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田中利典師の「なぜ、一流のビジネスリーダーは修験道にハマるのか」(前編)

2024年02月21日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、2015年の師の「蔵王供正行」日記はお休みして、「NewsPicks +d」というサイトに掲載された師へのインタビュー記事「なぜ、一流のビジネスリーダーは修験道にハマるのか」(全2回のうちの前編)を紹介する。

このサイトについては、〈「NewsPicks +d」はNewsPicksとNTTドコモが共同で運営するメディアサービスです。日本各地のビジネスパーソンが身近に使える経済情報を届けます〉というものだ。

私が以前紹介した養老孟司著『唯脳論』のことにも、触れていただいている。以下、「地の文」を黒、「師の発言」を青で表示する。やや長いが、ぜひ全文をお読みいただきたい。

なぜ、一流のビジネスリーダーは修験道にハマるのか(2024.2.10)

Naraoka Shuko(AlphaDrive/NewsPicks for Business 編集者)
変化が激しく先の見えない時代において、経営者やビジネスリーダーが修験道──いわゆる山伏修行を体験するケースが増えています。「修験道」とは、山へこもって厳しい修行を行うことで悟りを得たり心の乱れを静めたりする、日本独自の宗教・信仰のこと。

「山伏」とはその修験道を実践する者を指し、山にこもり、山に伏して、山から霊力をいただいて修行をすることから生まれた呼び名です。単純なビジネス研修ではない山伏修行で得られるマインド醸成とは、いったいどのようなものなのでしょうか。そして山にはなぜその力があるのでしょうか。

修験道の総本山、奈良・吉野の「金峯山寺」で長臈(ちょうろう)職にある田中利典さんに、山伏修行の指導や、修行を受けた人たちの変化についてお聞きしました。(第1回/全2回)

座禅に勤行、滝行という「非日常的な行為」
グロービスが2016年から始めた、経営幹部のみ参加可能なプログラム〈知命社中〉。田中利典さんは現在、「“黒帯”(役員)同士が、リーダーシップを磨き込む旅」と称されたこのプログラムの登壇者の一人として、修験道の指導を行っています。

場所は、桜の名所として名高い奈良・吉野山の中腹に位置する「金峯山寺」。1泊2日のうち、初日は座学で、吉野が聖地である意味と修験道の歴史を説きます。

翌日は朝5時から座禅、6時半から「法螺も太鼓も鳴るとにかくにぎやかな」勤行が始まり、朝食後は金峯山寺の本堂である蔵王堂を拝観。さらに脳天大神龍王院まで450段の階段を下り、お滝場で滝行と護摩修行をします。

田中「滝行といっても一人10分足らずなのですが、やったことのない人にとっては非日常的な体験なんです。それで身体を清めてもらってから、龍王院の宝前で私が護摩を焚きます。そのとき、護摩の壇の側に一人ひとり来ていただきます。そのときの顔が、表情が違うんですよ。わずか1泊2日でもね」

田中さんは座学の際に「明日の体験が今後のリーダーの資質を養う血となり肉となる」と伝えるそうですが、実際に参加された方々は、

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滝行も行って心の洗濯が出来た所に田中利典先生のご講話が染み込みました。特に耳に残っているのは「今、身の周りで出来る事をする。それが地域に於いて意味を持ち、日本国に於いて意味を持ち、世界に於いて意味を持ち、果ては宇宙に於いて意味を持つ」と言う言葉です。自分が今この瞬間にこの場所にいる事、そしてその行動に何某かの意味があると考えるのは、生きて行く上で勇気付けられます。

吉野の研修で学んだ「気枯れ」ない心。里行での穢れを山行で洗い流す。リーダーはエネルギーを分け与えていくのが仕事なのに、リーダー自身に元気がなければ組織の活性化など覚束ない、つまり、気枯れている場合ではないのである。座禅・滝行・護摩行と利典先生との語らい。過酷な修行を無我夢中で実践する過程で、自身が背負っていた無駄なものがそぎ落とされ、リーダーとして常に謙虚であること。

