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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

静岡市庁舎本館(国登録有形文化財) in 静岡県静岡市

2019年01月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

歴史的な背景を持つ建物、特に日本人の技術を駆使した洋風建築は私の大好物!・・・食べ以外は本当に好物が多いと揶揄される事にすっかり慣れた私(笑)、今日も静岡市内に残る美しい建物の紹介です。
トップは昭和9年(1934)10月1日に完成した「静岡市庁舎本館」。設計者は浜松市出身の『中村与資平(よしへい)』。『辰野金吾』の事務所に入社し「豊橋市公会堂」等を手がけた人物です。建設費は当時の金額で約66万円。4階建てで床面積は4881平方メートル(坪数にして1476坪強)。

静岡庁舎本館は、昭和61年(1986年)から1989年にかけて、耐震工事と改修工事が行われ、静岡県都市景観賞を受賞。1996年に東京大学安田講堂などとともに我が国最初の登録有形文化財に指定されました。現在は1階を市民ギャラリー及び執務室。2・3階を市議会、4階を傍聴席及び会議室として使用しています。

静岡市庁舎の特徴は建物の上に2層の塔屋を重ねて望楼を置き、塔頂にスペイン風のドームをのせたこの搭。市民の熱意により修復整備された「あおい塔」は、静岡のまちのシンボルとなっています。

建物全体は象牙色のタイル貼りで、随所にテラコッタの美しい装飾が見られるのも特徴。 

車寄せの部分を真横から見てみましたが、全体のタイル張りの几帳面さと装飾部分が実に見事。

それではいよいよ玄関から建物の内部へ・・・こんな美しい場所なら毎日でも訪れたい気分(笑)

玄関を入ってすぐに目に付くのは、二階への階段正面に作られた美しい造詣の明り取りの窓。窓は単に日の光を入れるだけではなく「ステンドグラス」によって作られた光の織り成す芸術空間となります。
その時々の気象や時間によって様々に姿を変える空間は、別世界と言っても過言ではありません。

ちなみにその階段は横から見るとこんな感じで、これもまた存分に建築美を堪能させてくれます。

規則正しく区切られた天井部分の細やかな細工も見飽きることなく、気がついたら首痛に(^^;)

『中村與資平』設計の建物は市内にまだ二箇所。さらに、意外な人物の設計建築もあります。 ただ、いずれも外観だけなので、まとめて明日のブログで紹介します。また静岡県内には彼が手がけた「旧三十五銀行本店」「旧遠州銀行本店」等が現存しており、それはまた折々に紹介の予定(^-^)

訪問日:2011年11月13日

 


駿府城址公園~其の二 in 静岡県静岡市

2019年01月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

トップの画像は、車の中から見えた「東御門・巽櫓」、その後ろに見える高層ビルが静岡県庁舎別館。 これを見たときは結構すごいなと思っていたのに、結局この位置からの写真はこれ一枚(^^;)

2016年の訪問では、車を入れたのが市民文化会館前の駐車場、私たちは「北門橋」から公園に入りました。改めて図面を見直したら、西門橋を出て堀沿いを歩き、二の丸橋から公園経由で帰車。このコースなら、「東御門」も、面白い銅像の数々も見逃して当然、一応・・悔しい(笑)

と・・しょうもない愚痴はさておき、最初に紹介する記念碑は「昭和五年五月二十九日・行幸御野立所跡碑」。昭和5年、城内にあった静岡34連隊の演習を、昭和天皇が「この場所でご覧になられた」という内容の碑です。

これは、その静岡34連隊が置かれていた場所を示す「歩兵第34連隊址」と書かれた記念碑。

その傍らに建てられた碑には「軍歌・橘中佐」の1番と4番の歌詞が刻まれています。 この曲は後に「静岡歩兵第三十四連隊」の隊歌となったとかで、ここにある理由に納得。

西門橋を出てすぐ、「坤櫓(ひつじさるやぐら)」を背景に「静岡城内尋常小学校の「校址碑」。 明治3年(1870)、静岡藩学問所に設置された付属小学所は、昭和25年(1950)に廃校となりました。

先の校址碑からそれほど遠くない位置に建立された「静岡学問所跡」の碑。

明治維新後、駿府に移ってきた徳川家により、藩の人材を目的として創設された「府中学問所」。創設は明治元年(1868)、しかし明治四年(1871)廃藩置県により僅か5年で廃校となりました。

