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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

『石工・ 川六』 東村神社 in 鳥取市青谷町

2017年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市青谷町河原に鎮座される「東村神社」、御祭神は『茅野姫命・保食神』

参道入口は、蓮の花型をした手水鉢と石灯籠との間にある、かなり勾配のきつい石段。石段入口、右手には「明治五年壬申■旬」と刻まれた石灯籠。左手には蓮の花を象った手水鉢。

「『石工・ 川六』文久四年(1864)一月奉納」「元治元年子正月日、河六作」の刻。

蓮型の手水鉢の縁に前脚をかけ、身を乗り出して水を飲もうとする大きな亀。亀の右側には、足場が悪くて画像に残せなかったのが悔しい2匹の子・孫亀。これらのすべてが一つの石から彫り出されていると知った時の驚き、世界に名だたる彫刻家の作品が子供の遊びくらいにしか思えないほど感動しました。

辛うじて、親亀を真似て水面を覗き込もうとする子亀の姿が・・・ (>_< )

1500坪あまりの社叢を有する東村神社・一の鳥居。石段参道の先に随神門。

瑞垣に囲まれた流造の本殿。石灯籠には「天保十三年二月吉日」の刻。創始は不詳。古来よりこの地には『茅野姫命』を祀る「松山大明神」ありと伝えられ、明治元年(1868)に境内社「稲生大明神」を合祀、それにより「東村神社」としました。

隋神門

隋神門から石段参道を登って正面に、入母屋造妻入、軒向拝の拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、自然石の岩場をよじ登る「石工・川六 安政四年(1857)二月建立」の構え狛犬さん一対。

渾身の力をじっと深く深くため込む吽形さん。微動だにしない静の姿勢からにじみ出る気迫の凄さに圧倒され

それだけに、失くした前足の空白が胸を揺さぶります。

岩に登り低く身構える阿形さん。岩場の一段低い部分にかけられた足が最後のひと踏ん張りを思わせて力強く。

右手に掴んだ珠に食い込む爪の力強さが、見る者を圧倒させます。

でもって、〆はしっかりと両足を踏ん張るキュートな後ろ姿~💗

拝殿近くにあった建物。舞殿にでも使われたのだろうか?

エリンギみたいだと言ったら、大笑いされた石灯籠(笑)

参拝日:2012年4月18日

 


『石工・ 川六』 利川(はやかわ)神社 in 鳥取市青谷町

2017年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市青谷町早牛(はやうじ)に鎮座される式内社「利川(はやかわ)神社 」。御祭神は『速開津比咩命(はやあきつひめのみこと)・速佐須良比咩命(はやさすらひめのみこと )・瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)』『素盞雄命・保食神』を合祀します。

「利川神社」参拝、一番のお目当ては、石段を上がった先の右手に置かれた「手水鉢」。もちろん、わざわざこの為に参拝に来たのですから並の手水鉢ではありません(笑)

蓮の花を象った手水鉢と狛犬は、『石工・ 川六』安政六年(1859)己未九月建立」。樋の位置から見て、湧き水などを利用し逆サイホンの発想で狛の口から水が出る仕掛けだったように見えます。こうした工夫が凝らされた手水でこの時代の物は、他に長崎諏訪神社にしか確認できていません。

蓮の手水鉢

〆はとってもキュートな後ろ姿~💗

石段を登った先に神門、形から想像するに隋神門だったのではないかと想像。

創祀年代は不詳、かっては「大森大明神」とも称した古社。寛文七年(1667)6月11日、因幡鳥取藩主池田光仲が社領として五石を寄進し、元禄十二年(1699)には釣鐘を新鋳。また「鳥取県神社誌」によれば、字中瀬の地に鎮座していたが、台風により社殿が被害を受けたため、享保十年(1725)に末社であった荒神の森の現在地に遷座。明治五年に郷社に列し、大正六年、字西村の「山根神社」と、境内社「稲生社」を合祀。

ご本殿扉の彫刻は、「丸に一文字(まるにいちもじ)」の神紋。

本殿向拝虹梁上には、波頭を駆ける龍

切妻造妻入、軒向拝の拝殿前左右より神域を守護されるのは天保六年(1835)未十月吉日建立の、出雲構え狛犬さん一対。もともとの石の性質なのか、それとも長い年月の故なのか角が取れて全体に丸い印象。

