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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

万博も開幕し、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

奈良交通・古事記をめぐるバスツアー「葛城コース」案内記

2012年11月05日 | 記紀・万葉
昨日(11/4)、奈良交通の「まほろばソムリエと行く!『古事記』をめぐるバスツアー」(旅行企画・実施=奈良交通、協力=奈良まほろばソムリエ友の会)の葛城コースをガイドした。正式なツアー名は「葛城山麓に鎮座する神々と出会う」(@6,000円)である。ガイド(講師)は田原敏明さんと私、サポーター(オブザーバー)は小田久美子さんと大山恵功さん。4人とも、奈良まほろばソムリエ友の会のメンバーである。添乗員は谷奈々子さんだった。ご参加者は約40名で、定員いっぱいである。さわやかな秋晴れに恵まれ、心地よく葛城山麓の史跡をめぐることができた。

田原さんは奈文研のガイドもされているベテランで、とてもお話が上手である。私は「田原名人」と呼んでいる。ガイドの分担は田原さんが現地、私がバス車中としていたが、田原さんには車中でもお話しいただいた。私は車中で、司馬遼太郎の『街道をゆく』(1)で紹介された葛城周辺に関する文章などを紹介した。以下、田原さんが作られたレジメに従ってツアーの様子を紹介する。



ツアーは近鉄奈良駅・若草書店前を午前9時に出発。JR奈良駅、近鉄八木駅を経由して、一路、葛城市へ。今回は相当マニアックなツアーである。車中では、谷さんが地図に従ってこの日回る道順を説明、田原さんは葛城市の歴史などを紹介。まず到着したのは「葛木倭文座天羽雷命神社((かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)」である。葛城市が発行した地図には「加守(かもり、かむもり)神社」とあるが、これは境内摂社の名前である。



倭文(しずり)神社、加守神社とも呼ばれる。倭文は「しずり・しとり・しどり」の読み方がある。全国の倭文神社の総社。主祭神は天羽雷命(織物の神様、倭文氏の祖神)。倭文氏は大和朝廷で機織り・織物作りを生業とした伴造。今も「倭文織り」が伝わる。摂社は加守(かむもり・掃守)神社(天忍人命)で、産育の職号の始祖、掃守(蟹守)氏の祖神。もう1つの摂社が二上(ふたかみ)神社(大国魂命)。二上山山頂にある葛木二上神社と一体。

棚機(たなばた)の森、棚機神社(棚機宮)。葛城の機織り部民、倭文氏の奉斎した倭文神社の旧鎮座地と伝わる。七夕の由来としては、中国より伝えられた「七夕(しちせき)儀礼(=乞巧奠[きっこうてん])。棚機(当時の最新技術)と日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」の風習とが習合する。
「彦星と織女(たなばたつめ)と今夜逢ふ 天の川門に波立つなゆめ」(万葉集 巻10-2040) 




葛城市のHPによると《葛城市太田から山手の伏越(ふしごえ)方面へ上がって行くと、「棚機の森」と呼ばれるところがあります。言い伝えによると、昔、この場所に葛木倭文坐天羽雷命神社があったと言われており、現在は木立の中に棚機神社と呼ばれる石の祠が置かれ、織物の神様である天棚機姫神が祀られているそうです》《葛城市太田小字七夕の中央北よりに鎮座し、糸の神様として古くから一部の近在の人に、細々と崇拝されてきた。「タナバタサン」と呼ばれる古い祠が祀られる》。当ブログ記事「棚機神社のナゾを解明!」も、ご覧いただきたい。


  
太田古墳群(古墳時代後期)。30基を発掘調査し、弥宮(やみや)池1号墳(横穴式石室)と小山2号墳(家型石棺)を移築展示。葛城山東麓には寺口忍海古墳群、寺口千塚古墳群、笛吹古墳群、竹内古墳群などがある。



博西(はかにし)西神社(=陵西神社)。祭神:下照比売命(したてるひめのみこと)、配神:菅原道真。屋敷山古墳の西に鎮座するので陵西、墓西とも言われる。本殿(国重文)は室町後期の一間社春日造り(両殿を障塀で連結)。





下照比売命は、《『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹》(Wikipedia)である。なお阿治須岐高日子根命は、高鴨神社(御所市鴨神)のご祭神である。私たちはこのあと、屋敷山公園でお弁当の昼食をいただいた。


大和路外販センター(奈交フーズ)さんのお弁当。とても美味しかった

添乗員の谷さんは早速、Facebookに写真をアップされていた。コメントは《今日は奈良まほろばソムリエさんとのタイアップツアーで葛城に。相変わらず人気のツアーです、嬉しい限り。天気がいいのでピクニック気分でお弁当の昼食を楽しんでます。天気の神様ありがとう》。


