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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (34)

2014年10月18日 | 美術随想

ポール・デルヴォー『水のニンフ(セイレン)』(1937年、姫路市立美術館蔵)

 その昔、文学を学ぶ学校に行っていたとき、頭にいつも派手なバンダナを巻いている妙な若者がいた。彼とはさほど親しく付き合ったわけではないが、ある日、予想もしない言葉が彼の口から飛び出したのだった。
 
 「ぼく、デルヴォーの絵が好きなんですよ」

 このフォークシンガー上がりのような男が、裏ではこっそりデルヴォーの裸婦などを眺めてほくそ笑んでいるのかと思うと、人の好みはわからないものだ、と痛感したが、別に彼がデルヴォーのファンだからといって、責めるべきことは何もない。ただ、露骨に扇情的な一面のあるデルヴォーの絵が好きだとは、ぼくだったら口が裂けてもいえないような気がするのだ。

 もちろんこれは、大いなる誤解というべきだろう。日本画のところでも少し触れたが、展覧会で陳列される作品とポルノとは根本的に別物である(はずである)。しかしルネサンス以前の時代から、絵画でも彫刻でも股間に毛のない裸婦像に親しんできた人々にとって、デルヴォーが好んで描いた陰毛を隠そうともしない女たちの群像は、それだけでショッキングなものだったのではあるまいか。

 不思議なのは、たとえば隠すべきところはちゃんと隠しているマネの『オランピア』が大スキャンダルを巻き起こしたという逸話は繰り返し語られているのに、デルヴォーの絵がごうごうたる非難に晒されたという話は、これまで聞いたことがないのである。

 『水のニンフ(セイレン)』は画家が40歳の年の作品だから、長命だったデルヴォーにしてみれば若描きの部類かもしれない。ここでは、いわば裸婦を描く際の“不文律”が厳守されているとみることもできる。つまり、女がその肉体を晒している口実として、これが神話の世界だ、という前提で描くということである。

 セイレンとは、美しい歌声で船乗りを混乱させ、その船を沈没に追い込んでしまうといったたぐいの、一種の妖精であろう。その名前がサイレンの語源となったことは広く知られているが、デルヴォーの絵からはそんな騒々しさは伝わってこない。いや、デルヴォーの多くの作品についていえることだが、彼の絵には音がない。それどころか、時間が静止してしまったような印象さえも受ける。

 『水のニンフ(セイレン)』は、うねる波が描かれていることから、さほど静謐な情景とはいえないかもしれないが、海のなかで戯れる裸の女たちは、まるで魂が抜かれてしまったような、空虚な存在のように思える。それにしてもボリュームの豊かな裸婦の上半身は、古典的な美の規範から逸脱していないことをよく示しているようだ。デルヴォーは、20世紀の画壇においてはきわめて保守的な、むしろ古めかしいタイプの画家だったのであろうか。

                    ***


ポール・デルヴォー『海は近い』(1965年、姫路市立美術館蔵)

 60代後半になってから描かれた『海は近い』では、すでに他の誰でもないデルヴォー・ワールドが繰り広げられている。ここまで来ると、彼の絵のエロティシズムにいちいち文句をいう人などいない。

 例によって、意味のある解釈はなりたたない画面構成である。ただ、若いころには自然が大きなウエイトを占めていた背景が、人工物に占領されてきたような感じはある。しかしデルヴォーは、現代の機械文明に賛同していたわけではあるまい。彼の絵には汽車がよく出てくるが、せいぜいそこまでが限度で、絵のなかの人物たちは古いランプの灯りに照らされ、古代の神殿にも似た建物のなかで暮らしている。

 その非現実的な情景が、遠近法を踏まえた現実的な構図のうえに展開されるちぐはぐさが、奇妙なリアリティーを醸し出しているのも事実だ。思うに、絵の舞台が地上に移り変わっただけで、そこにいるのはセイレンと同じ、この世ならぬ生き物たちではあるまいか。

 もはやモデルが胸を露出しているとか、陰部がむき出しであるとかいうのは些細なことであって、都会の人いきれに揉まれる現代人を惹きつけてやまない異次元の静けさ、懐かしさが、ここにはたしかにある。かのバンダナ青年も、そういったものに人知れず憧れを抱いていたのだろう。

 96歳という長生きだったデルヴォーは、世を去ってからまだ20年しか経っていない。それなのに、作品にただよう揺るぎない形式美はいったい何なのか。彼の絵の前に立ち止まるたびに、ぼくはいまだに騙されているような心地がする。

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