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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

鳥取市内あちこちウォッチ~Ⅱ~ in 鳥取市

2017年04月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市上町93、鳥取東照宮にほど近くに建つ「樗谿(おうちだに)グランドアパート(旧佐々木邸)」

昭和5年(1930)に竣工。擬洋風の意匠が加えられた建物は、当初、医院となる予定でしたがそのまま個人の住居となり、戦後は進駐軍の宿舎として増築。数少ない戦後の占領期の遺構として、2016年2月、市の指定文化財に登録されました。

和洋折衷の住宅と、進駐軍宿舎が融合した不思議な洋風建築。ネットなどに内部の公開画像があり拝見しましたが・・私は外観だけで充分。

鳥取市二階町、智頭街道と通称二階町通りの交差点角に立つ「五臓圓ビル」。ビル名は、この場所で「三心五臓圓」という薬を売っていた薬業店舗が由来で、 今も一階は五臓圓薬局として営業されています。

「角地に建つ鉄筋コンクリート造3階建、建築面積119㎡で、陸屋根とする。外壁はスクラッチタイル貼で、北隅を四分一円弧の曲面として上下に額縁を付し、パラペットも高めて隅部を強調する。昭和6年(1931)建築。鳥取市内で現存最古の本格的な鉄筋コンクリート造建築である。」文化遺産オンラインより

鳥取市元大工町にある「高砂屋」。城下町とっとり交流館サイトには「明治の中ごろに鳥取市・元大工町の薬研堀(やげんぼり)沿いに移り、綿商いを行ってこられた商家を所有者より鳥取市に寄贈していただき、まちの記憶として活かし続けるよう、「城下町とっとりの交流拠点」として整備を進めてきたものです。」

街道沿いに並ぶ住居棟 店舗棟。鳥取大震災、鳥取大火を経て残された貴重な建物は、奥の三つの蔵とともに、市登録有形文化財に指定されています。

鳥取市西町1丁目に建つカトリック鳥取教会。明治21年(1888)神戸教会の巡回教会として設立されましたが、昭和18年(1943)の鳥取大震災により倒壊。現在の建物は、昭和33年(1958)の再建です。

昭和33年(1958)3月3日、「日本海テレビジョン放送株式会社」が設立。鳥取市田園町、緑地の一画には「JOJX-DTV 日本海テレビ開局の地」碑があります。

開局記念碑の横に「夢を描いて 悔いなき人生 八十二才」と刻まれた鳩のレリーフ。名前もあるのですが、画像が不鮮明で・・誰が何を意図したのか全く不明(-"-)

鳥取市西町3丁目に「童謡・唱歌」「おもちゃ」をテーマとして開館したミュージアム「わらべ館」。ネーミングからはちょっと想像できない外観は、建物の前身が「旧鳥取県立鳥取図書館」であった事に由来します。

昭和5年(1930)、公共建築物を多く手がけ、ネオゴシック様式を好んで用いたという『置塩章(おしお あきら)』氏の設計で建設された「鳥取図書館」。

昭和17年(1952)、鳥取を襲った大火で市街地のほとんどの建物が焼失する中、かろうじて焼失を免れた旧図書館でしたが老朽化により保存困難となり・・。1995年7月7日、山本浩三氏の設計により、旧図書館の外観を復元した状態で、童謡・唱歌をテーマとした博物館として開設される事になりました。

歴史的建造物では無くなったものの、それでも往時の外観をとどめた建物は私の目には時代を彷彿させる歴史的建造物。むしろ何でもかんでも、今風にモダンで現代的で・・とならなかった事に感謝したい気分です。

建物入り口に置かれた“たまごオブジェ”は「誕生」「創造」の象徴。この建物が、新たな命を吹き込まれて今ここに存在する事をも表しているような、そんな気がします。

鳥取城址:久松公園入口に1973年建立の「ふるさと 音楽碑」。文部省唱歌「ふるさと」は鳥取市出身の音楽家『岡野貞一』の作曲。

♪ うさぎ追いし~かの山 こぶな釣りし~かの川 夢は今もめぐりて 忘れ難き~ふるさと ♪・・わすれがたき ふるさと・・・

訪問日:2012年4月16日

 