そこからさらに歩くと「城濠用水土地改良区記念碑」、傍らに「城濠用水の由来碑」。 あまりにも細かい文字でびっしりと書かれており、2~3行読んであっさりギブアップ(笑)

このまま東御門に向かえば、「わさび漬け発祥の地」碑や、「弥次喜多」像も見られたのですが、気ままに歩ける二人旅と違って、誰か連れが一緒だと我儘は言えません。とは言え、見逃した面白ポイントも機会さえあれば寸暇を縫ってGetするのが私のモットー(笑)。2018年でのカード入手の祭には、画像に残し損ねた「巽櫓」と。

巽櫓をバックの弥次さん・喜多さん」がセットになったベンチ 。しっかりと写真に収めて来ました(*^^*)

訪問日:2016年12月11日&2018年11月14日

 


駿府城址公園~其の一 in 静岡県静岡市

2019年01月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区に残る「駿府(すんぷ)城跡」。別名「府中城・静岡城」。二代将軍に将軍職を譲った『徳川家康』は「大御所」となって駿府城の天下普請を行い、ここを拠点として天下の実権を掌握してきました。明治2年(1869) 江戸が東京に、駿府は静岡に改名。廃藩置県により、県知事『徳川家達』が東京に移って以降、城内の建物は全て破却。南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用されました。明治24年(1891)に静岡市に敷地が払い下げられた後は「中央公園」として。昭和24年に再度大蔵省より敷地が払い下げられ、改めて「駿府公園」として整備されました。

「1989年には、市制100周年記念事業として、巽櫓が復元され、1996年には、東御門が復元。近年では、2012年4月に、その名称が駿府城公園に改められ、2014年4月には、坤櫓が復元されました。」駿府城公園の歴史より

「駿府城公園案内図」に従って園内の散策開始。最初の見所は公園の中央にある花壇の真ん中、緑の芝で作られた巨大な「葵紋」。 少し離れた場所から見おろすと、葉脈などが実に丁寧に植え込まれており、一見の価値あり。

明治29年(1896)の歩兵第34連隊の誘致に伴って埋められた「駿府城本丸堀跡」。説明によれば、幅23m〜30m、深さは5mもあったといわれ、発掘調査に基づいてその一部が復元されています。

本丸跡の中央に立つのは、鷹狩をする『徳川家康公』。大御所の貫禄は小憎らしいほど(笑)

銅像の向かいの柵内には「家康手植のミカン」があり、静岡県天然記念物に指定されています。 紀州より献上された鉢植えのミカンを植えたとあります。

2016年の時点で、家康最晩年に植えたとして、樹齢400年。日本最古のミカンが樹齢859年という記事を読んだ記憶があるので、まだやっと半分?(笑)

さて、そのお手植えミカンの近くには、【人の一生は重荷を・・・】ではじまる、かの有名な「東照公御遺訓」が建立。 ちなみに我が家のご亭主殿、この当時は「五箇条の御誓文」共々、そらで復唱できましたが、私は・・・多分半分しか復唱できないと思う。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。】
【不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。】
【堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。】
【勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。】
【おのれを責めて人をせむるな。】
【及ばざるは過ぎたるよりまされり。】

こちらの図面は「駿府城 縄張図」を床に写したもの。とりあえず広大だったと言うのはわかりました(笑)

「二ノ丸水路」は、本丸堀と二の丸堀をむすぶ水路で、幅4.5m、長さは95mもあります。

何気なく見上げた「二ノ丸」の石垣。てっぺんの角っこから「何か」がこちらを見ているような・・。 まさかあんな所に石が転がってる(危険です!!)はずもないし・・と言うことでズーム。

目一杯ズームした結果、どうやら鳥を石か何かで作ったような、それとも修復の際のモルタル製? 特に近くに説明も何も無く、かといって石垣の上に上がって確かめるほどの根性も無く・・いまだ謎のまま(笑)

城址公園では、平成になって「巽櫓」や「東御門」などが復元され、資料館として公開されているとか。左手に見えるのは、2014年に復元された「二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)」。内部は三階構造で、復元に当たっては、「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」などを参考に、可能な限り忠実に復元作業が行なわれたとあります。一般公開されている一階からは、三階の梁まで見通すことができ、伝統的な工法によって復元された櫓の構造を見る事が出来ます。

