てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

浮かれあるき、撮りあるき ― 祇園祭2008 ― (1)

2008年07月14日 | 写真記


 新しい仕事について、あたふたしている間に、いつの間にか祇園祭の季節になってしまった。実をいうと、7月に入ったときからすでに祭ははじまっているのだが、ぼくみたいに京都に住みながらも体半分は大阪に属するような生活をしている人間には、駅などにコンチキチンの祇園囃子がテープで流れはじめるまで実感がわかない。巡行の順番を決めるくじ取り式で、長刀鉾につづく「山一番」をぼくの好きな孟宗山が引き当てたということも、かなり後になってからインターネットのニュースで知った。

 気がつくと、あれよあれよといううちに山鉾建てがはじまり、すでに曳初めを終えてしまっているところもあった。一般の観光客が祇園祭に押し寄せるのは14~16日の宵山と、17日の山鉾巡行であるが、今年は曜日のめぐり合わせが悪く、すべてが平日である。ぼくはこのほど日勤の仕事に転職したため、木曜日の朝からおこなわれる巡行を見るのは絶望的だ。せめて3日間の宵山には駆けつけようと思っているが、いくら急いでも大阪の職場から烏丸駅までは1時間近くかかる。はたしてどれほど見られるだろうか。

 ともあれ、仕事帰りに立ち寄るだけでは、浮かれ気分も半減である。ややフライング気味に、祭の準備に忙しい日曜日の山鉾町界隈をめぐってみた。すでに7割方、鉾はできあがっているようだった。うだるような猛暑の一日であったが、祭にかかわる人々の表情は実に生き生きとしていた。

 もちろんデジカメ片手に出かけたのだが、今回はちょっと変わったアングルでねらってみた。

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【長刀鉾】
 一番人気は、何といってもこの鉾だろう。毎年必ず、巡行の先頭を切って進む、特別な使命を帯びた鉾である。唯一の生き稚児が乗っており、四条通に張られたしめ縄を切り落とすことで、巡行が開始される(他の鉾でも昔は生き稚児を乗せていたが、今は人形になっている)。


〔長刀のシルエットがビルと背比べをする〕


〔屋根裏の鳥の図は、松村景文の筆(呉春の弟)。刀鍛冶の人形も据えてある〕

【菊水鉾】
 室町通の高層ビルに挟まれるようにして、巨大な鉾が屹立している。道をいっぱいにふさぐほどの迫力で、なかなか壮観である。


〔鉾建てのすんだ菊水鉾〕


〔「菊水」と書かれた扁額のまわりを龍が取り囲む〕


〔真木の上方には菊の造花も飾られている〕

【岩戸山】
 天の岩戸に由来しているという。巡行の日には屋根の上にイザナギノミコトのご神体を乗せる。


〔もっとも南に位置する山のひとつ〕


〔山の下をのぞき込むと、見事な“縄がらみ”が見える〕

【船鉾】
 現存する鉾では唯一、船のかたちをしている。安定感は抜群である。古い『洛中洛外図』を観ても、その存在はすぐに見分けられるだろう(かつては「大船鉾」というのもあったが、江戸時代に焼失した)。去年だったか、船鉾の曳初めを見る機会があったが、新町通りを勇壮に北上した後、バックして会所付近に戻ったように覚えている。後ろに進む船は、世界広しといえどもここぐらいだろう。


〔舳先には金色の怪鳥がとまる。ご神体は神功皇后〕


〔木材には「昭和四拾(五年?)の年記が〕


〔まるで浮彫りのような見事な水引〕

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 実はこの日の夜、宵山前夜の様子も撮ったのだが、次の機会に譲りたい。

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絵画が動くとき(3)

2008年07月12日 | 美術随想

ジュリアン・オピー『イヴニング・ドレスの女』(国立国際美術館蔵)

 ジュリアン・オピーの『イヴニング・ドレスの女』は、一見するとポップな絵画に見える。ほとんどイラストレーションといってもいいような、簡潔な線と平坦な色面で構成された女性像である。都会的な、スタイリッシュなかっこうをしていて、このような人物が正面きって描かれること自体が美術の世界では珍しいことかもしれないが、規格化された現代のマンションのリビングなんかに貼っておくには、ルノワールの油絵よりもこのようなポスターがよく似合う。

 だがよくよく観ると彼女、ほんのちょっと動いている。そのつぶらな瞳でまばたきしたり、眉毛をうごめかしたり・・・。実はこの作品も絵画ではなく、壁に掛けられた液晶モニターに映し出されていたのである。サム・テイラー=ウッドの作品でもそうだが、テレビが年々薄くなり、床置き式から壁掛け式になるにしたがって、「液晶絵画」はタブローへと容易に姿を変える擬態能力を手に入れたといっていい。