鳥取市内あちこちウォッチ~Ⅰ~ in 鳥取市

2017年04月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市立川町、三洋電機(現・三洋テクノソリューションズ鳥取)内に残された近代木造建築「歩兵第40連隊・岩倉兵営跡」

事前予約なしの為、写真撮影は遠目からのみ。それでも敷地内に入らなければという事で許可を頂けた事に心から感謝します。

旧藩主池田公爵敷地献納の承諾を得、明治31年(1898)に建てられた「鳥取歩兵四十連隊兵舎」。一世紀以上を経た今も現役で使われています。

お安いコンデジですが、精一杯頑張ってくれました。

同じく鳥取市立川町、県道291号線に面して建つ「国登録有形文化財:立川吉村家住宅」。間口が広すぎてどこからが主屋でどれが通用門なのか・・実は良く分かっていません(^^;) 文化遺産オンラインによれば「立川吉村家住宅主屋 及び 通用門:切妻造2階建の大規模な主屋。大棟及び一間幅の庇はともに石州瓦葺で、2階をなまこ壁とし軒裏を漆喰で塗り込める外観は特に目を引く。」

建築時期は明治中期(1868~1911)

立川吉村家住宅付属棟

問題はこの右の建物が何なのか?? 良い佇まいの建物だと思うのですが、特に資料とかは無いようです。

鳥取市と言えば「麒麟獅子」。国府町の宇部神社で麒麟獅子に頭噛みをして頂いたご亭主殿・・ここでも頭を差し出していますが・・・でもね、それ・・ベンチの飾りです・・(ーー゛);

鳥取駅近くの鳥取中央郵便局交差点、優雅に椅子に座った紳士は元鳥取県知事『石破二郎』氏。参議院議員として鳥取県の発展に貢献した人物だそうです。

鳥取市栄町にある「鳥取民藝美術館」。土蔵風の一群の建物の前に建つ多角形の建物は「童子地蔵堂」

中に安置されている154体の地蔵は子どもの墓としてつくられた地蔵だとか。無縁仏になり鳥取市内の寺に放棄されていたものをここに納めたと、案内にありました。

鳥取市尚徳町に残る、市指定保護文化財「箕浦家武家門」

「この武家門は、もとお堀ばたの南隅にあって2千石の箕浦近江宅の門でした。昭和11年に大阪の素封家広岡松三郎氏の寄贈によって現位置に移築保存されたものですが、今日では、鳥取が城下町であったことを語る貴重な建物です。」現地案内より

鳥取市公文書館前に建立された『岸本辰雄』氏胸像。「鳥取藩の推薦を埋めて大学南校(現東京大学)に入学し法律を学び、フランスへ留学。帰国後判事となる。その傍ら。宮城浩蔵。矢代操らとともに明治法律学校(現明治大学)を創設し、校長となった。」現地碑文より

鳥取城址:久松公園向かいに建立されていた「石谷董九郎(いしがやとうくろう)」顕彰碑。「岩美郡岩美町恩地の大庄屋石谷藤四郎の長男として生まれ、明治27年に衆議院議員となり国政に参画。中断していた山陰本線敷設の再開に尽力し、更に鳥取農工銀行を設立。鳥取県最初の鳥取電灯会社を創立し、翌年には「仁風閣」をはじめ、市内にはじめて電灯をつけるなど、実業界での業績も大きく郷土の発展の原動力となった人物」現地案内より

顕著碑と並んで『池本利美』氏の歌碑

【 白々と 砂丘も海もかすみたる 風の光となりて歩めり 】

訪問日:2012年4月16日

 


旧鳥取高等農業学校:校舎 in 鳥取市南吉方 

2017年04月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市南吉方、旧三洋電機南吉方工場の敷地に「鳥取高等農業学校:旧校舎」が残されていると聞き、早朝よりやってきました(〃∇〃)