社殿の左側に祀られる「境内社」。大正六年の合祀に際し、山根神社より還座。

流造の社殿、胴羽目彫刻背面に「鷹襲小鳥」。松の枝間より小鳥を襲う鷹

右側面彫刻・「登龍の鯉」

左側面彫刻「唐獅子牡丹」

獅子のアップ

早牛川に架かる神社橋

参拝日:2012年4月18日

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御神名一口メモ

『速開津比咩命(はやあきつひめのみこと)』水戸(みなと)の神、河口の神 で祓いの神。祓戸四神 の一柱 。

『瀬織津比咩命(せおりつひめのみこと)』、罪や穢れを祓い清める祓戸四神 の一柱 。

『速佐須良比咩命(はやさすらひめのみこと)』、『気吹戸主』の息吹によって運んだ根の国すべての罪や 穢 を祓い捨てる。祓戸四神 の一柱 。

 


『石工・ 川六』 潮津(うしおづ)神社 in 鳥取市青谷町

2017年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市青谷町青谷に鎮座される「潮津(うしおづ)神社」。御祭神は『大国主神・八上姫神・保食神・菅原道真公』

創建は不詳。もと「王子権現」と呼ばれ、潮津村の氏神として崇敬された。寛文7年(1667)、鳥取藩主池田氏より1石3斗5升の社領の寄進を受けた事が記録される。明治元年に、空町の「稲生大明神」と境内末社「天満宮」を合祀し、潮津神社に改称しました。

この地域では珍しい唐破風屋根の拝殿、目貫には筋肉隆々の「力神(りきじん)」彫刻。

石段上、境内入り口左右より神域を守護されるのは「『石工・ 川六』安政四年(1857)八月建立」の構え狛犬さん一対。

海石を台座にした迫力ある姿に思わず目がハ~~~ト💗 もっと違った角度から写したかったのですが・・・生け垣が邪・・・あ、いや、足場が悪くて(((((^_^;)

吽形さん両の手の下にある四角い台座、何かしらの文字が刻まれているようですが・・ええ~と「夏泊 若連中」。先に参拝した夏泊神社と何か関連があるのでしょうか?

そして〆はしっかりと足を踏ん張るキュートな後ろ姿~💗

更に拝殿前左右には天保6年(1835)、慶応2年(1866)建立の燈籠があり、笠の上にも狛犬さんが一対。かなりの強面ですが、ピンと上げた尾が妙に可愛らしくて !(^^)! 川六の吽形さんの尾の上に取り付いていた顔の正体は・・実はこの子(笑)

古い時代の鳥居の名残でしょうか?まるでこの場所の為に誂えたかのように、すっぽりと収まっています。

海石で作られた手水鉢。不思議な生き物のように見える・・

宿場町として栄えた潮津村。「潮津神社」の向かいに建つ「山名屋」は屋号を亀屋とし、元廻船問屋で建物は江戸後期の建築と言われています。

この潮津神社の後方に「専念寺」があり、その参道の途中にも、川六の作品があったと、これは後に知った事。潮津神社の狛犬より三年早い嘉永6年に作られた「地蔵菩薩座像」。知った時の落胆は、とても言葉に出来ません。

参拝日:2012年4月18日

 


『石工・ 川六』 夏泊(なつどまり)神社 in 鳥取市青谷町

2017年04月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

2016年10月「鳥取車中泊の旅」の初日、道の駅・清流茶屋 かわはらで見つけた1枚のポスター。阿吽の狛犬の間には 「没後150年記念 川六展 因州が誇る幕末の名石工」

幕末の因幡国気多郡を中心に、優れた石造作品を制作した『石工・川六』。因幡国気多郡北河原村(青谷町北河原)の住民で、本名を『尾崎六郎兵衛』。生年は不明ですが、没年は「北河原中興寺過去帳」によると元治2年(1865)12月11日。戒名『鑿巌良巧信士』。諡られた文字からも彼が名石工であったことが偲ばれます。

私たちがこの名石工の名前を知ったのは2011年の事。翌2012年、鳥取車中泊の旅では、『石工・川六』の狛犬を訪ねて、幾つかの神社を参拝しました。名工が生み出した狛犬を奉納した神社が距離的にさほど遠くない鳥取に、しかもほぼ同じような地域に十数社もある・・狛犬に目が無いご亭主殿が、それを知っていつまでも待つなんて、まずもって有り得ません(笑)

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鳥取市青谷町夏泊に鎮座される「夏泊(なつどまり)神社」。御祭神は『事代主神』。元「恵比須社」と称し、夏泊地区の氏神として崇敬されています。