「お天道様は見ている」という戒めを心に刻むとともに、説得力と慈愛に満ち、聞いている自分がどんどん引き込まれていく利典先生との語らいを通じ、一人の人としての圧倒的な深さを感じ、自分が少しでもその領域に近づくには何が必要か。リーダーとしてどうあるべきかの一つの解になりました。

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などの感想を残しています(知命社中「参加者の声」より)。しかも、その後、この研修が縁で吉野山にずっと定期的に通う人や、自社の幹部に対して同様のコースを依頼した人もいるのだとか。ここまで人を覚醒させる修験道とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

身体性を取り戻し、世界とつながり直す
田中「日本では古来、山にはある種の霊的な力があると信じられてきました。その人智を超えた力のある山に入り、身心(しんじん)を鍛え、法力を得て、智慧を磨く。その中で悟りを得る。これが、修験道が目指すところです」

山伏が毎夏行う修行には、吉野から山上ケ岳を経て熊野を目指す、大峯奥駈(おおみねおくがけ)があります。距離は約180km。1日12時間程度、歩き詰めます。

田中さんの著書『体を使って心をおさめる 修験道入門』によれば、この大峯奥駈に初めて参加した大手の自動車販売会社の社長は「途中で、両足のほとんどの爪がはがれ、痛くて足は進まないので」下山しようかと考えたそうです。結局歩き抜き、「そのときの達成感というか、満行での喜びは生涯に二度とないような感動」を覚えたとあります。また、田中さんご自身も、過去の大峯奥駈を振り返り、

私をとりまくすべてのものと、私とがつながっているという感覚が、旋律のように体を突き抜けたのです。降りつづく雨、そしてその雨を受けている草も樹も岩も、山も空も風も、すべてが自分とつながっている。いや自然や宇宙そのものが私自身なのだと自覚したのでした。

述べています。この修験道に経営者やビジネスリーダーが惹かれる理由は何か。田中さんはご自身の経験も踏まえ、「脳がつくった世界ではなく、身体が感じる世界を体感したいからなのではないか」と分析します。

田中「養老孟司さんの有名な著作に『唯脳論』(ちくま学芸文庫など)というのがあります。情報化社会となり、人工物に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住んでいるのだと。実際、建物にしろ車にしろパソコンにしろ、私たちは脳がつくった世界に囲まれていますよね。

しかし、人間というのは、脳だけですべての物事を解決できません。健全なる身体に健全な精神が宿り、健全なる精神に健全なる肉体が整う。これは相関関係にあって、脳も含め、身体を使い、心を整えていく必要があります。

修験道では、山に入り、峻険な登り道を『懺悔懺悔、六根清浄』と掛け念仏を唱えて進み、ときには雨風にさらされます。座禅を組む足は痛みがひどく、護摩の炎に焼かれ、冷たい滝に打たれます。そのうち、脳ではなく、身体で世界とつながる瞬間がやってくるのです」


つまり、修験道を通して身体性を取り戻すことにより、思考や論理の限界を突破できる。経営者やビジネスリーダーたちはまさにその経験を探し求めて山に入り、追体験するために二度、三度と山にやってくるのかもしれません。

吉野という聖地だからこそ得られるもの
奈良・吉野は修験道発祥の聖地とされています。金峯山寺はその総本山です。もともと吉野は神仙境(神仙が住む理想的な地)とされ、斉明天皇など多くの天皇が吉野離宮を中心に行幸した場所としても知られていました。

そして7世紀後半、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山で1000日の修行をした際、行者の修行力に応えて釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩が次々と現れ、最後に悪魔降伏の怖い姿をされた本尊「蔵王権現(ざおうごんげん)」が出現したとされます。

この金峯山寺で得度した田中さんは、2001年から金峯山寺執行長と金峯山修験本宗宗務総長を兼任。在職中にはユネスコ世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録運動でも活躍されました。また、これまでに大峯奥駈を17回行っています。