さて駿府城址公園~其の二では、周辺で見かけた意外な発見、へぇ~~と興味をかき立てられた場所などを紹介して見ようと思います。

訪問日:2016年12月11日

 


久能山東照宮~其の五 in 静岡県静岡市

2018年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日までの豪華絢爛な久能山東照宮の建造物とは打って変わって・・、今日は家康公「廟所」の紹介。 本殿の後方にある廟門から神廟までの間をつなぐ「参道」はいずれも重要文化財の指定。 参道左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が立ち並び、厳かな雰囲気が漂っています。

神廟の一画に聳え立つ「金のなる木」。木は途中から大きく3つの枝に分かれています。家康公の金のなる木のエピソード。書くと長くなるので目一杯端折って(^^;)
一つ目の枝は「よろずほどよ木」・・・すべてほど良き
二つ目の枝は「しょうじ木」・・・正直
三つ目の枝は「じひぶか木」・・・慈悲深き これらを守り実践すれば富を得られるであろうと家臣に言ったらしい(笑)

石灯籠群から約40段の石段を登った先に、重要文化財指定の「神廟」。 元和2年の創建当初は木造桧皮葺の祠でしたが、家光公により現在の石造宝塔に造替されました。

神廟の真正面に奉納された「唐灯籠」。神廟を直視する無礼を避ける為でしょうか?

さて、ここで初日に書いた、「家康公の遺骸」は久能山か、日光か?の話題に少し触れたいと思います。
創建当時の東照社は、家康を葬った久能山と、分祀の為に造営された日光の二箇所に存在しました。家康の遺命通り、遺骸は四角い棺の中に正装し、西を向いて座した状態で。また遺骸の保存の為に棺の中は、何百キログラムもの硫化水銀で満たされていたとも伝えられています。そして天海僧正の指揮の元、当時の技術を結集し、二週間もの日時を要し家康公の棺はこの地に納められました。

明けて元和3年、再び天海僧正が総指揮を執り、久能山から日光への「宮遷し」が行われます。 こうして「神柩」は、新暦4月20日から約2週間の日程をかけて日光へ運ばれ、奥宮に収められました。 御遺骸は日光に在るという人たちの根拠は、この「宮遷し」を第一の理由としてあげています。
ですが・・素人の私の素朴な疑問は、土葬して一年目の遺骸を掘り起こして「神柩」に移せたのか? 埋葬だけで二週間を要した筈の棺。水銀による防腐処置が施されていたなら、その重さは半端ではありません。
それを開けて遺骸を取り出し、新たな柩に移す・・・どう考えても私には納得できません。
またそれができたとして、道中に二週間もかければ、御遺骸はさらに酷い状態になると思います。 そうした諸々の事を調べていくと実に沢山の方々の研究に行きつき、いずれも非常に興味深い内容で、更に謎は深まるばかり。
ともあれ、この久能山には確かに「神廟(しんびょう)」があります。そして、「廟」とは「墓所」を指すのです。

日光東照宮には「神柩」が納められた「奥宮御宝塔」がありますが、それは「墓所」ではありません。 文字ばかりでずいぶんと長くなりましたが、要するに「御遺骸は久能山に」が私の結論。
最後に「宮遷し」に関わった最も重要な二人の人物の、非常に意味深な和歌の紹介。まずは『天海僧正』から
【あればある 無ければなしと駿河なる くのなき神の 宮遷しかな】

もう一つは、三代将軍・家光が「寛永の大造替」を行った際に久能山に詣でた折に詠んだとする
【東より 照らす光のここにありと 今日もうでする 久能のみやしろ】

帰り際、唐門の下で見知らぬカップルさんにシャッターをお願いされ、そのお返しにと二人並んでの記念写真。旅の良い思い出になりました。

参拝日:2011年11月13日

高所からの景色を楽しめない私のために、ご亭主殿が写してくれたロープウェイから見下ろす久能山参道。

 


久能山東照宮~其の四 in 静岡県静岡市

2018年12月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

家光による久能山東照宮の建造物、最後は御社殿の周囲にめぐらされた「玉垣・透塀(重文指定)」

玉垣の腰板には全部で106枚の彫刻があり、それらは一枚の板を彫り上げた透彫となっています。 彫刻の中には鳥を扱ったものが圧倒的に多く、その中でも小鳥を題材とした透彫りは45枚あります。