創建は不詳、明治元年(1868)に「潮津神社」との合併の指導がありましたが、氏子であった漁業関係者の反対により合併はなされず、その後、現在の名称となりました。『事代主神』は『恵比須』と同一視される海の神様。漁師さん達の反対は、漁師の娘だった私にはとてもよ~~くわかります。

社殿真横に接して建立された鳥居は、「石工・川六 弘化四年(1847)六月建立」。せり出した岩場の僅かな敷地の中、まるで両手を広げて社殿全体を守るように設置されています。

鳥居から見える青い屋根の社殿が御本殿、右手前に僅かに見える赤い屋根が拝殿。漁師たちは船上からこの社を拝し、海の上の安全と大漁を願って沖に出る、お社はそれを見守って今日まで引き継がれてきました。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、『石工・川六』天保十年(1839)九月建立」の狛犬さん一対。川六独特の柔和な顔立ちが参拝者をねぎらってくれます。

冒頭のポスターの真似をして正面から 何しろ『名工・川六』ですから(^▽^)/

鳥居脇に鎮座されていた二つの摂社、場所的に見て一方は金毘羅神社。もう一方は稲荷伸ではないかと想像します。が、あくまでも想像なので確証はありません。

拝殿から眼前に広がる夏泊の海を見守る狛犬さん。

船を下りた漁師たちはそんな狛犬さんに無時の帰宅を報告し、我が家に続く坂道を登ります。

参拝日:2012年4月18日

 


夏泊港 in 鳥取市青谷町

2017年04月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「溶岩流が造る岬と海女の海岸」

鳥取市観光サイトによれば「岬一帯の海岸は、日本海の怒濤に浸食された断崖絶壁・洞門・岩礁・奇岩等が連続し、その迫力のある岩石海岸は見る者を圧倒します。日本海に沈む美しい夕日を背景に、くっきりと浮かび上がる夏泊漁港側の獅子岩は見応え十分。また、スズキ・クロダイなどの絶好のつり場でもあります。漁に携わる人々を見守っている長尾鼻灯台が建てられている岬です。」

夏泊漁港の獅子岩、その目線の先に有るのは紺碧の海原と、白く波を蹴立てて沖へ向かう一艘の漁船。

夏泊漁港の成り立ちは、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて鹿野藩を治めた『亀井茲矩』が、筑前国の漁師を定住させたのが始まりと云われています。地元の古文書に「この漁師は筑前国の出自で、文禄の役で日本水軍の水先案内人を勤めた功によりこの夏泊地区一帯を免租地として与えられた。漁師は初代・助右衛門を号し、夏泊の開祖となった。助右衛門の妻は素潜りを得意とし、住民に海女の技法を伝えて夏泊の伝統「夏泊海女」となった。」と記されています。

夏泊の海女漁は山陰地方では唯一。現在も海女漁によって収穫される「岩牡蠣:夏輝」は、県のブランド産地の一つで、他にもアワビ、サザエ、ワカメ等の海女漁が行われています。

アスファルトが敷き詰められた道路、コンクリートで作られた波止場。沖から帰る船を迎える為の街灯が幾つも並ぶ。近代的に整備された漁港は、私の中にある「漁村の風景」とは全く違った景色を展開しています。

鳥取市の釣り場案内に必ず出てくる「夏泊漁港」。釣れる魚はヒラメ、マゴチ、カレイ、キス等々・・結構種類があり、それぞれに釣場ポイントの情報交換もされているそうです。と言っても釣りには全く興味のない二人、感想は「ふ~~~ん」(ーー゛);と、至って素っ気ない。

今回の旅のメインともいえる「狛犬を訪ねての神社参拝」が主目的。参拝を終えて道路に出れば、潮の匂いに混じって鼻腔をくすぐるのは、防波壁を埋め尽くすように乱れ咲く黄色い花の群れ。

香りに誘われて近づけば、二重三重の花びらに赤茶色の斑点は八重咲水仙の「タヒチ」。原産地は地中海沿岸、耐寒性はとても強く、耐暑性もそれなりだそうで、こうした場所には最適なのかもしれません。

防波壁を横目に見ながら集落への道を進めば、左手に細長い木の杭を積み重ねたような岩肌、へばりつくように根を張る「岩ツワブキ」。後で調べたら「安山岩露頭地 約160万年前に中国山地付近から流れ下った溶岩と考えられおり、板状に割れ目が発達していることが特徴。このような割れ目は 、一般に、流れようとする溶岩と地面との摩擦で生ずるひずみによってできると考えられています。」と紹介されていました。

