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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

吉香公園~其の二 in 山口県岩国市横山

2024年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

何を見ても面白いと感じてしまう私たちにとって、見所盛りだくさんの「吉香公園」。昨日の続きです😊

当ブログの読者様にはお馴染みの「飾瓦」。公園内の建物にも面白い造形を見つけました。まずはオーソドックスに「恵比須・大国様」の一対。

気になったのはこちらの飾り瓦。大杯を持っている人にも見えるし、仙人のようにも見える・・・初見で「山姥」と叫んでしまった私ですが、実は男なのか女なのかも良く分からない・・・未だに良く分からない😓

噴水広場の一角、昭和11年(1936):ベルリンオリンピックの三段跳びで金メダルを獲得した、岩国市の名誉市民『田島直人氏』「立志の碑」「勝利の喜びは、努力の過程にあり、勝利の結果にはない。」と刻まれています。

こちらは、一見何の変哲もなく見える公園の木橋・・・に見えますが、実はあの!「錦帯橋実験橋」

「実験橋について-錦帯橋の橋板と橋板の継目から橋の構造部分への雨水等の漏水を防止するため、橋板の継目の形状と継目を埋めるシーリング材を実験するための木造橋。止水実験は5年間ほど行い、錦帯橋の次架替工事(2022年~2024年度)に反映されます。2013年11月22日から渡り初め式をした後は、公園の施設として渡ることができます。」

モニュメントなのかそれとも水利用の施設なのか?遺跡っぽい造詣が面白くて写したその正体は、たんに「噴水」。石垣の間に作られた切れ目の部分から噴水が出るらしいのですが、三度の訪問(3月&11月)で一度も目にしていません😱

その噴水石垣に設けられていた・・・この扉は何処に続いているのかしら?中には何が隠されているのかしら? 秘密の抜け穴っぽくて、大いに好奇心をそそられます😊

岩国城に至るロープウェイ駅の側にある「岩国美術館」。全国でも例の少ない武具の展示館として知られています。

入り口近くに展示されていた青銅製の狛犬さん一対。おそらくいずれかの神社の拝殿の中、もしくは神門内で神像と一緒に神域を守護されていたのでは?と想像。一方向のみなので、綺麗に写せた画像として、吽形さんは端正な横顔を。

阿形さんの長いたてがみの美しさ、炎のような尾の逞しさ、四肢の関節部の流れる毛先。そして手を置く毬の精巧で見事な事。いや~、惚れ惚れします。

ガラリと趣向を変えて、美術館の横に止められていた「岩国市」の「木炭自動車」。岩国観光課のHPに「正確には、木炭を焚いても走れるガソリン自動車。車体後部に設置してあるボイラーで木炭を燃やし、ガスを発生してエンジンに送り込み、ピストンを動かして走るものです。麻里布モーター株式会社の故:藤村一夫会長が製造され、2005年に岩国市に寄付された」と紹介されています。

思いっきり逆光ですが、車体後部に設置してあるボイラー。

🌸🍀何でもかんでも「面白い!」で詰め込んでしまう私たちの旅の思い出・・もう暫く続きます😅

訪問日:2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日

 

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吉香公園~其の一 in 山口県岩国市横山

2024年07月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

「岩国領主・吉川(きっかわ)氏の居館は江戸時代初めの慶長8年(1603)ごろ、横山の山麓に完成しました。居館は当初「御土居(おどい)と呼ばれ、元禄11年(1698)に「御館(おたて)」、明治元年(1868)には吉川氏が悲願だった岩国藩主として認められたことから「御城(おしろ)」と改称されました。」山口おもしろ学より

明治13年(1880)、旧岩国藩主吉川家の居館跡に建てられた旧制岩国中学校。後に山口県立岩国高等学校となり、昭和43年(1968)、跡地に「山口県立岩国中学校跡地・山口県立岩国高等学校跡地の碑」が残されました。

高校の移転に伴い、跡地一帯は「吉香 (きっこう) 公園」として整備。「吉香神社」や「武家屋敷跡」「白蛇観覧所」など、多くの歴史的遺産を有し、市民や観光客に人気のスポットとなっています。

石積基壇上に建つ、寄棟造・桟瓦葺の「旧吉川邸厩(うまや)門」。吉川経健が建設した邸宅の長屋門で、桁行30mと長大で、近代の大邸宅の様子を今に伝えているとして、2004年7月に国登録有形文化財に指定されました。

