありません。 と・・・こんな無責任な事を言えるのも、やっぱり特定の宗教を持たない気軽さからですね・・きっと。

広い園内には、弘法大師をはじめ、親鸞聖人・観音様等の11の仏像が安置されています。 名刹とか旧跡の名称こそありませんが、真和園11ヶ所巡りとして参詣者に親しまれているとか。

どなたの句碑か・・【 あたたかや 巡りて悟る 菩提心 】

参拝日:2015年5月22日

 


曽々木海岸:平家の里&輪島の塩 in 石川県輪島市

2017年12月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

能登半島有数の景勝地であり、国の名勝および天然記念物にも指定されている「曽々木海岸」。 日本海の荒波によって浸食された断崖は、人の概念では予想もつかない奇岩を生み出しています。

曽々木海岸を代表する観光スポット「窓岩」。板状の岩の真ん中、何百年にも渡って波と風の力で穿たれた穴は、まさしく岩の「窓」。伝説では『源義経』が弓で射た穴とも言われているそうですが・・・北陸路はどこまでも行っても判官びいきのようです。

2011年に建立された「能登平家の郷」のモニュメント。この地に伝わる平家伝説をいかして生まれた「平家の郷」巡りのスタート地点。

「平家にあらずんば人にあらず」・・「平家の郷」の主人公である『平時忠』は、清盛の妻『時子』の弟として清盛を補佐しつつも、実権を一手に担った参謀です。清盛亡き後、平家の実質的な指導者として権力を握り、冒頭の言葉を残したと言われています。

壇ノ浦の戦いで捕えられた『平時忠』は、三種の神器の一つ「神鏡」を守った功績により死罪を免れ、能登に配流となり、その4年後にこの地で生涯を終えました。

その後、嫡子である『平時国』は近隣の村々を統合し館を構え、今も尚その系譜は続いています。 第21代当主によって築かれた豪壮巨大な屋敷「上時国家」。

江戸後期、名工「安幸」が28年かけて完成させた、入母屋萱ぶきの巨大民家「時国家・本家」。189坪の古民家は、国指定重要文化財に指定されています。

時国家からの帰路、車中にもかかわらず、不意に目に入ってきた不気味な人影・・ 一瞬『耳なし芳一』!?と思ったものは、「平家物語」を語り広めたと云われる琵琶法師の像。 不気味なと言いながら、車から降りて確認するあたりが私らしいのですが😅 まぁでも、「赤間神社」の芳一さんみたいに怖くはありません。

曽々木海岸の句碑【  塩田に 百日 筋目 つけ通し 沢木欣一

塩田を詠んだ句が出て来たので、輪島市町野町の三ツ子浜海岸には、昔ながらの揚げ浜式塩田を営む「塩の駅・輪島塩」があります。

およそ五百年も前から奥能登に伝えられてきた揚げ浜式塩田。「荒塩桶(あらじおけ)」で海の潮を汲み、「引桶(しこけ)」に入れ、「打桶(おちょけ)」で塩田下地に海水を撒く。女子衆たちは「柄振(えぶり)」を使って「乾砂(かんさ)」を集めます。

集めた「乾砂」を「垂舟(たれふね)」に入れ、再び海水をかけて濃度の高い海水「鹹水(かんすい)」を溜めます。・・・一生懸命覚えてますが、もはや頭の中は専門用語が渦巻き????マークで一杯(笑)

ちなみに「打桶」は筒抜けなので、手で押さえながら海水を撒くのですが、見るとやるとでは大違い。まずもって海水を均等に撒くこと自体が至難の業。ともすれば「打桶」と一緒に我が身が塩田に投げ出されそう😅

手間も暇も充分にかけて大切に作られる輪島の塩は、まさしく絶品の美味。 輪島の塩を手にまぶし、炊き立てのご飯で作るお握り・・・日本人で良かったと心底思えます!!

訪問日:2015年5月23日


白米千枚田 in 石川県輪島市白米町

2017年12月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・石川県

輪島市白米町、どこだったかで手にしたパンフレットの中に紹介されていた「白米(しらよね)千枚田」・・初めてその写真を見たときの感動は今も鮮明に記憶に焼き付いています。 日本海に面した急斜面、小さな田が幾重にも重なって海岸まで続き、その先に見えるのは白砕ける波。深い群青の海。

かねてより憧れ、機会があれば是非にと望んでいた美しい絶景。「道の駅・千枚田ポケットパーク」の展望台からは、その白米の千枚田を見渡せる事が出来ます。あの畝の一つ一つが独立した一枚の田んぼだとして、実際にはどれほどの数になるのか・・ 隣で酔狂に数えていた人が「千枚も無い!」と断言していましたが、ねぇ、多分ここからでは見えない場所もありますよ。

「千枚田」の語源については、数が多いからの他に、「狭い田」からの転という説もあります。 最も小さい田の面積は0.2平方メートル、一辺の長さが20センチと言うと分りやすいかもしれません。稲の苗・・何本分でしょう?畦に立つ私の身長は、かなり!低いのですが、ここに立っていると結構大きく見えませんか(*^^*)

高洲山の裾野の1.2ヘクタールにわたる急斜面に沿って、幾重にも重なる田んぼ、その数1,004枚。 1枚の田の平均面積は18平方メートル程で、栽培は昔ながらの手作業で行なわれています。・・・確かにここに機械を入れるなんてとうてい無理な話。

田圃に必要不可欠の水は、寛永15年(1638)頃に作られた谷山用水が利用されているとか。 用水が作られたのがおよそ380年前と云われていますから、おそらく稲作はもっと以前からなされていたのでしょう。
かつては、田の下の土地で製塩も行われていましたが、海岸の浸食で塩田は水没してしまったそうです。

働くにはあまりにも過酷な・・・、ですが鑑賞の対象としてはこの上なく美しい「白米千枚田」。どの季節に訪れようとも、その時々の美しさが私の心をひきつけます。2015年5月、田に水が張られたらもうすぐ田植えの季節、米作りで一番大変な作業が始まります。

2011年10月、稲刈りが終わった後の田圃はまるで大役を果たして満足しきったようにゆったりと・・・。実際に見る事は出来なかったけれど、苗が青々と風にそよぐ様も、黄金の稲穂が頭をたれて輝く様も、きっと素晴らしい光景だった事でしょう。

それにしてもこのような過酷な場所に、これだけの田圃が作られた理由とは一体なんだったのか。 それを日本人の勤勉さと言う言葉で片付けてしまうには、あまりにも想像を絶する環境です。

能登を代表する美しい絶景は「日本の棚田百選」は無論のこと、2001年には「国の名勝」に、2011年6月には「世界農業遺産」に認定されました。これまで多くの棚田を見てきましたが、これほど息を呑む光景は、おそらく初めてだと思います。

訪問日:2011年10月16日&2015年5月23日