もちろん、神社建築の彫刻にはつきものの唐獅子と牡丹も、阿吽でその存在感を示しています。

透かし塀の内側には、駿府城の「家康お手植えの蜜柑」を接木した「お手植えの蜜柑」があります。 接木なのに「お手植え」は違うと思うのですが、家康と名がつけば何でも許されるのです(笑)

末社「久能稲荷神社」は「稲荷神社」と「厳島神社」とが合殿になって、西向きに建っています。  東照宮創建以前よりの鎮座と伝えられており、古来山上の愛宕神社の前に鎮座していましたが、明治17年の暴風により社殿が倒壊した為、楼門内東側の現在所に遷座されました。

久能山東照宮博物館には、徳川歴代将軍の武器・武具や、家康公の日常手回り品が収納されています。 他にも総数2,000点を超える奉納品が収蔵されており、じっくりと見学するにはやっぱり時間が足りません。

この博物館前に置かれた狛犬の阿形さんですが、よく見ると唐門の前にいた狛犬さんにとてもよく似ています。 おそらくは、唐門前を守護するために置かれた狛犬さんの先代と見て間違いないでしょう。

胸の部分には「久能山御宮前」、足には「天保四巳年七月」「享和三亥年四月」の刻。 刻まれた二つの年号にある三十年間の開きが何を意味しているのか、残念ながら不明。

これとは別に、原型を失いつつあるもう一対の狛犬さんが、同じ場所に大切に置かれています。 ですが吽形さんの顔の崩れは、年月の風化と言うより何らかの衝撃によって受けたもののように見えます。

正面アップで見る阿形さん・・・間違ってもその笑顔で子供の前に現れないように!

何とも微妙に難しい顔は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をモデルに彫られた「家康・しかめ像」。 元絵に関しては諸説(笑)あるようですが、一応、己の慢心を戒める為に書かせたとされています。

最後は「バンダイ社」が2010年7月26日に奉納した「BB戦士 徳川家康頑駄無」のプラモデル。 向かって左隣には、家康が初期の頃に用いた「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の馬印も作りこまれる徹底さ。 それにしても何故、久能山にプラモデル?!と思われたあなた、是非ともググって感心して下さい。

明日はいよいよ久能山東照宮シリーズの最後、家康公が眠る「廟所」です。

参拝日:2011年11月13日

 


久能山東照宮~其の三 in 静岡県静岡市

2018年12月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日は秀忠によって造営された東照宮の建造物の紹介でしたが、今回は家光による増築の紹介。ロープウエーから降りて最初の神域への入り口は、家光によって増築された朱塗りの楼門。

中央には、第108代『後水尾(ごみずのお)天皇』の宸筆による「東照大権現」の扁額。「東照大権現」とは、神格化した家康の「神号」として朝廷から宣下されたもの。そもそも権現とは、仏や菩薩が仮(権)に姿を変えて日本の神として現れるという意味であり、故に家康公=権現は私の中では無し!なのですが、だからと言って家康公が嫌いとかでは無いので念の為(笑)

楼門の柵内には、きらびやかという言葉がふさわしい、守護神像の左右随身。おそらくそれぞれに名があるのでしょうが、特に記載はありません。

楼門の裏側(境内側)左右の柵内には、鮮やかな金泥に彩られた獅子狛犬。 一般的に獅子、もしくは狛犬と一括りに呼びますが、角のない方が獅子、角の有る方が狛犬とされます。

「神厩(しんきゅう)」は、建造当初は家康公の愛馬を飼育していた建物でしたが、夜毎厩舎を抜け出して家康公の廟所に行き、ある日その傍らで息絶えたと伝えられています。

現在の「神厩」には、名工:『左甚五郎』の作と伝えられる木像の神馬が納められています。 真っ白いからだに装着された朱塗りの馬具、印象深い黒い瞳は当時非常に高価であったギヤマンが使用されています。

創建当時は「鐘楼(しょうろう)」として造営された「鼓楼(ころう)」。 明治の神仏分離の際に、鐘を太鼓に替えて「鼓楼」と改め、今に至っています。

それとは逆に、神仏分離の際に取り払われてしまったのが、寛永13年に完成したという五重塔。 高さ約30mの五重塔を偲ぶものは、元のままに残された「礎」と「礎石」のみ。これだけの規模の中の「五重塔」・・歴史的建造物の価値を考えるだけでも勿体ない(-_-;)

