金峯山寺長臈・田中利典師のブログ「山人のあるがままに」から、印象に残った過去の名作を紹介している。今回は「葬儀研修の講義」(2008.10.12)。この内容は、「葬儀概論」として、師は実際に研修でお話しになった。
※トップ写真は、吉野山「一目千本」からの眺望(2023.3.28 撮影)
トシを食うと、周囲で亡くなる人が出てくる。お葬式は葬儀屋さんが仕切ってくれるので、家族葬だとお寺に連絡したり、お布施の金額を決めたり、位牌を手配したりという程度で、深い意味を考えることはなかった。だから今回のお話(霊肉分離説)は、とてもタメになった。皆さんも、ぜひ最後までお読みください!
葬儀研修の講義。今日から葬儀に関わる特別研修会を開催している。一泊二日の研修に今年は36名が集った。午後から約1時間半、私も講義をしている。私の「葬儀概論」から。
・・・・・・・・・・
仏教というのは仏になる教えであります。これは、私自身がなるのであります。死んだ人がなるわけではありません。私が仏に成ること、成仏することを説いた教えが、仏教の原理そのものなのです。
しかしながら、その仏教が日本に入って来ますと、仏教の教理とは別に、日本の中にすでにあった祖霊信仰なり、霊魂と肉体とが別のものだという考えの中で、仏教が受容されてきました。日本人は肉体と魂は別のものだと考えます。霊肉分離説というのですけれども、霊魂と肉体は別のものだという、習俗、感性が前提にあります。
ですから、人は死ぬことによって、まさに霊魂になって、葬送と祭祀の対象となるのです。葬儀をする対象、それから祭祀をする対象―― それが霊魂です。葬送と祭祀を通して、日本人は、死んだ人の霊魂が仏になる、祖霊になる、家を守る先祖霊になる、と考えてきました。
ですから、先祖供養が生まれるのです。亡くなった霊は葬送をして、祭祀をして、祖先の霊となっていく、そのように考えて葬儀が行われてまいりました。
葬儀には実は二つの側面があります。一つは、遺体の処理であります。人間死んだら、そこには遺体が残ります。これは、なかなかやっかいです。昔は結構、日本人はその辺に放置していました。みんながみんな、墓を立てたりというようなことはしませんでした。
なぜかというと、霊肉分離説ですから、遺体には魂はないのですから、死んだあとの肉体は言ってみれば着ていた服を脱いだようなものです。そんなわけで疎略に扱いましたが、だんだん時代と共に、その考えも変わってきまして、遺体を大切に処理するようになります。
あるいは、骨に対しては、霊魂との関係で日本人は他所の国の人たちには考えられないぐらい強い執着を持っています。それも、遺体は霊魂の抜けガラですが、骨には霊魂が、依り代としてあるように感じています。
少なくとも死んだ場合、遺体の処理をしなければなりません。現在はほとんど火葬ですが、土葬も残っています。これは遺体の処理の仕方です。昔は、風葬や鳥葬とかが平気で行われていました。今でも、アフガニスタンなどに行きますと、風葬があると聞きますが、ま、現代の日本では、基本的に火葬に致します。
今、西洋はまだ土葬です。日本で火葬が取り入れられたのは、どうしてかといいますと、もちろん仏教の伝来によるところが大きいのですが、もうひとつ見逃せないのがもともとの考えの中に、霊魂分離説があるからなのです。
霊魂は遺体に宿っていないから、焼いて、骨にすることが出来るのです。そういう考えが根底にあるのです。とにかく、遺体の処理をしなければいけない。これが、お葬式の一つの役目であります。
もう一つが鎮魂です。いわゆる霊魂のお弔いの問題です。先ほど申しましたように霊魂と肉体は分離しているわけですから、遺体の処理と、霊魂のお弔いがあります。この霊魂のお弔いに、実は我々は僧侶として関わるわけであります。
私たちは、霊魂の処理をするために、仏教の法にかなった作法をする。皆さん方が今から勉強していただくのは、霊魂のお弔いを、宗教人としてどう関わっていくか、そういう勉強をしていただくのです。
この霊魂のお弔いにも二つの側面があります。一つは、亡くなった霊魂自体の処理。それともう一つは霊魂に関わる、いわゆる遺族の心の処理です。人間は一人では生きていません。一人の人間には、その関わりのある人たち、みんながその人格を作っているわけですから、その個人の死は、個人の死であると共に、その人に関わるみんなの中での共有された死でもあるわけです。
ですから、霊魂のお弔いというのは、亡くなった魂自体の処理もあるけれども、その人に関わる、遺族、関係者の心の処理でもあるのです。この二つの面があるという事も、是非とも思っていただきたいです。
そういう葬儀の二つの側面を考えたときに、霊魂のお弔い、鎮魂と言うことが我々にとって大変重要なことになるわけです。ですから、それをどう行なうのか。葬儀に対する私たちの意義を見い出さなければならないということになります。
・・・・・・・・・・
かくのごとくの講義を縷々述べるわけですが、修験僧の私は祈願はまあ専門分野ですが、いささか葬儀は専門外なので、なかなか難しいです。毎回講義をさせていただきながら、私自身が勉強になります。明日の夕方まで、頑張ります!