岩国藩五家老の一つ「香川家長屋門」。香川氏の表門で岩国市の建造物としては最も古いものの一つであり、当時の武家屋敷の構えをよく残している事から、昭和41年 (1966) に山口県の有形文化財に指定されました。

元禄6年(1693)に『香川正恒(まさつね)』が建立。長屋門の設計・建設は、大工の『大屋嘉左衛門(おおやかざえもん)』が行ったと云われています。嘉左衛門は、18歳で錦帯橋架橋事業に参加しており、元禄時代の大橋(錦帯橋)の架け替えでは棟梁を務めた人物です。

長屋門の外観は、道路からいつでも自由に見ることができますが、内側の見学は、門が開いている時にのみ可能。ただし内側は、現在も個人の住宅であり、庭などに立ち入ることはできません。😊

続いて、江戸時代中期に建てられた中流武家屋敷「旧目加田家住宅」

目加田家は、天正年間に『吉川元春』に召し抱えられ、その後、吉川家が岩国に移封された際に藩主広家に従い、この地に居を構えた家系。特徴ある両袖瓦 (りょうそでがわら) と平瓦を使用した二平葺き (にひらぶき) は岩国城下町に見られた地方色です。



錦川が氾濫し横山地区が冠水することを想定してか、武家屋敷としては珍しく二階が造られていますが、表通り側(玄関側)には二階窓がなく、上位身分の武士も通る路を上から見下ろすことがないように配慮されているなどの特徴もあります。

入母屋造りの建物は、簡素ながら端正な構造で、250年を経た現在も当時の武家屋敷形式をよく伝えており、数少い本格的な武家住宅の一つとして、昭和49年 (1974) に国の重要文化財に指定されています。

旧岩国藩主吉川家に伝来した歴史資料や美術工芸品が収蔵されている「吉川史料館」

正門として使用されている「昌明館 (しょうめいかん) 付属屋長屋門」は 寛政5年(1793) に「七代領主:吉川経倫(つねとも)」の隠居所として建造。江戸時代に一部改造されてはいるものの、当時の姿をよく留めており、1995年には岩国市の有形文化財に指定されています。

長屋門内から見る、お庭の景色

「木菟の手水鉢」のモニュメント-「岩国初代藩主:吉川広家の墓の傍らに木菟の手水鉢があります。これは広島藩国家老「上田宗箇(そうこ)」より寛永二年に贈られたものであり、吉川広家公が枝垂桜を贈った返礼として届けられたものと伝承。~略」

長屋門沿いの一画に建立されていた「立志の碑」。子どもたちへの訓戒と題し、「一、規律ある習慣を作れ。二、誠実にして真摯なれ。三、秘密を有すること勿れ。四、約束を守れ。五、他人に親切なれ。」岩国藩主:吉川経幹公の第三子・吉川重吉公の言葉が刻まれています。

🌸🍀吉香公園~見て歩き、しつこく明日に続きます👍

訪問日:2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日

 

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錦帯橋(きんたいきょう)2017年 in 山口県岩国市

2024年07月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

しつこく書き綴った「岩国錦帯橋」も2017年で最後。今回の車泊旅ではいつものj🐣さんが一緒。御亭主殿は両手に🌸😓🌸・・の筈が、好き勝手にフラフラ逃亡する花を追いかけてクタクタのご様子😆。

初日に岩国を選んだ2017年は、朝霧の下に見える錦帯橋の画像から始まります。

三度目にしてやっと、二人揃って錦帯橋碑との記念写真。名勝の称号が内務省から授与される事が碑にきちんと刻まれていて、改めて感心する三人。

貴重なご亭主殿とのツーショットも沢山撮ってくれてました😍

もちろん、大の仲良しのj🐣さんとのツーショットも😊

あそこにも行こうね、ああ、そこも良かったよ、そうそう、ここは絶対に外せない。先輩風を吹かせて説明する私。いちいち頷いてくれるJ🐣さん。

何度見ても感動的。初めて見るj🐣さんは、更にプラス興奮気味。

見事なカーブを描く橋桁、何もかも感嘆符付き💗

観光地につきものの集合写真コーナーでの記念写真。三人一緒でないのがちょっと残念。

橋を渡り切って立ち寄った土産物店「錦帯物産」の屋上から見渡す「錦帯橋」。

橋の下を通過する「遊覧船」、初めて見た😅

しっかりとお土産を買いこんだ二人、再び橋を渡って対岸に。シルエットの二人の顔は満面の笑顔。御亭主殿との二人旅は勿論最高だけど、大好きな女友達が一緒の車泊旅も最高に素敵😊😊