大正時代中期 (1920年頃) の官立高等教育機関大増設の中で、大正9年(1920) に設立された高等農林学校 (高農)。大正11年(1921)に建設された赤煉瓦と青緑の壁を持つ洋館、アーチ型の玄関。初めてこの建物を見た人はどんな感慨を抱いたのだろう。

創立時は、本科に農学科・農芸化学科の 2科を設置 (後に獣医学科を増設)。昭和17年(1942)に林学科を増設し、鳥取高等農林学校と改称、さらに第二次世界大戦中に鳥取農林専門学校 (略称: 鳥取農専) と改称。

沿革の中に建設費用に関する項目があり、それによれば設置費 66万円のうち一般募集で集まった金額は40万円強。 県費負担は 22万円、不足分の4万円弱は県立農学校基本財産からの流用。いつも、いつも同じ感想を抱いてしまうのですが、かってこの国の人たちが教育に賭けた思い、願い、情熱・・何と熱い事だったのかと。

遠目からでもはっきりと目立つ独特の色合いの校舎は、個人的にとても好きな『辰野金吾』の設計。外観はルネッサンス風の優雅さを持ち、屋根中央部には小さな望楼がアクセントを添えています。

時代の流れを受けて旧校舎は三洋電機南吉方工場の敷地の一角に木造2階建の玄関部分を残すのみとなり、それも同社の工場閉鎖・敷地売却に伴い2013年3月末までに解体されることになりました。それを押しとどめたのは、この学び舎を巣だっていった鳥取大学農学部の同窓会メンバーたちでした。様々な働きかけを受け、三洋電機側は旧校舎建物を残したまま敷地を売却。

その後どのような経緯が流れ、現状がどうなったのか・・2016年の日本海新聞によれば「白亜の洋館」に生まれ変わったという一文をちらっと眼にしましたが・・・

どのような形になったとしても歴史ある建物が残されているという事に素直に感謝したいと思います。たとえ、新しく装いを変えた「旧校舎」の姿をこの目で見る事は無いとしても・・

訪問日:2012年4月16日

 


玄忠寺(げんちゅうじ) in 鳥取市新品治町

2017年04月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市新品治町に門を構える浄土宗寺院「大唐大巖深心山九品院:玄忠寺(げんちゅうじ)」

永正5年(1508)、鳥取城下湯所の高浜地にて開創と伝わる。3度の類焼で矢野地(材木町)、寺西地(西町)、玄忠寺横町(玄好町)に転地。万治3年(1660)の類焼によって、鳥取の西玄関現在地に転地。寛政12年(1800)に類焼、5年後の文化2年に現在の本堂・山門・鐘楼を続いて建立。

伊賀国上野「鍵屋の辻」の決闘で広く知られる剣豪『荒木又右衛門』の菩提寺として知られ、境内にはその所縁の品や資料を展示する荒木又右衛門遺品館が設けられています。

三重県伊賀市小田町に残る「史跡 鍵屋ノ辻」碑(2015年9月訪問)

義弟『渡辺数馬』に仇討ちの助太刀を頼まれ、寛永11年、見事に仇討ちの本懐を遂げた又右衛門。彼の墓前には花や香華の絶える事無く、多くの人々に大切にお守りされている事が窺えます。

「戒名:秀誉行念定門」

地蔵菩薩立像と六地蔵堂

「念ずれば花ひらく(坂村真民)」

達筆すぎて書かれている内容は読み取れていません 分かったのは最後の署名だけ・・(-_-;) 「東大寺 長老 公照 拝書」

羅漢襖絵の前にて。「玄忠寺庫裏には羅漢を描いたユニークな襖絵があります。昭和58年、今は亡き鳥取県倉吉市の墨彩画家、高木啓太郎先生によって描かれました。羅漢が襖の上に浮かんで見えたとのこと、44面の襖絵を僅か1日半で描かれました。」公式HPより

