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「奈良を大いに学ぶ」講義録(6)平城京PARTⅡ.

2009年09月23日 | 奈良にこだわる
少しブランクができてしまったが、今回は奈良大学教授・寺崎保広氏の講義「平城京とその時代」(9/2および9/4)の第2回目である。

Ⅱ.平城宮と平城京
「鎮護国家(ちんごこっか)」とは、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策であり、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想である。この考え方ではあくまで天皇が上、仏教が下という位置づけである。しかし聖武天皇は東大寺への行幸で、南面する大仏の前に建てられた前殿に、大仏に向き合って北面して立った(天皇は本来南面して立つもので、北面するのは大仏に臣従することを意味する)。しかも自らを「三宝の奴(仏に仕える卑しい身分)」と卑下したので、仏と天皇の地位が逆転した。これが後の道鏡進出の素地となった。

藤原京までは「歴代遷宮」といって、天皇の代が替わると同時に、必ず宮の移し替えがあった。それが藤原京から変わった。宮を内に含んで人々が住む特別行政区域(京)は、自然発生的に出来上がっていたもので、計画的には作られていなかった。藤原京からは、政治経済の中心として機能するよう、都市計画に基づいて「京」が造営された。

平城宮は約1km四方、平城京は約5km四方。平城京の土地は、1丁四方(125m×125m=15000㎡=5千坪)単位で区分された(下級官人などはその1/16=1000㎡=300坪)。平城京の造営は極めて正確・厳密に行われ、測量の技術も精緻なものだった。当時の天皇の「住まい」は、掘立柱・檜皮葺だった(大極殿などは政務を行うところであり、ここに住んではいなかった)。


平城宮跡朱雀門を望む(9/17撮影)

平城宮は《平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置され役人らはそれらの門より出入りした。 東端には、東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。794年の平安京遷都後は放置され、しだいに農地となっていった。 しかし南都と呼ばれ、あくまでも本来の都は奈良と云う認識が大宮人の間にはあった》(Wikipedia「平城宮」)。

Ⅲ.奈良時代の暮らし
貴族は5位以上、6位以下は下級官人。貴族150人、下級官人1~2万人。全国では500万人。待遇は、5位以上と以下で、全く違った。「このごろの我が恋力記し集め功に申さば5位の冠」(私の恋心を記録し集めて勤務評定をしてもらったならば、おそらく5位の冠をもらうことができるでしょう)という万葉歌もあった。このように、奈良時代の役人は毎年、所属する役所の長官から勤務評定を受けていた。

当時の暮らしを知るのに、長屋王木簡が手がかりになる。これは、現イトーヨーカドーとなっている《奈良市二条大路南で1986年に発見された悲劇の宰相、長屋王(684〜729)邸跡などから出土した11万点の木簡。「長屋親王」などの記載から、親王の扱いを受けるような存在だったことや豪華な食事、邸内工房などが判明。反乱の疑いをかけられて自害した「長屋王の変」事件の後、邸宅跡は事件発端の人物、光明皇后の皇后宮になった可能性を示唆するものもあった。古代史研究の生々しい資料として、価値が高い》(知恵蔵2009)。

木簡の例としては次のようなものがある。「雅楽寮移長屋王家令所 平群朝臣廣足 右人請因倭舞」。これは雅楽寮という役所が長屋王家にあてた木簡で、平群朝臣廣足が、儀式のため「倭舞(やまとまい)」の名手を貸してほしいといっている、という意味である。他の木簡には加須津毛瓜(粕漬の瓜)、醤津名我(たまり醤油漬のミョウガ)、牛乳煎人(牛乳を煮詰めて「蘇」を作る人)などの文字が見える。


門を通して建設中の大極殿が見える(9/17)

Ⅳ.平城京以後の奈良
1.桓武天皇と平安遷都
桓武天皇の《父は天智天皇の孫,施基 (しき) 皇子の子で白壁 (しらかべ) 王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが, 770 年 (宝亀 1) 称徳天皇が没したとき, 62 歳で皇位を継承した。光仁天皇には皇后井上 (いかみ) 内親王との子とする他戸 (おさべ) 親王があり,これが皇太子に立てられた。渡来人系の卑母から生まれた山部王は親王として中務縁となっていたが, 772 年井上皇后と他戸皇太子が位を追われ,非業の死をとげる事件が起こり,代わって山部親王が 37 歳で皇太子に立てられ, 781 年 (天応 1) 即位した。ここに至るまでには,藤原氏の永手 (ながて)・百川 (ももかわ)らの策動があったとされる》(ネットで百科「桓武天皇」)。