紅に染まった木々の向こうに少しずつ遠ざかってゆく錦帯橋。何度も何度も振り返り、そうしてやっと・・・忘れがたい景色に別れを告げる。

訪問日:2017年11月27日

 

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錦帯橋(きんたいきょう)2015年 in 山口県岩国市

2024年07月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

藩政期史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」「五竜橋(ごりゅうばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれた「錦帯橋」。その美名が文書に初めて登場したのは、江戸時代の儒学者『宇都宮遯庵(うつのみや とんあん)』の記述した文書内が最初と言われています。

岩国3代領主『吉川広嘉(きっかわひろよし)』が現在の橋の原型となる木造橋を架けたのは、延宝元年(1673)の事。6月8日に基礎の鍬入れが始められ、『児玉九郎右衛門』の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個を築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋が架けられました。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したといいます。同年10月、橋は完成しましたが、翌年の洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまいます。

同年、広嘉は家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建。この改良が功を奏し、昭和25年の洪水で流失するまで、実に276年間、定期的に架け替え工事が行われ、威容を保ってきました。

完成した橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されました。ただし当時、橋を渡る事が出来たのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからでした。渡れない橋に税を課せられた人々がどのような思いで橋を眺めていたか知る由も有りませんが、いずれにせよ、橋の向こうはお殿様の居住地。渡ろうと考える人はいなかったのかも・・

明治になり、橋を管理していた岩国藩は消滅。明治28年(1895)に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集が行なわれるようになりました。

大正11年(1922)3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により、錦帯橋は名勝に指定。

昭和25年(1950)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊。それによって、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまいますが、翌・昭和26年から復旧工事が始まり、昭和28年に再建が完了。

コンクリート製での再建案もありましたが、市民の求めにより、往時をしのばせる木製で再建。

その後、2001年から2004年に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が開始。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工されました。

ところが翌2005年9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失。後に約4000万円かけて復旧工事が行われます。

今私たちが何気なく渡るこの橋が辿ってきた多くの物語を振り返った時、そこには「錦帯橋」を愛してやまない岩国の方々の熱い思いを感じずにはいられません。

錦川橋の袂に停留する「観光遊覧船」

鮎の友釣りをされる地元の方・・穏やかで美しい風景を見ていると、本当に心が癒され無意識のうちに笑顔が溢れてきます。

訪問日:2015年11月19日

🌸今回は真面目に錦帯橋を語ってみました。明日は懲りもせず「錦帯橋(きんたいきょう)2017年」です😅

 

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錦帯橋(きんたいきょう)2013年 in 山口県岩国市

2024年07月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

延宝元年(1673)岩国藩主吉川広嘉によって、岩国市の錦川(川幅200m)に架橋された、5連の木造アーチ橋「錦帯橋(きんたいきょう)」

2013年の春、初めてこの景色を見た時の感動は・・それはもう言い表す言葉が無い程。まさか、実際に自分の目で、その場に立ってこの景色を眺められるなんて・・、と興奮している私を見ながら「お前さん、初めて行く場所ではいつも同じことを言って感動しているね。」と笑うご亭主殿。

だってね、この景色ですよ。パンフレットとか、絵葉書とか、それ系の写真集でしか見た事が無かった景色の中に、まぎれもなく私が存在しているのですよ😍。

「橋の長さは直線距離で193.3m。橋面に沿った歩行距離は約210m。橋幅5m。橋台の高さは6.6m。主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、釘は1本も使わずに造られている。 石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られ日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。」と、大まかな説明は通行券の裏に記載されています。

ご亭主殿は前に回り、後ろに走って、せっせと「錦帯橋と我が女房」をデジカメに納めています😊

ご亭主殿曰く「風景写真ならパンフレットで事足りるけど、出先の記念写真は自分たちの記憶と思い出の為だからね」。うん・・きっと写真を見返して「ああ、なんてこの頃は若かったんだろう~」って、しみじみと思い出に浸るのね(笑)

