てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

若冲に囲まれて(3)

2013年10月12日 | 美術随想

伊藤若冲『菊鶏図襖絵』(重要文化財)

 若冲といえば、やはり鶏である。だが、静かな寺院の襖絵に、騒々しい鶏の絵はどうしたものか、という心配がないでもない。しかし、大阪の西福寺に金地の鶏図が描かれていることを、すでにここでご紹介した(「若冲さんの墓参り(7)」)。

 私見であるが、若冲は鶏を、単なる身近な鳥の一種だと思っていたのではないような気がする。彼のなかでは、人知を超えた不可思議な存在理由を与えられていた、特別な鳥なのではないか。仏教への信仰心の厚さと、生物学的な冷静な観察眼とは、必ずしも一致しないはずだ。

 動きは忙しなくて、決して品があるとはいえないけれども、時をつくって夜明けを知らせてくれる鶏は、いわば一日の到来を告げる大切な役目を果たしている。錦市場に生まれた若冲は、鶏卵や鶏肉が他の食材と合わせて調理されたときに豊かな滋味を発揮してくれることをよく知っていただろうし(そういえばあそこには今でもおいしい親子丼を食べさせる店があるのだ)、鶴や鳳凰と並ぶほどの優れた鳥だと思っていたかもしれない。いや、庶民への親しみの深さでは、いちばんですらある。

 そのせいかどうか、若冲の彩色画には、まるでこの世の帝王のように君臨する鶏を描いたものがある。いずれにせよ、彼の眼には単なる家畜として映っていなかったことはたしかなことだろう。

                    ***

 ただ、若冲が水墨で鶏を描くとき、ヒロイズムとは別の一面が醸し出されるような気がする。

 何といっても、鶏の描写がデフォルメされていて、滑稽なのである。雄鶏はできるかぎり毛をふくらませて、一家のあるじらしく威厳を見せつけようとしているが、その姿はどことなく間が抜けているといってもいい。むしろ、地べたに座ってそれを見上げる雌鳥のほうが、素直で美しく感じられる。

 そして、ときには愛らしい鞠の球のようなひよことともに戯れる図もある。あの精緻を極めた若冲の筆にしては、かなり即興的で、簡略化されているといえるだろう。だからこそ、そこには表面的な描写を超えた命の通じ合いといったものがにじみ出ている。生涯独身だった若冲は、鶏の家族を見て心を慰めていたのかもしれない。

 大書院の襖に描かれた鶏の図は、いささか控えめである。頭を下げて、濃墨の尾を宙にくねらせるさまは若冲が得意とした図柄だが、引き手を挟んで反対側に描かれた菊のほうがより大きく、堂々と描かれている。

 遠近法の加減か、雄鶏は小さくかしこまっているようにも見えるし、菊の美しさに感じ入るあまり、すごすごと頭を(こうべ)を垂れる謙虚な姿のようでもある。

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