《桓武朝は奈良時代後期のたびかさなる権力闘争や過度の崇仏などによる政治的混乱,および班田制の矛盾や国司の不正などによる社会不安に直面していたが,天皇は気力,体力ともにすぐれ,また壮年に至るまでの官人としての豊富な体験をもち,治世の間,左大臣を置くことなく,みずから強力に政治を指導し,独裁的権力を行使した。この点歴代天皇の中でも異色の存在である》(同)。

《在位の間における最大の事業は平城京からの遷都と蝦夷の征討である。前者はまず 784 年 (延暦 3) 6 月長岡京造営工事をはじめ, 11 月遷都を行ったが,翌年この事業を推進していた藤原種継が暗殺され,しかも皇太弟早良 (さわら) 親王が連座して廃され,淡路国へ流される途中死ぬという事件によって,計画の進行がいちじるしく妨げられた。そこで天皇は 793 年山背国損野郡宇太村の地を選んで造営工事をはじめ,翌年 11 月これを〈平安京〉と名付け遷都した。その後も和気清麻呂らを中心に造営事業が続けられた》(同)。

《平安京の建設と蝦夷征討の後世に及ぼした影響は大きいが,両者に要した巨額の費用は財政を圧迫し,ひいては民生の窮乏を招き,さらに早良親王の怨霊の祟りによって皇后藤原乙牟漏 (おとむろ) の死や皇太子安殿 (あて) 親王 (のちの平城天皇) の病気が起こるなど,桓武朝後半には暗い社会情勢がつのった。そこで天皇は 800 年早良親王に崇道天皇の号を贈り,井上内親王をも皇后位に復するなど怨霊の慰撫につとめ,また 805 年参議藤原緒嗣の意見を用いて造都,征夷の両事業を停止した。 桓武天皇は渡来人の血をひくため中国文化に心酔し,また鷹狩を愛し,後宮も盛大をきわめるなど,古代帝王的面目を発揮した。その子平城・嵯峨・淳和天皇がつづいて皇位を継承し, 損原 (かつらはら) 親王の子孫は桓武平氏として栄えた》(同)。



2.平城天皇と薬子の変
平城天皇は《第 51 代に数えられる平安初期の天皇。在位 806‐809 年。名は安殿 (あて)。桓武天皇を父とし,藤原良継の女皇后乙牟漏 (おとむろ) を母として生まれた。 785 年 (延暦 4) 皇太弟早良 (さわら) 親王が藤原種継暗殺に連座して廃されたため皇太子となり, 806 年 (大同 1) 即位した。父桓武天皇の平安京建設と蝦夷征討の大事業による国家財政の破綻を収拾するために,律令制の官司を大幅に整理し,地方の民情視察のため観察使を創設するなど政治に努めた。しかし早良親王の怨霊のたたりとされた〈風病〉に悩み, 809 年,皇太弟 (嵯峨天皇) に譲位した》(ネットで百科「平城天皇」)。

皇太子時代から、妃の母である藤原薬子を寵愛して醜聞となり、父(桓武天皇)から薬子の追放を命じられていた。上皇となってからは《平城旧京に移り,寵愛する尚侍藤原薬子らにかこまれて政治に介入し,ついに 810 年 (弘仁 1) 薬子 (くすこ) の変によって失脚した。その後失意の日を送り,824 年 7 月 7 日没した。詩文や和歌を愛し,その子阿保 (あぼ) 親王の子に在原行平・業平が出た》(同)。

3.嵯峨天皇と平安王朝の確立
方丈記には「この京のはじめを聞けるは、嵯峨天皇の御時、都と定まりにける…」(嵯峨天皇の時、都を京都に移した)とある。平城上皇の時、一旦奈良に都を戻そうとした。その案が破綻して平安京に都が確定したのが嵯峨天皇の時なので、このように書かれたのだろう。