御朱印「羅漢堂」

「翡翠の原石:因幡の国若狭から崩れた原石は八東川を下り、曳田の瀬で最良の翡翠となる。宝石を求め来た大国主命と採取を支配した八上家の姫が結ばれた」現地説明より・・・・翡翠といわれて翡翠色の石を想像してしまうあたりがド素人の極み(笑) 新潟の翡翠海岸に行った時も同じ勘違いをしていた事を改めて思い出しました。

参拝日:2016年10月20日

読み取れない碑文、内容(全文)ご存知の方は是非コメント欄にてご教授いただければ幸いです。

 


鳥取東照宮(樗谿(おうちだに)神社) in 鳥取市上町

2017年04月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市上町に鎮座される「鳥取東照宮」。御祭神は『東照大権現』。配神として『池田忠継・池田忠雄・池田光仲・池田慶徳』を合祀。

神社創建は慶安3年(1650)、鳥取藩初代藩主『池田光仲』によって造営。光仲はわずか3歳で藩主となり、慶安元年12月(1649)に初のお国入りを果たし、藩主としての威厳を示すため鳥取城下への東照宮勧進を幕府に願い出て許可されました。慶安3年(1650)に因幡東照宮が完成。明治7年(1874)3月、樗谿神社に改称し、池田忠継・忠雄・光仲を合祀、同時に県社に列格。さらに明治11年(1878)、最後の藩主・慶徳を合祀。2011年10月、本来の名称が「因幡東照宮」であったとの理由から鳥取東照宮に改称。

2012年参拝時の鳥居には「樗谿神社」の社号額。おそらくこの後早々に、冒頭の「東照宮」社号額に変えられたものと思われます。私にはよい記念になりました。

切妻、三間一戸、本瓦葺薬医門形式の「神門」は、鳥取城の城下町にあった武家屋敷から移築されたもの。

神門の先に広がるのは樗谿公園となっており、市街地では珍しい「ホタルの里」として知られています。

参道正面に切妻、銅板葺八脚単層門の「随神門」。三間一戸、桁行3間、張間2間、外壁は真壁造り板張り。

2012年の参拝時、「随神門」には社号額は架けられていませんでした。

境内には、「東照宮」を造営した際に、池田藩の重臣たちが寄進した20基の石灯籠が並びます。深い緑の木立を背景に整然と立ち並ぶ燈籠群・・一段高い拝殿から見るその光景は、荘厳ともいえる美しさを見せつけています。

桧皮葺木造平屋建て、入母屋平入の拝殿。桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。後方に入母屋、桧皮葺、桁行1間、梁間2間の幣殿が続きます。

桧皮葺の唐門(中門)は、平唐門、一間一戸。

入母屋、桧皮葺の本殿は、桁行3間、梁間2間、1間向拝付き。扉に施された鷹の彫刻は左甚五郎が手懸けたものと伝えられています。

玉垣左右の石灯籠は池田光仲の子、池田新五郎(2代藩主:池田綱清)の奉納。

慶安3年(1650)建立の樗谿神社の本殿、拝殿、幣殿、唐門は江戸時代初期の神社社殿建築の遺構として大変貴重な存在であるとして、昭和27年(1952)に国指定重要文化財に指定されています。

「池田慶徳顕功碑」

こちらの碑、かすかに文字があるのは見て取れますが、仔細は不明。

神輿庫近くにあった句碑・・残念ながら該当する資料も無くこれも読み取れず。碑を見るのは好きなのに、文字を読み解く才が無い・・これは致命的な欠陥だと自分でも思う (-_-;)

【  とんぼ一つ 風にさからふ 水面なり  】尾崎放哉句碑

境内に咲いていた「八重咲の紅白美人」。艶やかさに見送られて・・

参拝日:2012年4月16日&2016年10月20日

読み取れない碑文、ご存知の方は是非コメント欄にてご教授いただければ幸いです。

 