訪問日:2012年4月18日

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明日はこの時から四年後、友人を伴って三人で訪ねた長尾鼻の紹介です。

 


長尾鼻 in 鳥取市青谷町

2017年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

夏泊の訪問から四年後、見残してしまった青谷の美しい景色を見る為に訪ねたのは、夏泊漁港にほど近い「長尾鼻」

駐車場の案内看板にあった航空写真で見る長尾鼻全景。約250~500万年前、火山から発生した安山岩質の溶岩流が日本海へ到達して作り上げた断崖絶壁。その形が鳥の尾羽のように見える事が「長尾鼻」の名称の由来になったとも言われています。

西因幡県立自然公園の一画にあり、マンホールデザインにも登場した長尾鼻灯台。敷地への通路は門扉に閉ざされていますが、十分にその姿を楽しむ事が出来ます。

「断崖絶壁は怖い! 高い所は苦手・・でも波に洗われる断崖の造形美は感動する。打ち寄せる波頭の白い泡は様々に想像を掻き立てられて・・・」とまぁ・・(^^;) このように相反する思惑に心をかき乱されながら(笑)、断崖が見えると思われる場所まで行ってみる事に。

人の足跡がはっきりとわかる細い通路から見下ろす岩場、泡立つ波の白さが流れの速さを知らしめて、絶対的な安全圏で見る分にはこの上なく美しい眺めが展開されます。

『大国主』と『八上姫』が待ち合わせた「待合谷」・・『八上姫』を待っていた『大国主』は海水で足を冷やしていたところ、鮫に足を噛まれてしまいます。流れる血を止血をしたという「血止めが池」。神代の昔に育まれた恋人たちの聖地、それはどのあたりだろう?

はるか向こうに細く突き出して見えるあの岬は・・・?空と陸と海が一つになる場所・・・そんな形容詞がふいと頭に浮かぶ。

一年を通じて磯釣り客でにぎわう長尾鼻、駐車場には「長尾鼻磯釣り案内図」の看板。木陰には主のいない他府県ナンバーの車が一台。他には誰の姿も、何の気配も無く、爽やかな秋の日差しが木漏れ日となって影を落とすだけ。

そうそう、展望台へと向かう細い通路の脇に「魚つき保安林」と書かれた白い杭を見かけました。古来より、漁業を営む地域では海岸の森林を守る習慣がありました。岬の岩場に形成される海岸性の森林、湾内の離島の森林などに神社を設け、神域として立ち入りを制限し一定の保護を行って来た場所があります。そのようにして守られてきた森林を、法的に保護するための名称が「魚つき保安林」なのです。

訪問日:2016年10月21日

 


史跡-鳥取藩主池田家墓所 in 鳥取市国府町

2017年04月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市国府町奥谷、宮下、静かな緑に包まれた一画に鳥取32万石を領した初代藩主と十一代までの藩主、支藩の当主・奥方・側室・子女等の墓78基が、整然と佇ずむ「史跡:鳥取藩主池田家墓所」。歴代藩主の墓碑の周囲には、一族に仕えていた人の名が刻まれた260以上の燈籠が、主を護るように立ち並びます。

史跡とはいえ、しかも春の日が僅かに長くなったとは言え!、午後6時を廻っての墓所の訪問(^^;)  知人に言わせれば「絶対!!変!!」だそうで、帰宅後早々にお土産の梨ジュースで精進落しに付き合わされることに(笑)

参道を進み一段高くなった墓所に立ち並ぶ奉納石道路の数々。石段右手に眠るのは「室の墓」・・それとも忠義を尽くした「家臣の墓」か。

「藩主の墓碑は、亀の形をした「亀趺(きふ)」とよばれる台石に円頭扁平な墓標を立てた「亀趺円頭(きふえんとう)」の墓碑とよばれています。また、藩主以外の墓には宝塔形の墓碑や、江戸時代に一般化した石碑墓標等が見られ、江戸時代の大名家の葬制および墓制の階層制を知ることができる貴重な資料として国の史跡に指定されています。」鳥取市観光サイトより