嵯峨天皇は《桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他》《当時は農業生産が極度の不振にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人》(以上、Wikipedia「嵯峨天皇」)。



なお臣籍降下とは、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること(皇親賜姓=こうしんしせい)である。《奈良時代の皇統(天皇の血筋)が断絶したことを教訓として、平安時代には安定した皇位継承のため、多くの皇子をもうけることがよく行われた。しかし、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られ、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生することとなった。これらの皇族に対しても律令の定めにより一定の所得が与えられることで財政を圧迫する要因となったため、皇位継承の可能性がなくなった皇族たちを臣籍降下させることが行われるようになった》(Wikipedia「臣籍降下」)。

《また、この頃になると、皇族が就任できる官職が限定的になり、安定した収入を得ることが困難になったために、臣籍降下によってその制約を無くした方が生活が安定するという判断から皇族側から臣籍降下を申し出る例もあった。だが、臣籍降下して一、二代ほどは上流貴族として朝廷での地位を保証されたが実際には三代以降はほとんどが没落して地方に下向、そのまま土着し武士・豪族となるしかなかった》(同)。

嵯峨天皇は《823年、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した》(Wikipedia「嵯峨天皇」)。

4.平城京の発見
《1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。 明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、「平城宮址」は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)》(Wikipedia「平城宮」)。


画像は平城宮跡にある棚田嘉十郎翁の銅像(トップ写真とも。6/24撮影)

《のちに「址」(し・あと)が常用漢字外であるため「平城宮跡」と書かれるようになる。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され保存されている。なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である》(同)。

私は棚田嘉十郎のことを、中田義明著『小説 棚田嘉十郎』(京都書院)で知った。《明治-大正時代の文化財保護運動家。万延元年4月5日生まれ。大和奈良町の植木商。明治30年関野貞によって発見された平城宮跡が放置されていたため、33年私財を投じて保存運動をはじめる。45年奈良駅前に道程をしめす大石標をたてる。大正2年発起人として平城宮大極殿跡保存会を発足させた。大正10年8月16日死去。62歳》(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。以前、当ブログでも紹介したことがあるので、こちらも参照していただきたい。
※棚田嘉十郎翁を偲ぶ(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/6af447d39a767de00b70ee1d8b05566c

以上が(私が理解できた限りの)「平城京とその時代」である。寺崎氏の話は論旨明快で、A3版12ページもの豊富な資料をご用意いただき、丁寧に説明して下さった。特に氏が調査に携わった長屋王木簡の話はとても興味深かった(パソコンでは漢字の変換が難しいので、あまり紹介できなくて残念だった)。また黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)のエピソードや臣籍降下の話など、新鮮な驚きの連続だった。

寺崎先生、有り難うございました。

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3 コメント

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奈良学 (あをによし南都(南都))
2009-09-23 08:36:46
ご講義内容、たいへん勉強になりました。
天皇と仏教の関係は、聖武帝からそうだったんですね。
やはり奈良は仏都としての側面をきちんと勉強するのが価値大きそうですね。
明治以降の大転換(仏⇒神)についてはこの奈良時代での事象を踏まえると比較再考できるのでしょうね。
PSちなみに今日は万葉ラブストーリーですね。
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醍醐味と萬葉集 (畳薦)
2009-09-23 11:19:32
 牛乳を煮詰めたという「蘇」を醍醐とも言うのか、醍醐味はここから来ているらしい。第5番目の味という意味もあるようです。長屋王は食用に鶴も邸内で飼育していたそうで、現代人の感覚と流通体系の違いに気が付きます。
 平城上皇は蟄居生活の中で萬葉集の編纂に当たったという説もあります。家持以後に関与したのでしょうな。
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楊梅陵 (tetsuda)
2009-09-23 17:00:40
南都さん(改め あをによしこうじさん)、畳薦(たたみこも)さん、コメント有り難うございました。

> 天皇と仏教の関係は、聖武帝からそうだったんですね。

これは新発見でした、奈良と仏教の結びつきは、こんなにも深かったのですね。

> 平城上皇は蟄居生活の中で萬葉集の編纂に当たったという説もあります。

そうでしたか、それは存じませんでした。今度、楊梅陵(やまもものみささぎ)の辺りへ行きますので、よく見ておきます。
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