てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ワシントンから来た絵画たち(13)

2011年12月15日 | 美術随想
第二章 印象派 その5


ピエール=オーギュスト・ルノワール『踊り子』(1874年)

 ルノワールといえば、やはり美しい女性像がないことにはおもしろくない。これは男としての意見というよりも、純粋な美術ファンとしての本音である。

 同時代のマネやドガといった画家が、女性を美しく描くことを絵画の最終目的としていないことは明らかだ。それをさらに押し進めたのが、ロートレックだろう。彼は屈指の“女好き”であったのではないかと思うが、好きで好きでたまらない女を、あえて万人からは好かれないような風貌で描いた。マネにもドガにも、おそらくそういう屈折した心理が働いていたのだ(もちろん多少の例外はある。それについては、別の機会に触れよう)。

 だが、ルノワールの描く女性には、そんな回りくどい理屈は似合わない。美しいものは美しく、可愛らしいものは可愛らしく。それがルノワールのやり方であった。すなわち“美”を表現するとはそういうことではないかと、難解な現代美術を観たあとなどには特に、つくづく思わされることがぼくにもある。

 ルノワールの『踊り子』は、ドガの得意としたモチーフを換骨奪胎したかのようだが、その印象はまったく異なったものになっている。ドガはオペラ座の定期会員となって舞台裏への出入りを許され、実際にバレリーナたちの素顔や、彼女たちが置かれている特殊な環境 ― 下の図のように男がいい寄ってくることもあった ― を見聞きしていたのに対し、ルノワールはいわば舞台上の、美の表現者としての踊り子しか知らなかったはずだ。

 だからこそ、この絵のように素直な、純粋に「なんてきれいだろう」と嘆息できるような女性像を描くことができたのである。ドガは内心、「そんなきれいごとじゃないよ」とつぶやいていたかもしれないが・・・。


エドガー・ドガ『舞台裏の踊り子』(1876/1883年)

                    ***


ピエール=オーギュスト・ルノワール『アンリオ夫人』(1876年頃)

 『アンリオ夫人』は『踊り子』から2年ほどのちの作品だが、描かれているのは同じモデルだといわれているらしい。この説を聞いて、ぼくはびっくりした。

 晩年のルノワールが描いた豊満な裸婦の多くはどれも似たような容貌に見え、写実性うんぬんよりもルノワールの好みというか、わるくいえば妄想性が前面に出ているといえなくもない。けれども、肖像画家として腕を磨いていた当時のルノワールは、もっとモデルの外見を客観的にとらえるすべを会得していたのではないかと思うからだ。

 『踊り子』と『アンリオ夫人』とは、たしかに全体的な色調や、髪の色は似ているかもしれない。だが、顔つきや体つきは、ぼくの眼にはほとんど共通点がないように思われる。いってみれば、少女と大人の女性ほどちがう。とりわけ『アンリオ夫人』で大胆に開かれた胸もとの豊かさは、『踊り子』ではまったく確認することができないのである。

 この女性はアンリエット・アンリオといい、若き舞台女優であったという。いわばアルバイトとして、ルノワールのモデルを務めていた。ルノワールはひとりの生活者としての彼女を描いたというよりは、絵のなかでいろいろな扮装をさせて、肖像画家としての実践的な技術を学ぼうとしたのかもしれない。

 というのも、『アンリオ夫人』が描かれたとき、アンリオはまだ結婚していなかったというのである。いや、正確にいうと彼女は一生独身のままだったのだ。「看板に偽りあり」だが、この当時まだ19歳の若さだったといわれると、いくらなんでも虚飾がすぎると思わざるを得ない。こちらを見つめる女性の表情には凛とした高貴さがただよい、同時に夫の愛情を一身に受けているような落ち着きすら感じられるではないか。

 アンリオはこの絵を最後に、ルノワールのモデルになることはなかった。のちに父のない娘を産み、その子も役者へと育ったが、劇場の火事で若い命を落とす。失意のアンリオは舞台を下り、世間から隠れるように暮らしたといわれる。

 そんなアンリオの手もとには、ルノワールのこの絵がずっと飾られていたそうだ。実現することのなかった“夫人像”としてのおのれの姿を、フィクションを加えてであれ美しく描き残してくれた画家に感謝しながら、彼女は余生を送ったのであったろう。

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