因幡国鳥取藩初代藩主『池田光仲』。享年六十四歳。法号『興禅院殿俊翁義剛大居士』。備前国岡山藩主・池田忠雄の長子、母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮の娘三保姫(芳春院)。寛永九年(1632)父忠雄の逝去により当時三歳で藩主の座につく。備前から因幡・伯耆へ移ったが、藩は存続。寛永十五年(1638)将軍家光の前で元服し、名を光仲と改め、従四位下侍従に任じられ、相模守と称した。官位と将軍の名の一字を賜る大名は、御三家の他、加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など「殿上元服之家」十五家があり、その中に鳥取の池田家も含まれる。

二代藩主『池田綱清(つなきよ)』、享年六十三歳。法号『清源寺殿良宗常温大居士』。光仲の嫡子、母は正室茶々姫(芳心院)。幼名を新五郎。貞享二年(1685)父光仲の隠居によって家督を相続。歴代の藩主、世継の墓には必ずある亀趺が彼の墓碑だけにはありません。これは時の将軍であった『徳川綱吉』の「生類憐れみの令」に配慮したからだそうで、元服の際に家綱の一字をもらった事を考えれば当然かもしれません。

三代藩主『池田吉泰(よしやす)』、享年五十二歳。法号『天祥院殿機運衍応大居士』父は分知東館の祖壱岐守仲澄、母は松平播磨守頼隆の娘菊子(涼月院)。幼名を長吉、のち勝五郎、長じて輝清、吉明と改める。元禄八年(1695)、綱清の養子となり、元禄十三年、隠居した綱清のあとを受け家督を相続。

綱吉公が死去されてから30年後という事で、亀趺もしっかり復活(笑)

四代藩主『池田宗泰(むねやす)』、享年三十一歳。法号『大廣院殿義山衍隆大居士』吉泰の嫡子、母は側室中村氏。幼名を長吉、のち世嗣となり勝五郎と改める。元文4年(1739)父吉泰の逝去により家督を相続。

五代藩主『池田重寛(しげのぶ)』、享年三十八歳。法号『岱岳院殿祥雲洪澤大居士』宗泰の嫡子、母は紀州徳川家より入った久姫(桂香院)。幼名勝五郎。初名仲繆・重繆、延享4年(1747)父宗泰の逝去により、わずか二歳で家督を相続。

池田重寛の長男『池田治恕(はるゆき)』、享年十七歳。法名『孝得院殿本然自性大居士』

墓地内には、紀州徳川家や加賀前田家、奥州伊達家などからお輿入れになった夫人墓が建立されています。こちらの墓碑が何方のものであったか確認できず。

六代藩主『池田治道(はるみち)』、享年三十一歳。法号『大機院殿賢翁紹雄大居士』。重寛の第三子、母は側室村上氏。幼名は岩五郎、後に秀三郎と改める。天明三年(1783)父重寛の逝去により、十六歳で家督を相続。

七代藩主『池田斉邦(なりくに)』、享年二十一歳。法号『真證院殿徳應義榮大居士』治道の嫡子、母は側室・於三保の方。幼名秀三郎、のち銀之進と名乗る。。寛政10年(1798)治道の逝去により、数え12歳で家督を相続。

八代藩主『池田斉稷(なりとし)』、享年三十一歳。法号『天祥院殿機運衍応大居士』。治道の次男で斉邦の弟。母は側室の佃氏(浦の方)。幼名永之進。文化四年、斉邦の逝去により、家督を相続。

九代藩主『池田斉訓(なりみち)』、享年四十三歳。法号『耀國院殿峻徳光隆大居士士』。徳川家斉の十三男を養嗣子・斉衆とした為、斉稷の次男として生まれる。母は側室の高沢氏。文政九年(1826)に斉衆が早世したため嫡子となり、天保元年(1830)、斉稷の逝去により、家督を相続。

十代藩主『池田慶行(よしゆき)』、享年十七歳。法号『正国院殿純徳玄明大居士』。鳥取池田家の分家:鹿奴藩(東館)主・池田仲律の長男として誕生。母は側室の若林氏。幼名は亀丸。初名は茂高(しげたか)、茂行(しげゆき)。 天保十二年(1841)、斉訓の逝去により、養嗣子として10歳で家督を相続。

十一代藩主『池田慶栄(よしたか)』、享年十六歳。法号『栄岳院殿穆雲光澤』。前田斉泰の四男。母は溶姫。幼名を喬心丸。嘉永元年(1848)、慶行の逝去を受け幕府の命により家督を相続。翌嘉永三年(1850)、初めての国入りのためその途についたが、江戸から鳥取への道中で病に罹り京都の伏見藩邸にて急死。