聖(ひじり)神社 in 鳥取市行徳

2017年04月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市行徳2丁目に鎮座される「聖(ひじり)神社」。御祭神は『邇邇藝命(ににぎのみこと)・日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)・事代主神』。御神紋は「五七の桐」、市民からは「聖さん」と呼び親しまれています。

「創建は不詳、棟札より宝永七年(1710)に本殿再建。その後寛政年間(1789 ~1801)に改築。拝殿は文化十二年(1815)の造営。「因幡志」に、「社伝に曰く、祭神は二座、吾勝尊・瓊瓊杵尊。行徳村の「聖大明神」が安永五年(1776)八月に正一位を授かった。」明治初期に恵比寿社を合祀。明治4年、郷社に列される。」

社殿の全景は2012年の参拝時、実はこの直ぐ後2012年6月から~2014年にかけて保存修理が行われています。もちろん、そんな事があると前もって知っていたわけでも無くその期間も知りませんでした。そういう意味ではとても貴重な一枚になりました。

こけら葺入母屋づくりの本殿は、正面1間向拝付、外壁全面に精緻な彫刻が施された建物で、棟梁は大匠『藤原十河彦太夫政次』。江戸時代中期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重なことから昭和32年(1957)に鳥取県指定保護文化財に指定。

参道真っ直ぐに入母屋造平入・銅板葺の拝殿は、正面に千鳥破風。文化十年(1813)の再建で正面に軒唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り。拝殿右手に悠然とそびえるのは市指定保存樹林の大イチョウ。樹高・28m、樹齢は290年以上と言われており、大ケヤキと共に鎮守の森と仰がれています。

向拝虹梁には鯉に乗る「琴高仙人」。わずかしか見えていませんが破風には牡丹の彫刻。

向拝木鼻には、大きく身を乗り出して威嚇の姿勢をとる獅子一対。色の無い木彫りの獅子の口中は赤く、真っ白くギトギトに光る牙の間から覗く舌先。ランランと光る眼はしっかりと獲物の姿を捉えてハタと睨みつける!

静かに静かに・・捕らえた獲物ににじり寄る獅子の姿・・思わず後じさりしたくなるような、それでいて魅入られたかのように一歩も動けない。これほど迫力のある木鼻の獅子にお目にかかるなんて、滅多にありません。

側面の木鼻には・・・豹かそれとも虎? グイと顎を突き出した口元からは獲物を前にした歓喜が見えるような (゚Д゚il!)

真下で見るから迫力がありすぎるのだと、数歩退いて見上げれば・・ああ、お日様の光を顔に受けて獅子が笑って見える (*´꒳`*ノノ゙

木鼻の上にある屋根下の手挟みには竹林に潜む虎。

他にも反対側の手挟みや蟇股に気になる彫刻が一杯あったのですが、こういった手の込んだ細工を写すには、私たちのデジカメはお手軽すぎて・・・そんな訳で本殿彫刻もごく一部のみ。

「木鼻、肘木、尾垂木等に浮彫りを施し」・・豪華絢爛という形容がまさにぴったり当てはまる彫刻の数々・・

目を凝らせば随所に様々な神獣や神々の姿が見えてきて、あれこれと詮索し合う楽しさに夢中になり、いつの間にかカメラの存在も忘れてしまう(-_-;)

隅尾垂木は上から龍・鳳凰・象。

向拝の海老虹梁には荒波に潜む伊勢海老・・残せたものは本当に僅か。

胴羽目の彫刻「巨巌に波浪の図」「鷹と猪の図」

廻縁下。一番下には十二支の彫刻が施されています

境内末社:「稲荷社」、御祭神は『保食神』

2016年の再参拝、朱塗りの鳥居は塗りなおされ、沢山の幡が奉納されています。四年前に居た筈の神狐さんたちはどちらに納められたのでしょうか?