※トップ写真は、吉野山「一目千本」からの眺望(2023.3.28 撮影)
トシを食うと、周囲で亡くなる人が出てくる。お葬式は葬儀屋さんが仕切ってくれるので、家族葬だとお寺に連絡したり、お布施の金額を決めたり、位牌を手配したりという程度で、深い意味を考えることはなかった。だから今回のお話(霊肉分離説)は、とてもタメになった。皆さんも、ぜひ最後までお読みください!
葬儀研修の講義。今日から葬儀に関わる特別研修会を開催している。一泊二日の研修に今年は36名が集った。午後から約1時間半、私も講義をしている。私の「葬儀概論」から。
・・・・・・・・・・
仏教というのは仏になる教えであります。これは、私自身がなるのであります。死んだ人がなるわけではありません。私が仏に成ること、成仏することを説いた教えが、仏教の原理そのものなのです。
しかしながら、その仏教が日本に入って来ますと、仏教の教理とは別に、日本の中にすでにあった祖霊信仰なり、霊魂と肉体とが別のものだという考えの中で、仏教が受容されてきました。日本人は肉体と魂は別のものだと考えます。霊肉分離説というのですけれども、霊魂と肉体は別のものだという、習俗、感性が前提にあります。
ですから、人は死ぬことによって、まさに霊魂になって、葬送と祭祀の対象となるのです。葬儀をする対象、それから祭祀をする対象―― それが霊魂です。葬送と祭祀を通して、日本人は、死んだ人の霊魂が仏になる、祖霊になる、家を守る先祖霊になる、と考えてきました。
ですから、先祖供養が生まれるのです。亡くなった霊は葬送をして、祭祀をして、祖先の霊となっていく、そのように考えて葬儀が行われてまいりました。
葬儀には実は二つの側面があります。一つは、遺体の処理であります。人間死んだら、そこには遺体が残ります。これは、なかなかやっかいです。昔は結構、日本人はその辺に放置していました。みんながみんな、墓を立てたりというようなことはしませんでした。
なぜかというと、霊肉分離説ですから、遺体には魂はないのですから、死んだあとの肉体は言ってみれば着ていた服を脱いだようなものです。そんなわけで疎略に扱いましたが、だんだん時代と共に、その考えも変わってきまして、遺体を大切に処理するようになります。
あるいは、骨に対しては、霊魂との関係で日本人は他所の国の人たちには考えられないぐらい強い執着を持っています。それも、遺体は霊魂の抜けガラですが、骨には霊魂が、依り代としてあるように感じています。
少なくとも死んだ場合、遺体の処理をしなければなりません。現在はほとんど火葬ですが、土葬も残っています。これは遺体の処理の仕方です。昔は、風葬や鳥葬とかが平気で行われていました。今でも、アフガニスタンなどに行きますと、風葬があると聞きますが、ま、現代の日本では、基本的に火葬に致します。
今、西洋はまだ土葬です。日本で火葬が取り入れられたのは、どうしてかといいますと、もちろん仏教の伝来によるところが大きいのですが、もうひとつ見逃せないのがもともとの考えの中に、霊魂分離説があるからなのです。
霊魂は遺体に宿っていないから、焼いて、骨にすることが出来るのです。そういう考えが根底にあるのです。とにかく、遺体の処理をしなければいけない。これが、お葬式の一つの役目であります。
もう一つが鎮魂です。いわゆる霊魂のお弔いの問題です。先ほど申しましたように霊魂と肉体は分離しているわけですから、遺体の処理と、霊魂のお弔いがあります。この霊魂のお弔いに、実は我々は僧侶として関わるわけであります。
私たちは、霊魂の処理をするために、仏教の法にかなった作法をする。皆さん方が今から勉強していただくのは、霊魂のお弔いを、宗教人としてどう関わっていくか、そういう勉強をしていただくのです。
この霊魂のお弔いにも二つの側面があります。一つは、亡くなった霊魂自体の処理。それともう一つは霊魂に関わる、いわゆる遺族の心の処理です。人間は一人では生きていません。一人の人間には、その関わりのある人たち、みんながその人格を作っているわけですから、その個人の死は、個人の死であると共に、その人に関わるみんなの中での共有された死でもあるわけです。
ですから、霊魂のお弔いというのは、亡くなった魂自体の処理もあるけれども、その人に関わる、遺族、関係者の心の処理でもあるのです。この二つの面があるという事も、是非とも思っていただきたいです。
そういう葬儀の二つの側面を考えたときに、霊魂のお弔い、鎮魂と言うことが我々にとって大変重要なことになるわけです。ですから、それをどう行なうのか。葬儀に対する私たちの意義を見い出さなければならないということになります。
・・・・・・・・・・
かくのごとくの講義を縷々述べるわけですが、修験僧の私は祈願はまあ専門分野ですが、いささか葬儀は専門外なので、なかなか難しいです。毎回講義をさせていただきながら、私自身が勉強になります。明日の夕方まで、頑張ります!