てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

絵画が動くとき(3)

2008年07月12日 | 美術随想

ジュリアン・オピー『イヴニング・ドレスの女』(国立国際美術館蔵)

 ジュリアン・オピーの『イヴニング・ドレスの女』は、一見するとポップな絵画に見える。ほとんどイラストレーションといってもいいような、簡潔な線と平坦な色面で構成された女性像である。都会的な、スタイリッシュなかっこうをしていて、このような人物が正面きって描かれること自体が美術の世界では珍しいことかもしれないが、規格化された現代のマンションのリビングなんかに貼っておくには、ルノワールの油絵よりもこのようなポスターがよく似合う。

 だがよくよく観ると彼女、ほんのちょっと動いている。そのつぶらな瞳でまばたきしたり、眉毛をうごめかしたり・・・。実はこの作品も絵画ではなく、壁に掛けられた液晶モニターに映し出されていたのである。サム・テイラー=ウッドの作品でもそうだが、テレビが年々薄くなり、床置き式から壁掛け式になるにしたがって、「液晶絵画」はタブローへと容易に姿を変える擬態能力を手に入れたといっていい。

 実はこの作品は、ジュリアン・オピーの公式サイトからダウンロードできる(タイトルは『monique smiling』)。画像ではなく、動きを含んだものが入手できるのだが、これも絵画ではちょっと考えられないことだ。ぼくはこの女をパソコンの壁紙に貼りつけて、しばらくそのままにしておいた。何か用事をしていて、ふと思いついてパソコンを見ると、彼女は誰に対してか、このぼくに向かってか、相も変わらず表情を動かしつづけている。

 家でペットを飼っている人なら、自分を見つめる愛くるしい瞳に気がついたとき、思わず心うたれるにちがいない。だが彼女は、プログラムどおりに稼働しているだけである。そこには何の感情も生まれようがない。モニターのうえに貼りついて顔の一部分を動かしている彼女よりも、シャツに貼りついた何とかいう名前のカエルのほうが表情豊かだといったら、オピーは怒るだろうか。

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やなぎみわ『Fortunetelling』(作家蔵)

 このたびの展覧会には、なかなかクセのあるアーティストが顔をそろえていた。ただ、彼らが普段から「液晶絵画」というジャンルを自作の一環に加えているのか、それはわからないことだ。

 現代日本の美術界でもっとも有名なひとりである森村泰昌は(彼は今でもJR鶴橋駅近くの高架下にアトリエを構えているのだろうか)、さまざまなところで作品を眼にする機会があるが、たいていは名画のなかの人物に扮した大判の写真である。今回もフェルメールの『真珠の耳飾の少女』や『画家のアトリエ』のなかの人物になり切っていたが、映像作品として観たのははじめてであった。

 だが実をいうと、ぼくは彼の作品をあまり理解できているとはいえない。以前、京都市美術館の玄関で素顔の森村氏とすれちがったことがあったのだが、そのときも声をかけずにしまった。

 ほかにもやなぎみわの作品があったが、彼女はむしろ写真家として(しかも制作にコンピューターを駆使する作家として)有名なはずだ。環境音楽で知られるブライアン・イーノの作品もあった。ぼくが「液晶絵画」と聞いて真っ先に連想した束芋(たばいも、田端家の妹の意)や、デジタル数字の光をさまざまに明滅させる宮島達男は、そこにはなかった。考えてみれば宮島の作品は液晶でもなければ絵画でもないかもしれないが、動く美術作品としてかなり重要なものだとぼくは考えている。

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千住博『水の森』(作家蔵)

 なかでも意外だったのが、日本画家の千住博が出品していることだった。『水の森』というその作品は、一見すると精密に描かれた屏風のようである。しかししばらく観ていると、不意に鳥が画面を横切ったり、水面がさざ波立ったりしているのに気がつく。非常に高画質の映像なのである。

 もちろん、もともとは千住の描いた絵があって、それを画面に取り込んでいるのにちがいない。だったら、別に動いていなくてもいいからオリジナルの絵こそが観たい、とぼくは思ってしまう。暇さえあればテレビを見るよりも画集を眺めたり、展覧会に出かけたりすることを生き甲斐としている人間には当然の感想だろう。

 絵画のなかに無限の時間を封印できるのは、優れた画家の特権である。かつての画家たちは、二次元の平面にいかにして時間の存在をすべり込ませるか、大いに苦心したはずだ。昔の絵師はひとつの場面のなかに同じ人物を何度も描いて、時間の経過を示そうとした。モネは、時間帯によって刻々と姿を変える対象を何枚もの絵に描きわけた。デュシャンの『階段を降りる裸体』では、動きの残像が絵の構成要素のすべてだった。皆それぞれのやり方で、彼らなりの解決方法を見出してきたのである。

 千住博も、例の滝の絵のなかで、ひとつの答えに逢着していたのだ。「千住博の夜の滝」という記事にも書いたが、彼は絵の具を上から垂らすという技法と出会うことで、絵画に時間の流れを内包させることに成功していた(少なくとも本人はそう確信していた)はずである。なぜ今さら「液晶絵画」のなかで、実際に絵を動かしてみる気になったのか、ぼくにはどう考えてもわからなかった。

(了)


DATA:
 「液晶絵画 Still/Motion」
 2008年4月29日~6月15日
 国立国際美術館

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