「神庫(しんこ)」は、奈良の正倉院と同じ校倉(あぜくら)造りの建物。 東照宮博物館が完成するまでは、神社に伝わる数々の宝物類がここに納められていました。

「日枝(ひえ)神社」。御祭神は『大山咋命(おおやまくいのみこと)』。創建当時は「本地堂(ほんじどう)」として、『薬師如来像』が安置されていましたが、神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた「山王社」の御神体を納め、社名も日枝神社と改めました。

神楽殿の北側、一段高い所にある見世棚造りの小さな「竈(かまど)神社」。御祭神は『火産霊命(ほむすびのみこと)・奥津彦命(おきつひこのみこと)・奥津姫命(おきつひめのみこと)』

ここで紹介した建築物は全て国重要文化財の指定です。三代将軍:家光による増築部分の紹介、もう少し続きます。

参拝日:2011年11月13日

 


久能山東照宮~其の二 in 静岡県静岡市

2018年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

徳川15代の礎を築いた家康公を祀る東照宮。建造物はいずれも国宝、もしくは国重要文化財として登録されており、見ごたえも充分。久能山東照宮~其の二では、二代将軍・秀忠によって造営された建造物のみを取り上げて紹介します。

楼門をくぐり石段をあがると青銅の鳥居。一礼して潜った先に、重要文化財の唐門。 拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗、四方唐破風造の門、羽目板には鳳凰に唐獅子牡丹。

唐門から直接入ることはできませんが、右手の石段をあがれば唐門の内側に入る事ができます。 極彩色の漆塗りで彩られた唐門。そこに施された「桜花に鳥の透彫」、番いの鳥は今にも飛び立たんばかり。

唐門の貫から見下ろす極彩色の獅子は、その華やかさゆえか威圧感も無く、面差しも優しげ。

唐門の前より神域を守護されるのは、先代をなぞったと思われる二代目の神殿狛犬さん一対。 一見非常に滑らかな石のように見えますが、実際に手で触れたわけではないので、真相は謎。

社殿は江戸幕府大工棟梁『中井大和守正清』の代表的な遺構の一つと云われるもので、祭神をお祀りする「本殿」と「拝殿」を「石の間」で連結した「権現造」。江戸時代を通じて権現造社殿が全国的に普及する契機となった「最古の東照宮建築」として、2010年に国宝に指定されています。

東門越しに見る入母屋造の社殿。千木があるのが本殿、画像左が拝殿。わずかに両殿を繋ぐ相の間が見えます。

昇段本殿内部には三間の厨子が据えられており、その中央には主祭神である『徳川家康』その両脇には「相殿(あいどの)」として、『織田信長・豊臣秀吉』あいにくと拝殿正面からの参拝は、団体さんとその案内の神官に立ち塞がれており、待つ時間が惜しく移動。個人と団体さんでは・・仕方が無いですね(-"-)

さて肝心の社殿彫刻ですが、その荘厳さはどう形容しても実際に目で見ないと実感できません。それでなくとも広大な境内、一つ一つが予想以上に見所が多く・・とにかく時間が幾らあっても足りない!。

本殿の扉絵の獅子、見覚えがあると思ったらロープウェイを下りて最初に出迎えてくれた絵馬の獅子。

黒漆の扉の上に鮮やかに描かれた阿吽の獅子。 漆の黒は陽の加減によって、獅子たちの姿を微妙に変えると云われていますが・・・それを確かめるにはやっぱり時間不足。

「久能山東照宮」更に続きます。

参拝日:2011年11月13日

 


久能山東照宮~其の一 in 静岡県静岡市

2018年12月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

今日から年末にかけてのブログは彼が眠る「久能山東照宮」の紹介です。晩年を駿府で過ごした『徳川家康』は、元和2年(1616年)七十五歳でその生涯を終えました。亡骸は、「我が死んだら躰は久能山に納めよ」の遺命によって、久能山の中腹に埋葬。

門前より臨む久能山、石鳥居より本殿前まで石段の数は17曲りの1159段・・あ・・・・軽くめまいが(^^;)  昔の人は「いち・いち・ご・く・ろうさん」と洒落を言い合いながら登ったんだそうです。
この石段の数に初手から怖気を振るっていた私たちと、初めてここに立ったJさん。久能山東照宮ここで拝礼して終了(笑)

