てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

絵画が動くとき(1)

2008年07月07日 | 美術随想

「液晶絵画」ポスターより

 京都の細見美術館のサイトが最近リニューアルされたが、トップページを開くなりがっかりしてしまった。同館のコレクションを代表する酒井抱一の『桜に小禽図』が映し出されたまではいいが、あろうことか枝にとまっていた愛らしいオオルリがちょこちょこと動き出し、雀のように2、3度はねたかと思うと、ぱっと飛び立つところが動画で表現されていたからである。

 もちろん、絵画を取り込んだうえにコンピューターで処理をして、絵が動き出すように合成したものだろう。だが動いているのは鳥だけで、その重みでしなっているはずの枝はびくともせず、不自然きわまりない。

 以前から『桜に小禽図』を眺めるときには、鳥が飛び立つときの枝の動きも何となく想像できていただけに、ぼくは裏切られたような気持ちになって、がっかりしてしまったのである。まるで初期の素朴なアニメーションでも見せられているような感じだ。

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 最近は映像技術が進化したからか、テレビなどを見ていてもこんな場面によく出くわす。土曜日に放送されている「美の巨人たち」は、民放では珍しい美術系の長寿番組だが、最近はオープニングで『真珠の耳飾りの少女』を振り向かせるようになった。

 かつてフェルメールのこの絵を番組で取り上げたとき、再現ドラマの部分で撮影した映像を流用したのではないかと思うが、そのモデルの顔とフェルメールの描いた少女とは似ても似つかない、と思っている人は少なくないのではなかろうか。その点NHKの「新日曜美術館」はわきまえたもので、作品にこのような細工をほどこすことはしないようである。


参考画像:東山魁夷『緑響く』(長野県信濃美術館・東山魁夷館蔵)

 今もっとも旬な商品といえる液晶テレビのCMでは、東山魁夷の『緑響く』が使われていた(かつては上記のフェルメールの絵も使われた)。緑に囲まれた湖畔にたたずむ一頭の白馬が、おもむろに前に進みはじめる。湖面に逆さまに映った姿も、もちろん一緒に動く。それだけでなく、何と和服を着た吉永小百合までが絵に入り込んでいる。彼女のナレーションで「こころに響くリアリティー」という言葉が語られる。

 企業のホームページによると、東山魁夷が描いた現実の風景を舞台に撮影されたということだ。だが、東山はここで実際に白馬を見たわけではない。いわばこの絵はフィクションであるわけだが、緑の風景に白馬を描き加えなければならなかったというところに、画家の“絵画的真実”があったはずだ。そこにわざわざ本物の馬を持ち込んで撮影し、鮮明な液晶画面で再生すればそれが“リアリティー”の表現たり得ると考えるCMプランナーの浅はかさに、ぼくは寒気すら覚えてしまう。

 だいたい、テレビの映像を鮮やかに映し出す商品を宣伝するために、なぜ絵画を持ち出す必要があるのかわからない。絵画に手を入れ、映像化したその時点で、絵画本来の品質はもろくも崩れ去っている。絵画は、絵画として観るときのみ真実で、リアルなのである。絵画は決して動かないが、観る人の心のなかで動き出し、音が鳴り、ときには体感温度まで変えてしまうときがある。絵を味わうとは、そういうことだ。それをわざわざ実写化してみせるなど、余計なことである。

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 だが、ぼくのような考え方はもうすでに時代遅れなのかもしれない。絵画はじっとしているものである、という既成概念は、急速に破壊されつつあるようだ。

 ナム・ジュン・パイクがビデオアートなるものを創始し、美術に映像の要素を持ち込んでからでも40年以上経つ。美術館の一角で映像作品が流されているのは、すでに日常的な光景である。今ではさらに絵画と映像の境界線が曖昧になり、どちらともつかない作品が登場してきているようなのだ。

 そういった作品を集めた「液晶絵画」という摩訶不思議な展覧会が、先日まで大阪で開かれていた。「Still」と「Motion」の間で“揺れ動く”絵画の世界の一端を垣間見て、ぼくもいろいろなことを考えさせられた。少し時間が経ってしまっているが、そのときのことを少し書きとめておくのも、決して無駄ではないだろう。

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