 実はこの作品は、ジュリアン・オピーの公式サイトからダウンロードできる(タイトルは『monique smiling』)。画像ではなく、動きを含んだものが入手できるのだが、これも絵画ではちょっと考えられないことだ。ぼくはこの女をパソコンの壁紙に貼りつけて、しばらくそのままにしておいた。何か用事をしていて、ふと思いついてパソコンを見ると、彼女は誰に対してか、このぼくに向かってか、相も変わらず表情を動かしつづけている。

 家でペットを飼っている人なら、自分を見つめる愛くるしい瞳に気がついたとき、思わず心うたれるにちがいない。だが彼女は、プログラムどおりに稼働しているだけである。そこには何の感情も生まれようがない。モニターのうえに貼りついて顔の一部分を動かしている彼女よりも、シャツに貼りついた何とかいう名前のカエルのほうが表情豊かだといったら、オピーは怒るだろうか。

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やなぎみわ『Fortunetelling』(作家蔵)

 このたびの展覧会には、なかなかクセのあるアーティストが顔をそろえていた。ただ、彼らが普段から「液晶絵画」というジャンルを自作の一環に加えているのか、それはわからないことだ。

 現代日本の美術界でもっとも有名なひとりである森村泰昌は(彼は今でもJR鶴橋駅近くの高架下にアトリエを構えているのだろうか)、さまざまなところで作品を眼にする機会があるが、たいていは名画のなかの人物に扮した大判の写真である。今回もフェルメールの『真珠の耳飾の少女』や『画家のアトリエ』のなかの人物になり切っていたが、映像作品として観たのははじめてであった。

 だが実をいうと、ぼくは彼の作品をあまり理解できているとはいえない。以前、京都市美術館の玄関で素顔の森村氏とすれちがったことがあったのだが、そのときも声をかけずにしまった。

 ほかにもやなぎみわの作品があったが、彼女はむしろ写真家として(しかも制作にコンピューターを駆使する作家として)有名なはずだ。環境音楽で知られるブライアン・イーノの作品もあった。ぼくが「液晶絵画」と聞いて真っ先に連想した束芋(たばいも、田端家の妹の意)や、デジタル数字の光をさまざまに明滅させる宮島達男は、そこにはなかった。考えてみれば宮島の作品は液晶でもなければ絵画でもないかもしれないが、動く美術作品としてかなり重要なものだとぼくは考えている。

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千住博『水の森』(作家蔵)

 なかでも意外だったのが、日本画家の千住博が出品していることだった。『水の森』というその作品は、一見すると精密に描かれた屏風のようである。しかししばらく観ていると、不意に鳥が画面を横切ったり、水面がさざ波立ったりしているのに気がつく。非常に高画質の映像なのである。

 もちろん、もともとは千住の描いた絵があって、それを画面に取り込んでいるのにちがいない。だったら、別に動いていなくてもいいからオリジナルの絵こそが観たい、とぼくは思ってしまう。暇さえあればテレビを見るよりも画集を眺めたり、展覧会に出かけたりすることを生き甲斐としている人間には当然の感想だろう。

 絵画のなかに無限の時間を封印できるのは、優れた画家の特権である。かつての画家たちは、二次元の平面にいかにして時間の存在をすべり込ませるか、大いに苦心したはずだ。昔の絵師はひとつの場面のなかに同じ人物を何度も描いて、時間の経過を示そうとした。モネは、時間帯によって刻々と姿を変える対象を何枚もの絵に描きわけた。デュシャンの『階段を降りる裸体』では、動きの残像が絵の構成要素のすべてだった。皆それぞれのやり方で、彼らなりの解決方法を見出してきたのである。

 千住博も、例の滝の絵のなかで、ひとつの答えに逢着していたのだ。「千住博の夜の滝」という記事にも書いたが、彼は絵の具を上から垂らすという技法と出会うことで、絵画に時間の流れを内包させることに成功していた(少なくとも本人はそう確信していた)はずである。なぜ今さら「液晶絵画」のなかで、実際に絵を動かしてみる気になったのか、ぼくにはどう考えてもわからなかった。

(了)


DATA:
 「液晶絵画 Still/Motion」
 2008年4月29日~6月15日
 国立国際美術館

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絵画が動くとき(2)

2008年07月09日 | 美術随想

ビル・ヴィオラ『プールの反映』(作家蔵)