橋の手摺りも錦川の流れも、いささか機嫌の宜しくない空の色も、目に入るものすべてが「思い出のピース」

錦川橋の袂に見えるのは、あれは春と秋に運行される「遊覧船」。もう少し早い季節だったら堤防沿いの桜が綺麗だっただろうね。

下から見上げる太鼓橋・・・

元来た方向を振り返り、改めて錦帯橋の圧倒的な存在感に感動。

一足先に橋を渡り切ったご亭主殿が写してくれた記念の一枚。

河原に居りて見上げる橋桁の幾何学的な美しさに感動し、石積みの橋脚に感動。時間がたっぷりあるのなら、多分、この一帯だけで一日過ごせるかもしれない😆

と言う訳にもいかないので、予定していた「あそこ」とか「ここ」とか「そこ」とか😍、ついでに「あれ」「これ」😆 って、要するに予定したところ全部、素晴らしい所ばかり😅

吉香公園側の観光を終えての帰路は・・生憎の春の雨。なんて言えばいかにも風情があるけれど、傘を持たない二人には、雨の冷たさが身に染みます。御亭主殿は私を見てタメ息。

だからぁ、雨は私の所為では無いと何回言えば!!😠

おバカなやり取りをしている所に傘をさしかけて下さったのは、入橋券売り場の方。関西人特有のノリで、雨に濡れながらやり取りをしていたものだから、心配して声をかけて下さったのです。有難うございます!!お騒がせしました!と謝った所で三人揃って大笑い。これもまた、忘れ難い記念になりました。🙏

訪問日:2013年4月20日

🌸そんなこんなで、明日は「錦帯橋(きんたいきょう)2015年」です😅

 

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岩国城 in 山口県岩国市横山

2024年07月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

標高約200mの城山にその美しい姿を見せる「岩国城」。初代岩国領主『吉川広家(きっかわひろいえ)』によって慶長13年(1608)に作られた山城。

吉香公園から城山山頂までは、全長412mのケーブルに架かった30人乗りのゴンドラ「岩国城ロープウエー」で約3分。たかが3分・・・されど3分・・と逡巡する私には目もくれず、とっとと往復券を購入して不敵に笑うご亭主殿💦

そんなこんなで(笑)、ぴったりと後ろに張り付き、やって来たゴンドラに嫌も応もなく乗り込まされ😭

ゴンドラからの素晴らしい眺め(ご亭主どの撮影)なんぞ、目に入る余裕もなく・・🙏

無時たどり着いた山上駅、乗り合わせた方との記念写真の写しあい。ひきつった笑顔で、折れそうなほど柵を握り締める私、不敵な優越感で笑うご亭主殿😅

ご亭主殿の「やった!!」顔の、まぁ、小憎らしい事(笑)

でも大地に足を付けて、自分の目で見る春霞の岩国城下の美しさは、また格別の趣なのですよ。

山頂駅から岩国城までは、徒歩で約10分。舗装された道路の右手に、慶長13年(1608)の要害築城時に造られた「大釣井 (おおつるい)」を発見。この付近は「水の手」とよばれ、城の水場として重要な場所と位置付けられていました。

1995年に発掘、修復、復元された「旧天守閣跡の石垣」

程なく、昭和37年(1962)に再建された「岩国城模擬天守」が見えてきました。

築城当初は3層4階の桃山風南蛮造りだった岩国城は、完成からわずか7年後の元和元年(1615)、幕府の一国一城令により破却され廃城に。模擬天守は、錦帯橋付近からの景観を考え、旧天守台から南に50mの所に、古図面をもとに再建。

たとえ模擬天守とは言え、城は城😊 館内には武具や、往時を偲ばせる鯱なども展示されており(しかも撮影OK)、岩国の歴史の一端に触れる事が出来ました。

天守閣最上階物見から見下ろす城下の眺め。眼下には錦帯橋、右手に見えるのは錦城橋。

お天気が良ければ、はるかに瀬戸内海の島々や四国が見渡せると言う・・ああ、きっとあの辺りが瀬戸内海に違いない。

床面に描かれた古地図と見比べながら、今いる場所を再確認するご亭主殿。

模擬天守を後に山上駅へ・・またあの恐怖の数十分が・・(いや!!僅か3分です)