最後の藩主となった十二代「池田慶徳(よしのり)」。水戸中納言徳川斉昭の五男。母は松波春子。幼名を五郎麿・昭徳と改める。異腹の弟は徳川幕府最後の将軍『徳川慶喜』。慶栄に嗣子が無かった為、昭徳が養子となって家督を相続。明治十年八月二日、明治天皇の還幸を神戸まで奉送の際肺炎にかかり、神戸で逝去。墓所は鳥取市立川町の大雲院に置かれる。慶徳の後、池田家は十三代輝知、十四代仲博、十五代徳真、十六代百合子と続く。

ゆっくりと山あいに姿を消してゆく太陽、あたりにはひたすらな静寂だけが漂います。デジカメを向ける為に、一基一基ごとにきちんとご挨拶をさせて頂いたので、思わぬ時間が過ぎていました。白く輝くように咲き誇る満開の桜に別れを告げて、私たちも日常の世界へと戻る事にしましょう。

参拝日:2012年4月15日

 


宇倍(うべ)神社~其の二 in 鳥取市国府町

2017年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

昨日に続いて、今日は「宇部神社」四方山話

明治32年に発行された五円紙幣の「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)と拝殿」は昨日紹介しましたが、実はそれ以外の紙幣にも「武内宿禰命」の肖像が採用されています。

明治22年(1889)5月1日発行の「壹圓券」には『武内宿禰』の肖像と、社殿の代りに日本銀行の文字。中央に「日本銀行兌換(だかん)証券」と兌換文。「此券引きかへ尓銀貨壱圓相渡可申候也(この紙幣は1円分の銀貨と交換できる)」が印刷されています。

裏面には英文で「NIPPON GINKO Promises to Pay the Bearer on Demand One Yen in Silver」

この「壹圓券」は、明治22年(1889)5月1日から昭和18年(1943)12月14日まで、実に54年間もの長きに渡って発行されました。

昭和18年(1943)12月15日発行の「壹圓券」。戦争による経費の削減で紙幣も粗悪なものになっていきます。裏面にあった英文の兌換文が消え、中央に大きく「宇倍神社」の拝殿がデザインされています。

昭和20年(1945)8月16日に発行された「貳百圓」。昭和金融恐慌の混乱の中で、増大する紙幣の需要を賄うために大蔵省告示で制定され、支払猶予令解除後の預金払い出しに備えて急造。即座に銀行に届けられましたが、預金者には渡らずそのまま回収され、将来のインフレ等の緊急事態に備えて日本銀行に死蔵されました。結局、新円の発行に伴い発行から1年も経たず、昭和21年3月2日限りで失効。

社務所の方の説明が興味深く、撮影も許可という事で画像に残してきましたが、調べれば調べる程、感心することしきり。ついつい長くなりました(^^;)

ところで・・お札の上で不敵に笑っているその赤い顔のお方は??? 鳥取入りしてからあちこちで見かけた気がするのですが? 質問にまたしても丁寧に答えて下さる社務所の方。

鳥取県東部の因幡地方に伝わる「麒麟獅子舞」。江戸時代のはじめ、初代藩主『池田光仲』が曾祖父『徳川家康』の分霊を祀った因幡東照宮を創した際に、祭礼の芸能として創始したと言われています。「宇倍神社獅子舞」は山陰独特の獅子舞の原形を今に伝えるものとして、昭和34年12月25日、鳥取県指定無形民俗文化財に指定されました。

鳥取駅の地下通路に飾られていた「国府神社と麒麟獅子」の絵画。

絵馬に描かれた「麒麟獅子舞」。お馴染みの“キリンビール”のロゴマークはこの麒麟がモデル。

鳥取県限定の“キリンビール”には「麒麟獅子舞」「鳥取しゃんしゃん傘踊り」が印刷されています(*^^*)

「宇倍神社獅子舞」で登場する獅子は、全国でも鳥取地方だけに見られる一本角が特徴。で・・獅子に頭を噛んで頂くという縁起に倣って、一同仲良く順番に頭をパクリ!!!