こちらは谷さんがFacebookにアップされた写真(屋敷山公園)

屋敷山古墳:築造470年頃、全長135m・前方後円墳。中世に新庄を支配した布施氏に崇敬・保護される。



葛城市のH
Pによると《関ヶ原の合戦で徳川方について大名に取り立てられた桑山一晴は、この古墳の全構造を利用し、ここに陣屋を築きました。古墳の周囲の濠(ほり)も城の掘となりました。葛城市歴史博物館では、屋敷山古墳出土の長持形石棺(ながもちがたせっかん)を展示しています》とある。


「新庄城址」の石碑のある小山が屋敷山古墳である。前方部から後円部を見たところ


屋敷山公園には、石棺の蓋石が展示されていた

葛木坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ=笛吹神社)。主祭神は火雷大神(ほのいかづちのおおかみ。宮中大膳職坐神・火の神様)、天香山命(あめのかぐやまのみこと。笛吹連の祖神、音楽の神様)。相殿には大日)霊貴尊(おおひるめむちのみこと)、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、伊古比都幣命(いこひつべのみこと)。





笛吹神社古墳(6世紀前半の円墳で、横穴式石室に家形石棺を置く)。笛吹連の祖、櫂子(かじし)の父、建多乎(たけたお)利(りの)命(みこと)の古墳と伝わる(奈良まほろばソムリエ検定公式テキストブック)。波々迦木(ははかのき)。
「笛吹のははかの木をきりて都に奉りぬれば神司亀の卜する事にぞ侍りけるとかや」(奥儀抄)。大砲:日露戦争(1904~1905)の戦利品で、明治42年に明治政府より献納された。大砲本体は当時のままだが、車輪は昭和51年に復元された。







    
角刺神社(つぬさしじんじゃ。角刺宮跡)。御祭神:飯豊青命(いいとよあおのみこと)。飯豊青皇女=履中(りちゅう)天皇(17代)の皇女(古事記)、または 市辺忍歯別王(いちべのおしはわけのみこ)の王女(日本書紀)。



葛城市のHPには《角刺神社は、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗った、と記されています。日本の歴史において、最初の女帝は推古天皇と言われており、日本書記や古事記は彼女と天皇としては記していませんが、後世には彼女を天皇とする歴史書も残されています》。



飯豊天皇陵=北花内大塚古墳(前方後円墳:全長90m)・葛城埴口丘陵。日本書紀は陵と表記し、天皇陵扱いする。 扶桑略記は飯豊天皇と記す。「冬十一月(しもつき)に、飯豊青尊、崩りましぬ。葛城埴口丘陵(かつらきのはにくちのおかのみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」



葛城市のHPには《飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにくちのおかのみささぎ) 歴史の表舞台から立ち去った最初の女帝と言われる飯豊天皇の墓です。「古事記」・「日本書紀」によると、角刺神社(つのさしじんじゃ、葛城市歴史博物館南隣)で政務を執り行ったことが伝えられています》。



屋敷山公園と笛吹神社(葛木坐火雷神社)を除けば、訪ねる人の少ない神社や史跡ばかりであるが、棚機の森や太田古墳群を回っているハイカーたちがいて、驚いた。「こんな所にまで、マイカーで訪ねてくる人がいるんですね」と田原さんと話したが、よくよく考えれば向こうの方こそ「こんな所にまで、大型観光バスで訪ねてくる人がいるんだ」と驚いていたことだろう。

奈良交通さんは道路や駐車場所をよく調べておられ、終始スムーズに運行されていた。さすがに、伝統ある地元バス会社である。この「まほろばソムリエと行く!『古事記』をめぐるバスツアー」、今後の予定は以下のとおりである。

(1)葛城山麓に鎮座する神々と出会う(@6,000円)
 ■平成24年11月10日(土)
(2)神武東征の軌跡をたどる(@5,800円)
 ■平成24年12月1日(土)、16日(日)
(3)御所・葛城に黎明期の大和を訪ねる(@5,800円)
 ■平成25年3月10日(日)、17日(日)
(4)悲劇の英雄・ヤマトタケルの生涯に迫る(@5,800円)
 ■平成25年3月24日(日)、30日(土)

私のガイド当番は(1)(3)(4)のツアーである。(2)のツアーには、サポーター(オブザーバー)として参加する。1月~2月には、古事記ではなく「単発」のバスツアーとして、巳の神さま参り、学問の神さま参り、ぼけ封じとぽっくり寺参りを予定している。奈良交通のHPを見ていただいて、ぜひご参加いただきたい。

田原名人、素晴らしいガイドを有難うございました。来週もお世話をおかけいたします。皆さん、奈良交通のバスツアーに、ぜひご注目ください!
コメント (2)
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