南参道から拝殿に向かう途中より神域を守護される昭和58年(1983)建立の機械彫り出雲構え狛犬一対。

2012年・2016年の二度に渡る参拝、それでもふり返ってみればあそこもここも画像に残し忘れたと悔やむことしきり。結局は余裕を持たない所為だと、本人が一番自覚しています(-_-;)  

ラストは手水舎の隣に見つけた不思議な木。大きな木のコブ・・と言ってしまえば確かにそうなのですが

まるで小さな小さな赤子が、両手を母親の乳房に添えたまま眠ってしまったような・・そんな風に見えます。自然は時として本当に突拍子もない悪戯をして、私たち凡人を驚かせてくれますね。

参拝日:2012年4月16日&2016年10月20日

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御神名一口メモ

『日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)』、別称『山幸彦(やまさちひこ)&火遠理命(ほおりのみこと)&吾勝尊(あかつのみこと)』とも称す。『邇邇藝命(ににぎのみこと)』の第三子で『神武天皇』の父。

 


山王宮日吉(さんのうぐうひえ)神社 in 鳥取市布勢

2017年04月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市布勢、標高40mの卯山山頂に鎮座される「山王宮日吉(さんのうぐうひえ)神社」。御祭神は『太山祇大神・太山咋大神』。地元では「布勢の山王さん」と親しまれています。

由緒に、創建は文和元年(1352)、室町時代の因幡守護大名山名時氏が、文和3年(1354)に布勢天神山に城を構えたとき近江国の比叡山山麓坂本の日吉大社の分霊を勧請し、祀ったのが始まりと伝えられています。「子供の守り神・安産の神・忌み厄を除く神」として崇められ、人々の崇敬を受けています。

まずは手水舎で心身を清めるのですが・・こちらでは打ち出の小槌を持ったお猿さんに出迎えられます。

手水舎の脇に鎮座される「水神」。参道近くには「日吉神社創紀六百年」記念碑。

境内まで続く石段は最近に整備されたようで、高さも幅も歩きやすく、さほどに疲れを感じずに済みそう。

石段参道の踊り場から参拝者を見守るのは、幣を持った神猿(まさる)さん。対面には子供を抱く神猿さん。

拝殿縁の左右より、金幣を手に神域を守護されるのは明治三十三年(1900)旧十月建立の神猿さん一対。

一対と書きましたが、その表情、全体から受けるイメージからして、おそらく左右それぞれは別の石工によるものと思われます。

本殿両脇より神域を守護されるのは昭和25年(1950)5月5日奉納の神猿さん一対。向かって右は「金幣」を担ぎ、左は子猿を抱き抱えています。

本殿下に納められた沢山の神猿像

御本殿玉垣の左右に奉られる随身様。隋神門ではなく御本殿の側近くというのはあまりお見掛けしません。

「椿の御神木」を背に鎮座される境内社「天穂日命神社」。御祭神は『天穂日命』。延喜式神名帳にある「天穂日命神社(因幡国・高草郡)」に比定される式内社(小社)の論社とされます。

境内社「小日吉神社」。祠の左に延びる石段を上がれば「布勢城跡」・「布勢古墳」に至るそうですが、この後を考えて自粛 (-_-;)

「布勢古墳」に続く通路の手前にあった碑は、松保村青年団が昭和22年に建立した「生々無窮(むきゅう)」の碑。「無窮」とは、永遠に極まりなく続く事、無限、果てしないこと・・・・・

参拝日:2012年4月17日

 


江津(えづ)神社 in 鳥取市江津

2017年04月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市江津に鎮座される「江津(えづ)神社」。御祭神は『武甕槌命(たけみかづちのみこと)』。鳥居には「弘化四(1848)丁未年九月吉日」の刻。

古来より「武王大明神」と称され、明治元年に「江津神社」と改称。境内に稲荷神社を合祀。昭和初期まで千代川の中程に在りましたが、昭和4年の河川改修に伴って現在地に遷座。春祭り(例祭)と秋祭りの年2回、麒麟獅子舞が奉納されます。