2016年は友人Jさんと御亭主殿。良い事一杯ありますように。

麒麟獅子のちょっと上目遣いのオトボケ顔も、四年の歳月を経て変わった神職の方の底抜けに優しい笑顔も、何一つ変わることなく温かです。

参拝日:2012年4月15日&2016年10月20日

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石段参道の頂上近く、両側に聳える深い緑の木に張られた、白地の垂れ幕。その年ごとに沿った言葉が書かれるそうです。2012年は辰年にあやかった昇竜のイラストと「がんばろう日本!!」「はまた昇る。2011年3月・東日本を襲った未曾有の大災害に心折れそうだったあの頃、合言葉のように口にした言葉。「がんばろう日本」「がんばろう日本」、日本中の人が気持ちを奮い立たせて使った言葉。人の祈りはこんなにも熱く強い。

 


宇倍(うべ)神社~其の一 in 鳥取市国府町

2017年04月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市国府町宮下に鎮座される式内社「宇倍(うべ)神社」。因幡国一宮。古代には清音で「うへ神社」と呼ばれていましたが、その語義は不明。一説に、境内社である「国府神社」に合祀された「上(うえ)神社」に由来するとも云われます。

御祭神『武内宿禰命』は360余歳の長寿であった事から、長寿の神として広く知られます。絵馬に書かれた『応神天皇』を抱く姿は有名で、社殿彫刻や端午の幟など、様々な場面に登場します。

「孝徳天皇大化4年(648)の創建と伝えられ、延喜式では鳥取県で唯一の名神大社、また一の宮として信仰を集め、明治4年に定められた制度により国幣中社に列せられた。」

「翌32年に全国の神社では初めて、御祭神:武内宿禰命の尊像と共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回当社が五円・一円紙幣の図柄となった。お金に御縁があり、商売繁昌の神様として崇敬されている。」HPより

社務所で見せて頂いた実際のお札。手前にあるのが明治32年(1899)発行の「甲五圓券」。上は大正5年発行の「丙五圓券」で、『武内宿禰』の肖像が左に移動しています。肖像が中央にあるとお札を折るのが憚られると・・・身位を重んじる日本人らしい理由ですね。

お札に採用された社殿は明治31年(1898)の再建。正面三間側面二間の三間社流造。正面一間に向拝を縋破風で付け、千木・鰹木を置く檜皮葺の美しい姿。

同年、本殿階下の正面一間側面二間の切妻造妻入の幣殿と、方三間の入母屋造妻入で正面に一間の向拝屋根を追加した拝殿を再建。共に檜皮葺。

拝殿前左に置かれた亀に似た石は「福徳亀」と呼ばれ、撫でると願いが叶うと云われます。

宇倍神社の神紋「亀崩」は、神仙思想と長寿延命、また御祭神『武内宿禰』終焉の地である亀金山にちなみ、苔のはえた長寿の蓑亀が用いられています。

「福徳亀」と対になった拝殿右には、まさに飛び立とうとする金色の「飛翔の鳥」。

拝殿前で柏手を打つと、まるで呼応するように柏手の木霊が返ってきます。しんと静まり返った鎮守の杜。時折さやさやと耳に届くのは木立の葉擦れ。

本殿の左奥、木立の下に延びる石段前に「武内宿禰命 終焉之地」碑。延喜式神明帳には【仁徳天皇五十五年春三月因幡国の亀金岡に双履を遺し、三百六十余歳でお隠れになった】と記されています。

石段を登った先、ちょうど本殿の後ろ。亀金岡の小さな高台に残る2つの「双履石(そうりせき)」は、『武内宿禰』が昇天した折に残した「沓」とされています。

考古資料によれば、その双履石の下から竪穴式石室が発見され、古墳時代前期末から中期の古墳の一部であることが判明しています。太古の歴史が眠る一帯は、「神域」と呼ぶにふさわしい静謐に満ち、吸い込む息さえも磨かれてゆく感覚。

亀岡山の左手に鎮座される境内社「国府神社」

元「宮下神社」と称したが、大正七年に付近の「坂折神社(日本武尊)」、「小早神社(速佐須良比咩神)」、「下山神社(武内宿禰命)」、「白山神社(伊弉諾尊・菊理姫命)」、「上神社(武甕槌命)」、「安田神社(土御祖神・奥津彦命・奥津姫命)」の六社を合祀。現社名に改称。

拝殿前左右より神域を守護されるのは出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは胸の間に仔狛を遊ばせています。

手の大きさと顔のサイズのアンバランスさが何とも・・・(^^;)

二度に渡って参拝した「宇倍神社」、明日はちょっと視点を変えて「ほぉ~~!」と思う話題。誰かに話したくなるエピソードなどを・・

参拝日:2012年4月15日&2016年10月20日

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御神名一口メモ

『速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)』、祓戸四神の一柱。『気吹戸主』の息吹によって運んだ根の国すべての罪や 穢 を祓い捨てる神。