 「液晶絵画」展の会場に入ると、いきなり真っ暗なフロアに案内された。係員が懐中電灯を持っていたりして、何だかものものしい。部屋の真ん中にはスクリーンが下がっており、不思議な情景が繰り返し映し出されている。ビル・ヴィオラの『プールの反映』という映像作品である。

 雑木林に囲まれて、水を満々とたたえたプールがある。そこへ男がひとり、遠方から歩み寄ってくる。やがて男はエイヤッとばかり水に飛び込もうとするのだが、宙に浮かんだまま男の体は静止して、ビデオの一時停止ボタンを押したときのように、不意に時の流れが止まってしまう。

 ・・・と思ったら、男を除いたすべてのものには、相変わらず時間が流れつづけていた。水面はさざ波立ち、どこの誰かわからない人影が映ったり、懐中電灯で照らしたような光が映り込んだりする(まさか係員の持っているそれではあるまい)。まるでマグリットの世界のようだが、気がつくと宙に浮いていたはずの男の姿はそこになく、やがて彼はずぶ濡れのかっこうで水のなかからはい上がってきて、もと来たほうへ去っていく。だいたいそんな内容だったと思う。

 この作品が何をあらわそうとしているのか、あまりはっきりしなかった。ひとつだけ感じられたのは、絵画と映像の間には途方もない時間の落差があるということだ。アポリネールの詩ではないが、時間は流れ、絵画は残るのである。プールの上に静止し、あたかも絵に描かれた人物のようになった男のまわりでは、森羅万象が容赦なく移り変わっていく。

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サム・テイラー=ウッド『スティル・ライフ』(作家蔵)

 サム・テイラー=ウッドはより先鋭的なやり方で、絵画と映像の関係を問い直してみせる。絵画の領域に、カメラという文明の利器を引っさげてドカドカと土足で踏み込んでくる。そんな印象である。

 『スティル・ライフ』と『リトル・デス』の2作品は、並べて展示されていた。一見すると、どこにでもある平凡な静物画のように思われる。だが、実はこれも映像である。固定カメラに記録された長大な時間の経過が、たった数分に凝縮されてわれわれの眼の前を飛ぶように過ぎていく。

 『スティル・ライフ』では、皿にこんもりと盛られた果物が机に置いてある。絵画であればいつまでもみずみずしい鮮度を保ったままのはずだが、これは映像であるから、当然のように腐っていく。白っぽいカビが繁殖し、大きく膨張するように見えながら、確実にしなびていく。しまいにはすっかりひからびて、黒く小さく固まってしまう。

 ぼくはふと、セザンヌのことを思い出してしまった。リンゴの絵でパリを征服したいと豪語したセザンヌは、腐るまでリンゴを観察しつづけたという逸話がある。もしその話が本当なら、彼は腐ったリンゴを描いても不思議ではなかったはずだ。それを描かなかったのは、ひとえにセザンヌの美的感性のゆえであるが、映像は絵画芸術の隠された部分を容赦なく暴き出す。

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サム・テイラー=ウッド『リトル・デス』(作家蔵)

 もうひとつの『リトル・デス』。これは驚くべき作品だった。逆さまにぶら下げられた兎の死骸という残酷なモチーフは、かつてヨーロッパの静物画には頻繁に描かれたものだが、それを延々と撮影しているのである。もちろん、本物の兎の死骸をだ。

 徐々にかたちが崩れてきたかと思うと、何やら細かい砂塵のようなものが兎の体内からわき出てくる。はっきりとは見えないが、おそらく蛆虫の集団であろう。はらわたまで食いつくされた兎のなきがらは、なかば液体となって溶け出したように(早送りなのでそのように見えるのだ)、原形をとどめぬまでに変容してしまう。儀式によって美化されない、涙をこぼす余地もないむき出しの“小さな死”の姿。それは凄絶ではあるが、われわれの知らない自然界では日々繰り返されていることがらでもあろう。

 日本の絵画には九相図といって、放置された人間の遺体が朽ちていくさまを描いた絵巻もある。ロシアの作家ガルシンは『四日間』という短編のなかで、戦死した兵隊が腐敗していくさまを克明に書いている。いずれも衝撃的な作品だが、映像という究極の写実で表現された一匹の兎の死は、あまりのリアリティーゆえにかえって絵空事を見ているような、それこそ「動く絵画」を見ているかのような、奇妙な感じをぼくに抱かせた。

 会場では30人ほどの観客が、壁に掛けられたモニターのまわりを囲み、ひたすら黙りこくって、名もない兎の死にざまを見守っていた。考えてみれば、異様な空間だった。家に帰って調べてみると、このサム・テイラー=ウッドという作者は、若くて美しい女性であることがわかった。これもひとつの衝撃だった。