鳥居から真っ直ぐ入母屋妻入の拝殿へ。参道両脇より神域を守護されるのは四対の狛犬さん。

来待石の宿命とは言え、なぜ阿形さんの顔だけがこんなにも被害を受けるのか・・・流石にこんなに続くと切なさに襲われます。

おそらくこちらが最も古い狛犬さんだろうと思われます。それでも・・片隅に追いやられる事も無く、きちんと台座に置かれている事は・・氏子の方々の想いが感じられて微笑ましくさえあります。

拝殿より近くにて神域を守護されるのは、むっくりとした体に大きな目を見開く来待石の狛犬さん一対。石工名はありませんが、台座には「嘉永七年(1854)申寅九月吉日」の刻。

正しい姿勢のお手本を見せなさいと言われて、お行儀よくポーズをとる阿形さん・・セリフは各自ご自由に(笑)

明治元年に合祀された境内社「稲荷神社」。入母屋造平入、正面に大千鳥破風を置き、向拝は唐破風。こじんまりしてますが凝った細工のお社です。

唐破風部分の竹と笹の意匠が斬新。

参拝日:2012年4月17日

 


船玉(ふなたま)神社&水戸(みなと)神社 in 鳥取市賀露町

2017年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「賀露神社」の境内の一画に奉納されていた「北前船の大碇」。横にあるのは「カニ漁のスクリュー」。いずれもこの賀露漁港を支えてきた陰の立役者たち。

境内左手に鎮座される摂社「船玉(ふなたま)神社」。御祭神は『事代主神』

かっては「恵美須大明神」と呼ばれ、漁業の神である御祭神が鎮まる地を守護されるのは、二対の狛犬さん。

石段上左右より神域を守護される出雲丹後型の狛犬さん一対。どれほどの年月をここで過ごされたのか想像できませんが、阿形さんの顔は少しずつ面影を失いつつあります。

社殿のより近くより神域を守護されるのは、強烈なお獅子顔の出雲丹後系狛犬さん一対。「平成元年(1986)拾貳月吉日」の刻。

今でも島根県松江市では、来待石を用いた狛犬さんが石工さんによって制作されています。実際の現場を見せて頂いた事がありますが、狛犬好きにとっては思わず手を合わせたい光景でした。

感謝の思いを込めて、端正な後姿

社殿の奥に建立されていた陸軍大将 一戸兵衞 書 忠魂碑

境内に戻り、本殿右手に鎮座される「水戸(みなと)神社」。御祭神は、河口・港の守護神『瀬織津彦命(せおりつひこのみこと)・瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)』。かっては「水戸大明神」と呼ばれていました。

社殿のより近くにて神域を守護されるのは笏谷石狛犬さん一対。いわゆる「禿」、別名「ダース・ベイダー」、またの名を「スフィンクス」。禿以外は筆者が勝手に命名。で・・肩を落とす吽形さんに「喝」を入れる阿形さんの図(笑)

「(吽)いいんだ・・・どうせ僕なんて片足しか無いし・・そのうちここで朽ちるんだ・・」「(阿)なんだよ~。辛気臭ぇなぁ~。俺だって片足だぞ。それによぉ、俺なんてそのうち顔も分らなくなるんだぜ!」・・慰めになってない気が(^^;)

御本殿と拝殿の間に枝を広げる御神木「黒松」。樹高、22~29m、樹齢は400~500年と言われています。

ラストは拝殿の隣に並ぶ神輿庫切り妻の部分にあった双竜の彫刻。構図の面白さもさる事ながら、向かい合った龍の表情が、とっても漫画チックで気に入りました。

境内の一隅に建立されていた『出口王仁三郎』歌碑

【 海鳥の 声かしましく賀露ケ浜の あしたになきて 波の音高し  】

境内にたむろするチャボの軍団(笑)。これもやはり「神鶏」と捉えるべきなのかしら?