『土御祖神(つちみおやのかみ)・大土神(おおつちのかみ)』、土地の守護神、土壌の神。『大年神(おおとしかみ)』と『天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)』との間に生まれた十柱の御子神の一柱。

奥津彦命(おきつひこのみこと)・奥津姫命(おきつひめのみこと)』、竈(かまど)の神。『土御祖神(つちみおやのかみ)』の弟妹。

 


鳥取砂丘 in 鳥取市福部町

2017年04月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市の日本海海岸に広がる広大な砂礫地「鳥取砂丘」。静岡県の「中田島砂丘」、鹿児島県の「吹上浜砂丘」、千葉県の「九十九里浜」等と共に、日本三大砂丘の1つとして知られています。

眼前に広がるのは広大な砂の大地。見渡す限り、他には何もなく、ただ果てしなく広がる砂の海。

高さ約47mの砂丘列「馬の背」、知らない誰かの足跡がここまでおいでと手招きする。

足跡は次第に崩れる砂の川となって、貴方の居場所を私に教える。

馬の背から見たものは、空に憧れる若者たちの一団

打ち寄せる波は白く砕け、やがて碧い水底に還ってゆく

私は「砂のさざ波」に魅せられて、貴方を忘れてじっと立ち尽くす

立ちふさがる砂の壁、誘惑するオアシスのさざ波

立ち止まる私を見つけた貴方は、軽やかに砂の壁を下ってくる

砂丘に降った雨が湧き出して出来たささやかなオアシス。

夏になれば消えてしまう、砂の中の、ほんのささやかな水の海

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福部町岩戸~白兎まで、南北2.4 km・東西16 kmに広がる山陰海岸国立公園:特別保護地区「鳥取砂丘」。昭和30年(1955)に国天然記念物に、2007年に日本の地質百選に選定され、大山と共に鳥取県のシンボルとされています。

砂丘の入口近く、記念撮影に立ち寄る観光客を待つラクダさん。もうずっとずっと昔、何時だったか忘れてしまうほど遠い昔、一度だけその背中に乗って記念写真を撮った事がありました。

「鳥取砂丘ジオパークセンター」は、2010年の春に開設された、無料の学習施設。鳥取砂丘の自然や生い立ちなどのパネル展示に、実際に触れて体験するコーナーもあります。

中国山地から千代川によって日本海へ流された砂は、日本海の海底に堆積し、堆積した砂は沿岸流と波の働きによって岸へ打ち上げられ、打ち上げられた砂は風によって内陸へ運ばれます。そうして幾年も幾歳も、おおよそ14~15万年の長い年月の間に繰り返された自然が生んだ鳥取砂丘。

砂丘の砂粒を顕微鏡で観察した画像。キラキラと透明に輝いているものは「石英」の粒。鳥取砂丘の砂は、花崗岩質の岩石が風化したものが主な砂となっており、このように砂粒の大きさや色などで採取場所がわかるそうです。

このパネル写真は「砂柱」と呼ばれるもので、湿った砂に風速毎秒12m以上の強風が吹くと形成されます。他にも色々と砂丘にまつわるお話を聞かせて頂き、又一つ素晴らしい日本が発見が出来ました。

広大な砂丘に点々と差し込まれたポールは、鳥取砂丘の砂の移動を調査するために設けた杭で、100m間隔で設置されています。

砂丘前の観光施設「砂丘ユニオン」の裏手にある「火山灰層露頭(かざんばいそうろとう)地」。砂丘は新旧の砂が火山灰層を上下に挟むように堆積しています。古砂丘とは、火山灰層の下にある昔の砂丘のことで黄色く固く締まっています。新砂丘とは、火山灰層より後にできた新しい砂丘のことで、さらさらとして風によって移動しやすいものです。火山灰層とは、年代の異なる数種類の火山灰が積み重なり層になっているものをいいます。砂が移動したことで、砂の間に火山灰層が挟まれている様子が実際に観察できます。

世界初の「砂」を素材にした彫刻作品を展示する「砂の美術館」。入口近くには、その時々のテーマに沿った「砂像」が展示されており、自由に見学する事ができます。

ジオパークセンターの前

【 荒海へ 砂吹かれゆく 北斗かな 康弘

「ハマゴウ」。葉を線香の原料にした事から「浜香」の名が生まれ、これが転訛してハマゴウになったと云う。古書に「浜這ひ」の記述が見られ、海岸に茎が這うように生える事から名付けられたものと考えられている。

訪問日:2012年4月17日