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絵画が動くとき(1)

2008年07月07日 | 美術随想

「液晶絵画」ポスターより

 京都の細見美術館のサイトが最近リニューアルされたが、トップページを開くなりがっかりしてしまった。同館のコレクションを代表する酒井抱一の『桜に小禽図』が映し出されたまではいいが、あろうことか枝にとまっていた愛らしいオオルリがちょこちょこと動き出し、雀のように2、3度はねたかと思うと、ぱっと飛び立つところが動画で表現されていたからである。

 もちろん、絵画を取り込んだうえにコンピューターで処理をして、絵が動き出すように合成したものだろう。だが動いているのは鳥だけで、その重みでしなっているはずの枝はびくともせず、不自然きわまりない。

 以前から『桜に小禽図』を眺めるときには、鳥が飛び立つときの枝の動きも何となく想像できていただけに、ぼくは裏切られたような気持ちになって、がっかりしてしまったのである。まるで初期の素朴なアニメーションでも見せられているような感じだ。

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 最近は映像技術が進化したからか、テレビなどを見ていてもこんな場面によく出くわす。土曜日に放送されている「美の巨人たち」は、民放では珍しい美術系の長寿番組だが、最近はオープニングで『真珠の耳飾りの少女』を振り向かせるようになった。

 かつてフェルメールのこの絵を番組で取り上げたとき、再現ドラマの部分で撮影した映像を流用したのではないかと思うが、そのモデルの顔とフェルメールの描いた少女とは似ても似つかない、と思っている人は少なくないのではなかろうか。その点NHKの「新日曜美術館」はわきまえたもので、作品にこのような細工をほどこすことはしないようである。


参考画像:東山魁夷『緑響く』(長野県信濃美術館・東山魁夷館蔵)

 今もっとも旬な商品といえる液晶テレビのCMでは、東山魁夷の『緑響く』が使われていた(かつては上記のフェルメールの絵も使われた)。緑に囲まれた湖畔にたたずむ一頭の白馬が、おもむろに前に進みはじめる。湖面に逆さまに映った姿も、もちろん一緒に動く。それだけでなく、何と和服を着た吉永小百合までが絵に入り込んでいる。彼女のナレーションで「こころに響くリアリティー」という言葉が語られる。

 企業のホームページによると、東山魁夷が描いた現実の風景を舞台に撮影されたということだ。だが、東山はここで実際に白馬を見たわけではない。いわばこの絵はフィクションであるわけだが、緑の風景に白馬を描き加えなければならなかったというところに、画家の“絵画的真実”があったはずだ。そこにわざわざ本物の馬を持ち込んで撮影し、鮮明な液晶画面で再生すればそれが“リアリティー”の表現たり得ると考えるCMプランナーの浅はかさに、ぼくは寒気すら覚えてしまう。

 だいたい、テレビの映像を鮮やかに映し出す商品を宣伝するために、なぜ絵画を持ち出す必要があるのかわからない。絵画に手を入れ、映像化したその時点で、絵画本来の品質はもろくも崩れ去っている。絵画は、絵画として観るときのみ真実で、リアルなのである。絵画は決して動かないが、観る人の心のなかで動き出し、音が鳴り、ときには体感温度まで変えてしまうときがある。絵を味わうとは、そういうことだ。それをわざわざ実写化してみせるなど、余計なことである。

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 だが、ぼくのような考え方はもうすでに時代遅れなのかもしれない。絵画はじっとしているものである、という既成概念は、急速に破壊されつつあるようだ。

 ナム・ジュン・パイクがビデオアートなるものを創始し、美術に映像の要素を持ち込んでからでも40年以上経つ。美術館の一角で映像作品が流されているのは、すでに日常的な光景である。今ではさらに絵画と映像の境界線が曖昧になり、どちらともつかない作品が登場してきているようなのだ。

 そういった作品を集めた「液晶絵画」という摩訶不思議な展覧会が、先日まで大阪で開かれていた。「Still」と「Motion」の間で“揺れ動く”絵画の世界の一端を垣間見て、ぼくもいろいろなことを考えさせられた。少し時間が経ってしまっているが、そのときのことを少し書きとめておくのも、決して無駄ではないだろう。

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五十点美術館 No.20

2008年07月04日 | 五十点美術館
北大路魯山人『いろは金屏風』


 このところ、北大路魯山人にまつわる書物をよく読む。街の自動販売機で、松嶋菜々子と一緒に写っている写真を見たからではない。彼の作品とたびたび出くわすうちに、その豪胆とも繊細ともいえる奇妙な人間性に興味をそそられたからである。