と言うことで、2016年の久能山一の鳥居からの中継はここまで、この先の続きは2011年の参拝のものです。d(-_^) 

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2011年、久能山参拝の為に日本平まで車で乗り付けた二人。日本平山頂と、丘陵南域の久能山(標高216m)山腹に建つ「久能山東照宮」を結ぶ「日本平ロープウェイ」。 苦手な乗り物ですが、背に腹は変えられません。

待合室にあった「日本平ロープウェイ」の顔出し、男性は家康公でしょうが、女性は誰でしょう。 家康公の正妻といえば「築山殿」ですが、それにしては少々イメージが若過ぎる気が・・と、どうでもいい事に悩みながらの時間待ち。

さぁいよいよ乗車の順番、なるべく外を、特に下を見ないようにしてご亭主殿の背中だけを見て。 ぐらっとゆれるのは最初の瞬間だけ、心の中でお気に入りの歌を2~3曲歌えば・・多分すぐに到着・・ 笑ってはいけません!! 本当に地に足のつかない乗り物は、飛行機だろうと豪華客船だろうと、まして細いワイヤーにぶら下がるロープウェイ・・・😱

5分の乗車時間、多分あっという間なのでしょうが・・・それでもやはり私には長かった😭。 そして!ロープウェイ・久能山駅を降りて最初の試練は、このとてつもなく長い急な階段・・また階段。

階段の途中から見る駿河湾の絶景、手前の白いコンテナのように見えるのはイチゴハウス。 ちなみに久能山は「いちご狩りの聖地」とかで、御朱印帳にも「石垣いちご」が描かれているそうです。

階段をおりきった先の受付で拝観料を支払い、美しい青唐獅子と牡丹の絵馬に出迎えられます。 この絵馬はご本殿の扉絵に使われており、獅子のように強く、牡丹のように優しく美しくのメッセージが込められているとか。

さぁいよいよ東照宮参拝、ほとんどの通路が石段や坂道と厳しい状況ですが頑張ります( ̄^ ̄)  その前に、簡単に「久能山東照宮」の成り立ちについておさらい。

死期が近づいたことを知った家康公は、自分が死んだら久能山に葬るように遺言し、さらに四項目を付け加えました。
「躰は西を睨ませ、立てて埋葬せよ」「葬儀は増上寺で行え」「位牌は大樹寺に立てよ」「一周忌の後、日光山に分祀せよ」。後にこの遺言が家康公の遺骸論争の火種になるのですが、長くなるのでまた後で。
元和2年5月より、二代将軍・秀忠により着工された「東照社」は、翌年12月(1617)に完成。また同時に分祀の為の「東照社」が下野(しもつけ)国日光に造営され、元和3年4月に完成。
現在の「日光東照宮」は、三代将軍・家光の「寛永の大造替(1634)」の際に大改築されたもので、同時に久能山の整備も命じ、それによって社殿以外の透塀や鐘楼、楼門等々が増築されました。
正保2年(1645)、朝廷より宮号「東照宮」が宣下され「久能山東照宮」の通称が成立します。
ロープウェイからの参拝者を最初に出迎えるのは、家光によって増築された朱塗りの楼門。

楼門の内側には、家康三十八歳の時の手形が展示され、当時の身長や体重も一緒に記されています。「身長155cm、体重60k」・・・、当時の男性としては平均的なんでしょうかね? それにしては、やはり静岡駅にあった実物大の草履の絵は、異常に大きすぎると思います(笑)

時代衣装に身を包んだ一行が市内を練り歩き、茶壺を久能山東照宮へ運び奉納する「お茶壺道中」。 「お茶壷様🙏」が鎮座するお籠が展示されていましたが、多分これが「お茶壺道中行列」に使われるのかも。

「久能山東照宮」、まだまだ続きます。

参拝日:2011年11月13日

 


家康公が愛したまち in 静岡県静岡市

2018年12月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡駅北口駅前広場に、駿府城公園の「鷹狩りの家康」と同じ彫刻家『堤直美氏』の製作で、手に采配を持ち西国を睨む五カ国時代の『徳川家康』像。