賀露神社の麒麟獅子舞の案内。因幡地方では約150の神社で麒麟獅子舞が行われています。その中でも賀露の麒麟獅子舞は漁師の町らしく勇壮で力強い舞いが特徴という事で・・いつかはこの目で見てみたい祭事の一つ。

参拝の道すがらにお見掛けした「忠魂碑」は「陸軍大将 一戸兵衞 書」。改めて立ち寄り、二人揃って手を合わせ、私たちは「賀露神社」を後にしました。

参拝日:2012年4月17日

 


賀露(かろ)神社 in 鳥取市賀露町

2017年03月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市賀露町北、日本海が一望できる丘陵に鎮座される「賀露(かろ)神社」。御祭神は『大山祗命・吉備真備公・猿田彦命・木花咲耶姫命・武甕槌命』。賀露の高台にある広い駐車場、境内に面して建つのは三の鳥居。

国道沿いに面して建つ一の鳥居からの参道はとても急で長い石段。で、ご亭主殿一人で鳥居の写真を撮るべく二の鳥居まで下る事に。鳥居には「紀元二千六百年(1940)」「芳包刻」の刻。

石段から見る賀露港の光景。写真で見る海はとてもおだやか。真下に見える鳥居の位置は・・・物凄~~く既視感(((((^_^;)

長い石段先の「隋神門」は、宝暦12年(1762) 藩の寄進により建立。藩主池田氏の「揚羽(あげは)紋」が刻まれていたと知ったのは帰宅後の話(^^;)

ガラス戸が設けられており、内には出雲丹後系の狛犬さんがいて、写真に残せたのは吽形さんだけ。それでも良いお顔だったと話してくれました。

随身門の天井絵は極彩色の「龍」。

江戸時代には歴代藩主である池田氏の祈祷所としてあつい保護をうけ、社殿や社領など多くの寄進を受けました。藩主が船遊びをされた際には必ず当神社へお参りになられたといわれ、また参勤交代の折にも必ず参拝をしたと云われています。  

参道正面には拝殿。社殿にかかる「賀露神社」の扁額は、15代将軍徳川慶喜の実兄『池田慶徳』の自筆と知ったのもやはり帰宅後の事。

拝殿左右には多くの石灯籠があり、2対の狛犬さんと一対の虎象さんが神域を守護されています。

手前より出雲丹後系の狛犬さん一対。大きく開けた阿形さんの口はすでに剥落が始まっています。来待石の特性と言ってしまえばそれまでですが、まだ今なら・・と思うのは素人考えなのでしょうか。

「(吽)お前さぁ・・もう少し口を閉じてたら、そんなに酷くならなかったんじゃねぇか?」 「(阿)そんな事言ったって、元からこうなんだから仕方ねぇべ」

そんなおしゃべりに聞き耳を立ててしまうのは、インベーダを想起させる出雲丹後型狛犬さん一対。阿形さんのつんと尖っていた筈のお鼻にも僅かずつですが剥離が見られますます。そっくり返るように天を仰ぐ吽形さん・・何を思うのか。

「(吽)お前ってさぁ、あいつらみたいに大口開けてたことないよなぁ・・」「(阿)・・ないよ・・・ (-。-)ボソッ」

拝殿前左右より神域を守護されるのは、花崗岩製の虎像さん一対。台座に刻まれた奉納者『秋本岩蔵』は、かって賀露から朝鮮半島に渡ったという人物。彼の地では「虎」は神聖な動物とされていた為、鳥取の石工に頼んで奉納したものと思われます。台座には「大変珍しい虎の狛犬です」のプレート。虎なのにやっぱり犬なんだ・・・(^^;)

「(阿)なぁ、吽よぉ。俺ら 狛犬って言われてるんだぜ。お前どう思うよ?」「(吽)へっ、好きなように呼ばしときゃいいさ。何と呼ぼうが虎に違ぇねぇんだからよ」

「大正十一年(1922)壱月」「鳥取 前田石工所作」の刻。後姿がハッキリ!きっぱり「虎」であると主張しています(笑)

境内社「船玉神社」&「水戸神社」明日に続きます。

参拝日:2012年4月17日