 魯山人はこれほど有名な存在なのに、美術の専門家の間ではまともに論じられていないらしいし、その狷介孤高な性格から、気難しい頑固オヤジのような印象を広くもたれている。実際、彼の歯に衣着せぬ奔放なものいいは多くの人を激怒させたようだし、知り合いが徐々に離れていったというのも本当のようだ。しかしその一方で、魯山人と親しく接する機会のあった作家の阿井景子は、ラジオドラマを聴いて人知れず涙を流す意外な魯山人の姿を書きとめている。

 軽佻浮薄もここに極まれりといった感じの昨今、心の底から怒り、泣き、お仕着せの名誉を嫌い、自分の焼物に究極の料理を盛りつけることを生き甲斐とした魯山人の生き方は、賛否両論あるにしろ何だかなつかしい。

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 魯山人は料理や陶芸だけではなく、絵画や書道もたしなんだ。いやむしろ、そちらのほうが彼の原点だったらしい。12歳のときに京都で開かれた内国勧業博覧会で竹内栖鳳の絵に感激したのが、彼が芸術の道へと進むきっかけであったという。

 書道は誰からも習わず、まったくの独学だったそうだ。今でも「お習字」などといって、書道は代表的な習いごとのひとつになっているが、思うに習字と書道とは似ているようでいて、まったくの別ものではなかろうか。かくいうぼくも子供のころ習わされたことがあったが、これっぽっちも上達しなかった。お手本とは似ても似つかない奇妙な字を半紙の上にのたくらせているぼくを、隣の席の生徒は唖然として見ていたものだ。ぼくは思わず「自分の個性のほうが勝ってしまう」と負け惜しみをいった。相手は、皮肉か本音か「えらい」と投げ捨てるようにこたえた。

 今に至っても金釘流は直らず、人前で字を書くのに必要以上の緊張を強いられることは他の記事のなかで書いたとおりである。だが、そんなぼくを勇気づけるような一文を、あの魯山人が残していた。

 《形に引っ掛かり、こうでなければならぬということになると、その心持ちは、すでに他所(よそ)行きの作意ある心持ちとなって、人に見せるための字になっている。自分で嗜みに字を書くにあらずして人に見せるという見栄を切る不純な了簡があるために引っ掛かってくる。》

 看板書きのように注文どおりの字を書いて飯の種にするのでないかぎり、形や体裁に引っ掛かる必要はない、というのだ。ぼくのように文字の下手な人間は、この説をいいように使って自分を励ましたいところである。

 それにしてもこの文章を読むと、やっぱり魯山人は“偉大なるシロウト”だったのだな、と思う。職業として字を書く以上、他人の存在を完全に忘却し去ることは難しい。人の眼にどう映ろうが気にとめず、自分が感じたように自由に、思うがままに筆をふるうということは、書道でも絵画でもきわめて困難なことではなかろうか。他人に迎合することを、魯山人は徹底的に忌み嫌ったのであった。

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 型にはまることがイヤな魯山人は、料理や陶芸へと手を広げたが、いずれも独学であった。誰にも習わずして、これほど多くの領域に優れた仕事を残した人は、彼のほかに誰がいるであろう。

 昨年の秋、東京を旅行して赤坂のホテルに泊まったが、周辺を散歩しているとき、階段の脇にエスカレーターのついた日枝(ひえ)神社の前を通った。さすがは東京だ、神社にもエスカレーターがあるのかと感心したが、魯山人が経営していた星岡(ほしがおか)茶寮という会員制の料亭はここにあったらしい。

 星岡茶寮は大阪にもあって、現在の阪急曽根駅近くだということだが、ぼくはかつてそこから歩いて10分ぐらいのところに、何も知らずに住んでいた。どちらの料亭も戦災で焼けてしまい、魯山人の傍若無人なふるまいが従業員の反感を買ったこともあって、料理家としての野望は夢なかばで潰えたといってもいいかもしれない。しかし今でもお茶の宣伝に借り出されるぐらいだから、彼の味覚はやはり一目おかれているのだろう。本人はおそらく、現代のグルメ志向を苦々しく思っているにちがいないが・・・。

 晩年、体力の衰えた魯山人は、ふたたび書に戻った。京都で開かれた書道展が、彼の最後の個展になった。不調を押して会場に姿をみせた魯山人は、今度は必ず焼物を持ってくるからと約束したが、それから2か月後に帰らぬ人となった。来年が没後50年にあたる。

(後楽園蔵)


参考図書:
 長浜功『北大路魯山人という生き方』(洋泉社)

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