「古式穴太積(こしきあのうづみ)」を丁寧に説明してくれるご亭主殿😊。でもこうやって見ると石垣に悪戯をしているみたいですよ💦

山上駅の近くにあった「からくり時計」。毎時15・35・55分に作動して、鵜飼の人形とテーマ音楽が流れるそうですが、一度も遭遇できませんでした。

山上駅の近くからご亭主殿が写してくれた写真。左手前の鳥居は「白山比咩神社」、道路を隔てて岩国山麓駅と岩国美術館の建物。高所からの画像は、ある意味貴重(笑)なので「有難うね😊」

改めて見上げる「岩国城ロープウエー」。どうでも良い情報ですが、現在のゴンドラは2010年12月25日、約24年ぶりに新車に交換されたもので、開業以来3代目の車両だそうです。

訪問日:2013年4月20日

 

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岩国徴古館 (いわくにちょうこかん) in 山口県岩国市横山

2024年07月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

岩国市横山、吉香公園の一画に不思議な存在感を見せつける「岩国徴古館 (いわくにちょうこかん)」

正式名称は「岩国市立博物館岩国徴古館」。昭和15年(1940)に吉川報效会の理事会で設立が可決。岩国藩藩主:吉川経健の弟の吉川重吉「郷土に図書館と博物館を」という兄の遺志を実現したものと伝えられており、太平洋戦争中の昭和17年(1942)に起工し。終戦直前の昭和20年(1945)3月に竣工。陸軍燃焼廠治療所、図書館としての一時利用を経て、昭和25年(1950)に開館。翌年に岩国市に寄贈されました。

設計は早稲田大学教授の『佐藤武夫』。フランスの新古典主義建築型で、戦争中は灯火管制があったため、天窓から自然光を採用。戦時中の建築と言う事で、構造体はレンガ造りですが、不足する鉄に替えて竹を用いた「竹筋コンクリート」が使われたといいます。

建物正面の玄関に並ぶ角柱・・、もしかしたら足を踏み入れた瞬間にそれぞれ全く知らない未知の空間に繋がっているのかもしれない。そんな不思議な錯覚を覚えて館内に入れば、そこはまた別の異空間に続くかのごとく、錦帯橋をモチーフにした半円の通路。

妄想を振り払い💦早速、館内の展示品を拝見することに。展示内容は多岐に渡り、吉川家ゆかりの文書、歴史資料、美術工芸品等々・・・

特に興味を惹いたのは「錦帯橋コーナー」、この美しい錦帯橋の絵画が置かれているのは、昭和25年(1950)にキジア台風で流失した当時の錦帯橋の欄干。

「錦帯橋の一部材」は、見取り図の赤い印の部分に使われていたもの。

精巧に作られた1/150の模型

最後は勤王の志士の方々の中でも何故か常に贔屓してしまう(笑)「高杉晋作:遊撃軍激励の詩」


建物の前庭は牡丹園となっており、例年4月末~5月はじめには色とりどりの牡丹を愛でる事が出来ます。おりよく一度目の訪問は四月後半。

生憎の空模様でしたが、それでも大輪の牡丹は馥郁と香り、岩国の旅に更なる彩を添えてくれました。

牡丹園の奥に見える碑は「神武正統記念碑」

「神武正統記念碑:片山家の祖である久安は、豊臣家の剣術師範を勤め、慶長15年には後陽成天皇に居合の技を披露し、伯耆守の官位を任じられた。元和元年に岩国に移り住み、その後吉川家の剣術師範を歴代勤めた。片山家の来歴が記されたこの碑は明治25年(1982)に八大片山武助が建立したものである」現地案内

まるで堅固な要塞を思わせるこの建物は、1998年1月に国の登録有形文化財に登録されました。また2020年7月7日には、DOCOMOMO japan主催の「DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築」の一つにも選定されたそうです。

訪問日:2013年4月20日&2015年11月19日

 

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白蛇観覧所 in 山口県岩国市横山

2024年07月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

岩国市横山、吉香公園の敷地内に、国の天然記念物「岩国のシロヘビ」を観覧できる「白蛇観覧所」なるものがあり、どうしようかと随分と迷ったのですが・・・😔"

岩国にしか生息していない貴重な国指定の天然記念物・・・非常に珍しい、この先二度とこういう機会は無いかもと耳元で囁かれ、富士山から飛び降りる勢いで「白蛇様」と対面をしてきました😅