田中さんは、東京で修験道についての講演を聞くのと、自ら吉野の山に入って話を聞くのとでは「理解の浸透度がまったく違う」と言います。それをハレとケという言葉で説明しました。

田中「日本には特別な日を指すハレと、日常を指すケという言葉があります。日常というのは同じことの繰り返し。だからだんだん気(ケ)が衰え、枯れてくる。さらに気が衰え、弱ると、気が病んで病気になる。その状態を気枯れ(ケガレ)と言うわけです」

だったら気を元に戻せば元気になる。田中さんはそのために、日常(ケ)を離れ、非日常(ハレ)の場所へ行くことを勧めています。

田中「晴れ着は、天気がいい日に着るものではなく、ハレの日に着る服のこと。晴れ着を着て非日常の場所へ行くことが、昔は重要だったのです。例えば寺社仏閣にお参りに行ったり、お祭りに参加したり、聖なるものとの関係性を持つ。あるいはお正月や桃の節句にお屠蘇とか白酒を飲む。これも聖なるものを身体の中に入れるという意味合いがあります」

ものが豊かになり毎日がハレのような現代、何がハレの装置になるかと言えば、山岳修行です。吉野のような聖地で、神仏のおわす聖なる世界に触れることで、気枯れが元に戻って元気になる。だからこそ、これからの自分のあり方、会社の将来、ひいては日本や世界の幸福な未来について深く考えられるのでしょう。

習俗、習慣、文化、風土に入り込んだものこそ宗教
田中さんの昨今の懸念は、日本人の宗教観の揺らぎです。

田中「私は年間、30本ほどの映画を見ていて、先日も『ゴジラ−1.0』を見て感じたのですが、最近の邦画には宗教観がない。洋画だとまだどこかに宗教観が感じられるのですが……。ことほどさように今の日本は宗教が疎外されている感があります。だからわずか1泊2日の吉野滞在の勤行や滝行が心に響くのではないでしょうか」

経営者やビジネスリーダーに限らず、これからの社会を生きていくためには自分の個としてのアイデンティティーが大事、と田中さんは訴えます。そのために私たち日本人は日本的なるものを再度確認せねばならないのだと。

田中「日本人が無宗教、無信心などといいますが、実は日本人は過宗教。正月の初詣、クリスマス、宮参りからお葬式まで一年中、いや一生、宗教に関わる民なのです」

日本人は無宗教だとされる原因は、明治時代にeconomyを経済、natureを自然と訳したように、religionという概念を宗教と訳したことに大きな問題があります。religionとは一神教の宗教のことで、日本人がそれまで抱いていた多様な宗教や信心のあり方とはまったく違います。

田中「一神教はそれまでの宗教や民族的なものをいったん殺して、ヤハウェやアラーをあがめた。一方、日本の神道には八百万(やおよろず)の神々がいるといわれてきた。それこそ縄文時代からあらゆる森羅万象に聖なる魂を見続けてきたわけです。そして6世紀半ば、神道の国に仏教が伝来した。最初こそ、排仏派と崇仏派の争いがあったものの、その後は神仏習合という考え方を編み出しました。

ちなみに、金峯山寺の本尊である蔵王権現の『権』も『仮』という意味で、仏が神の姿を借りて現れたことを意味します。修験道はいわば仏教を父に、もともと日本にあった神道を母に、仲の良い蜜月関係の夫婦のあいだに生まれた子どものような存在なのです。

同心円状に、自分も自然も神もいる。その考えが習俗、習慣、文化、風土の中に入り込んでいる。これこそ日本人の宗教心だと私は思いますし、そういった背景をもって私たちは生きているのだということを自覚してほしい。それでこそ、経済面にしろ政治面にしろ日本人らしさを発揮できると思うのです」


次回は、「不安な時代を生きるための智慧を山伏修行や宗教的価値観からどのように得れば良いか?」を田中利典さんに伺います。
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