いまだ秀吉の下にあって、天下統一の時機をうかがっていた『家康』、50歳前後の像だそうです。

駅の広場には「家康公が愛したまち 静岡」のフレーズを冠したパネルが展示。 家康は「少年期・青年期・大御所時代」とその生涯の中で三度、駿府に居住しています。

今川の人質として駿府で過ごした幼年期の『竹千代』の銅像。 作者はやはり『堤直美氏』で、駿府時代の家康像がすべて彼の手によって製作された事になります。

どこを見ても家康尽くしの静岡市駅、家康の生涯を簡単に紹介したコーナーがあり、最初のスタートはわらじの絵から・・。なんとこれは家康が実際に履いていた実物大の草履だとか。

22cm弱と小さいほうの部類に入る私の足ですが、それでもこの大きさは半端ではありません。 昔、足の大きな『ジャイアント馬場』というプロレスラーがいましたが、それ位有るのでは。

で・・久能山東照宮には家康37歳の頃の手形が残っているのですが、手は普通よりも小さめ。 我が家のご亭主殿は靴のサイズ24.5cm、それに合わせて手もかなり小さい方です。 家康の手形に合わせてみるとほぼ同じ大きさ・・と言うことは家康公、足だけが異様にでかかった?!

久能山東照宮が出てきましたが、駅前には「久能山東照宮・国宝指定記念之碑」。 元和3年(1617)に創建された社殿は、江戸初期の代表的建造物として、本殿・石の間・拝殿が2010年12月に国宝に指定されました。この碑はそれを記念して建立されたようです。

このいわくありそうな塔は、静岡駅南口で見つけた「東照宮三百年祭祈念塔」。 大正4年4月17日に建立されたもので、「従是 弐里拾壱町(これより二里十一町)」とあります。
おそらくこの塔が建てられた場所から、久能山東照宮までの距離が記されているのでしょう。 が・・・せっかくの記念塔がこんなに自転車に囲まれて、しかも下はゴミだらけ・・ちょっと興醒めでした。

車泊旅で何度かお世話になった東名高速「日本平PA」の記念スタンプ。それもこれも含めて見事に家康一色。大阪・・ここまで太閤さん一色だったかな?

訪問日:2016年12月11日

 


駿州中屋・富士高砂酒造 in 静岡県富士宮市

2018年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

富士宮市宝町に店を構える「駿州中屋・富士高砂酒造」。建物は富士宮市景観重要建造物に指定。
【富士山麓の美酒、創業天保弐年、仕込み水の富士山伏流水(軟水)の素質により口当りの優しく少し甘味のある酒質、代々「能登杜氏」による「山廃仕込」「再仕込」等の味口造りです。】富士高砂酒造HPより

この日は酒蔵見学を予定していたのですが、先に団体の見学予約があり残念ながら諦めるしか無く・・ 前もっての予約ではないので、こればっかりは仕方ありません。気を取り直し、店内に展示されている歴史ありげな看板等を拝見させて頂くことに。右から左に「中屋」と書かれた古い看板は、今でも充分に現役が勤まる重厚さ。

同じく右から左に「七重櫻」の看板。添えられた美しい桜の花は、浅間のご祭神「木花咲耶姫」をイメージしているのでしょうか?。

「不二」は富士山の数多くある古名の一つで、「二つとない」という意味を持ちます。清酒「不二」も、きっと二つと無い美酒。

「吉野櫻」は精製味醂の銘柄で、あでやかな櫻と富士の湧き水が描かれています。 

「宮内庁御用達」の看板も右から左に書かれた古いもの、昔も今も栄誉な事だったんでしょう。 昭和の時代の皇室は、ただそこにおわすだけで有難い存在と思えたのですが・・・

そうこうしている内に団体さんの酒蔵見学が終わりました。入り口で最後の説明があるので、良かったら一緒にとお声をかけていただき、早速仲間入り。 昔のお酒の台帳とか、普段目にすることの無い興味深い品々、思わずうなずく秘話の数々。 短い時間でしたが、見知らぬ団体さんの中に混ぜてもらえて、本当にラッキーでした(*^^*)

でお味見の一舐めの口当たりの良さに・・・買ってしまった「高砂 梅酒:お茶入り」。味見のできないご亭主殿には「高砂 山廃仕込 大吟醸」。 実はお酒は一滴も飲めない私・・日本酒仕込みの梅酒なんて買って、どうするんだろう??

まぁ、駄目なら義姉へのお土産にしても良いじゃない♪と言い訳して、中屋さんを後に。結局、食前酒として5倍に薄め、超お気に入りのシェリーグラスで、三か月間楽しみましたとさ・・(^^;)

訪問日:2011年11月12日