館内には様々な資料と共に、実際に生きている「白蛇様」を見る事が出来ます。ケースの中の細長い物は、生後一年ほどの白蛇の赤ちゃん。白蛇って一年でもまだ赤ちゃんなんですね。それとも飼育者さんの感覚的なものなのかな?。

「白蛇観覧所」と銘打つだけあって、臆病な私でも、見事にとぐろを巻いた白蛇さんに対面できました。確かここでは二匹が一緒にとぐろを巻いてたと聞かされた様な記憶があるのですが・・何しろ10年以上も前の事・・キッパリ断定できません😓

ブログにする為にフォルダを確認しながら、思えば、よく直視できたなと感慨を新たにしていますが・・実は画像は本当に少ない💦 折角の美しい白蛇様の魅力を伝えるにはいかにも情報不足。そこでパンフレットの画像から「松と白蛇様」

さらに、松と言えば対になるのは馥郁と香る梅・・「紅梅と白蛇様」。流石にプロの手にかかると「白蛇様」の気品も数億倍アップしますね😊

そうそう、面白い風刺画も展示されていました。「勅命なれば 山口県岩国錦帯橋で 皇宮警察 ふるえあがる」。コートの内側に何かを隠し持っている紳士を見かけた皇宮警察官。職務質問で隠しているものを見せろと命令。最初は渋っていた謎の紳士も、勅命と言われ止む無く隠し持っていた「白蛇」を出して見せたところ、驚いて震え上がった。・・という。そりゃぁね・・皇宮警察ならずともビックリしますよ!!

ねぇ、ねぇ、枝の上で優雅に寛ぐそこの白蛇さん。万が一にも間違ってケースから這い出して来たら、私、錦帯橋が崩れ落ちるくらいの勢いで叫ぶ自信ありますよ😱

訪問日:2013年4月20日

 

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吉香 (きっこう) 神社~其の二 in 山口県岩国市

2024年07月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

昨日に続いて「吉香神社」の紹介は、享保13年(1728)建立、明治18年(1885)に白山比咩神社より移築された、国指定重要文化財の「神門」から。

檜皮葺 切妻造 四脚門で冠木中央には、吉川家の家紋。20177年の参拝は晴れ女の異名を持つj🐣さんが同行。流石に自認するだけあって眩し過ぎるくらい良いお天気🌞

拝殿は檜皮葺・入母屋造。背面に幣殿が張り出した構造となっており、享保13年(1728)建立、明治18年(1885)に白山比咩神社より移築。拝殿幕には吉川家の家紋「輪九曜」。

本殿は檜皮葺、千鳥破風・軒唐破風付きの三間社流造。大工『明田勘九郎明眞・佐伯次郎右衛門直定』により、享保13年(1728)建立。明治18年(1885)に白山比咩神社より移築。映り込んだ不思議な色のオーブが美しい・・

現地案内には本殿と拝殿および幣殿は独特な形式で複雑な架構と屋根形式を巧みにまとめていて、独自性が認められます。社殿はいずれも軸部から小屋組まで当初形式をよく保持しており、充実した細部を備えた丁寧なつくりとなっています。全国的にも数少ない祖霊を祀る神社建築で、全体に岩国藩大工の高い技術が窺え、地方における江戸中期の優品として、高い価値が認められます。特に本殿、拝殿、神門が同一時期の建築で揃っているものは大変貴重で、昭和63年(1988) に県:有形文化財に、2004年12月10日には国の重要文化財に指定されました。

拝殿前に奉納されていた「舟形手水鉢」

社殿に隣接して枝を伸ばすのは、樹齢130年、樹高約25mの「槐(エンジュ)」。昭和54年 (1979) に山口県の天然記念物に指定されています。

本殿向かって左手に鎮座される末社「褒忠社(ほうちゅうしゃ)」

慶應元年(1865)奉納「褒忠社碑」 

もと寺谷(紅葉谷)にある竜門寺の境内に「節臣廟」を建て、吉川家の死節の臣を祀ったのが始まり。初代藩主:吉川広家が回向所としていましたが、廃藩後に神社に改められました。

明治25年(1892)、旧岩国藩公と藩の有志により吉香神社内に建立された「三士誠忠の碑(さんしせいちゅうのひ)」
「栗栖天山(くりす てんざん)は東沢瀉(ひがし たくしゃ)と必死組(後に精義隊)を組織し、藩風改革運動の先駆をなすも、柱島に流罪。慶応2年、沢瀉を救うため柱島を脱し同士に所思を訴えるも、賛同を得られず自刃。翌慶応3年、南部五竹(なんぶ ごちく)は沢瀉を救出し奇兵隊に呼応しようと計るも、未然に捕らえられ刑死。その後、沢瀉は慶応4年に釈放され、翌慶応5年に沢瀉塾を開き、後進の指導にあたった。」岩国公式サイトより

「義済堂碑」。明治6年(1873)廃藩置県で禄を失った藩士の職を確保する為、吉川氏が設立。創業当初は製紙業、養蚕業など幅広い分野の商品を商っていたそうで、碑は吉川氏の徳恩と初代の功績を記念して建立されました。

お堀に面して建つ二重屋根 楼閣造の「錦雲閣」は、旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、吉香神社内の絵馬堂として建てられたものです。

旧藩時代の矢倉に似せて造られた桟瓦葺 入母屋造の楼閣風建築で、明治18年(1885)に建造。2000年2月、国登録有形文化財に指定されました。

参拝日:2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日

残念ながら御朱印は無し・・・昔は御母堂がお書きになられていたそうですが「現在は書いておりません」とのお言葉でした。

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吉香 (きっこう) 神社~其の一 in 山口県岩国市

2024年07月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

岩国市横山、吉香公園内に鎮座される「吉香(きっこう) 神社」。御祭神は『吉川元春・吉川經義・吉川友兼・吉川經基・吉川興經・吉川元長・吉川廣家・吉川經幹・吉川廣嘉』。

由緒「元亀3年(1573)に安芸国山県郡新庄村(現・広島県山県郡大朝町)の竜山八幡宮に吉川興経の霊社として治功社を創建したのが始まりとされ、後に「岩国・椎尾八幡宮」の境内に遷座。享保13年(1728)横山の白山比咩神社境内に遷座し、「治功大明神」として現社殿を造営。寛政5年(1793)に吉川経義を祀る高秀社、吉川広家を祀る鎮昭社を創建。明治5年(1872)に治功社・高秀社・鎮昭社を統合。明治18年(1885)に白山比咩神社(白山神社)境内から吉香神社を曳家し旧城跡の現在地に移築。同時に吉香公園を開設。」

一の明神鳥居には「明治39年(1906)5月吉日 日露戦役大勝紀念」の刻。

鳥居の内より神域を守護されるのは「大正2年(1913)8月吉辰」建立の、尾道型玉乗り狛犬さん一対。台座には「岩國町 八百屋」と寄進者の職業が刻まれています。

更に境内を進み楼門近くには、明治31年(1898)建立の、獅子山に立つ江戸流れの獅子一対。

まさかね、山口県の神社で江戸流れの狛犬さんに出会えるなんて想像もしていませんでした。御亭主殿の嬉しそうな事といったら😍

魅力的な後姿。獅子山には「東京𦾔恩會(きゅうおんかい)」の刻。

2015年の二度目の参拝時に写した江戸流れ阿形さん。

同じく江戸流れ吽形さん。

2015年の境内で、私たちを出迎えてくれた綺麗で可愛い猫さん💗

2017年三度目の参拝で写した江戸流れ阿形さん

江戸流れ吽形さん・・松の大木が迫力を添えて一層凄い!

2017年の境内で、私たちを出迎えてくれた綺麗で可愛い猫さん💗

毎回、毎回、獅子山の江戸流れさんと、可愛い猫さんたちに時間を取られてしまう二人。重要文化財の社殿へたどり着けるは何時の事でしょうね😅。

という事で・・・この続きは明日の「吉香 (きっこう) 神社~其の二 in 山口県岩国市」で🌸🍀

参拝日:2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日

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御神名一口メモ

「吉川氏(きっかわし)」、藤原南家の後裔「藤原為憲」を祖とする。平安末期に駿河国入江庄に移住し入江氏と称す。玄孫経義の代に入江の吉川に住し、吉川と称する。鎌倉時代に安芸国大朝本荘の地頭職を与えられ、その後土着。戦国時代、毛利元就の次男・元春が吉川家へ養子に入り、小早川氏とともに毛利家を支え毛利両川と称された。江戸時代に周防国岩国領の主家として続き、明治維新を迎えた。

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