〔相国寺の中心に位置する法堂(はっとう)〕
久しぶりに、京都の相国寺を訪れた。御所のむせるような緑のなかを北上すると、モダンなレンガ作りの同志社大学に隣接した地帯に、その寺はある。
ここに伊藤若冲の墓があることは、以前触れた(「若冲さんの墓参り(5)」)。それだけでなく、この寺の住持は若冲といういっぷう変わった号の名付け親だったともいわれていて、生前から親交が深かったようだ。
彼が驚くべき細密描写で描いた鶏や、デジタル時代を先取りしたようなモザイク状の屏風を前にすると、この異端の絵師は絵画の世界にばかり閉じこもっていたマニアックな人物だったような気もしてくる。ところが実際には熱心な信徒でもあって、交遊も広く、ゆかりの寺が京都や大阪にいくつかある。
なかでも観光名所として名高い鹿苑寺(金閣寺)の大書院には、50面からなる障壁画を残している。金閣といえば例の放火事件がよく知られているが、大書院は焼けなかったので、無事だった。ただ、傷みから保護するため、すべての作品は今から30年ほど前に、相国寺境内にできた美術館の管理下に移された。それが承天閣(じょうてんかく)美術館という、こぢんまりとした建物だ。
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〔承天閣美術館のチケット〕
金閣や銀閣はこの寺の塔頭にあたるわけだが、団体客などは皆そちらに行ってしまい、肝心の相国寺のほうはがらんとしている。おまけにかなり敷地が広いので、その気になれば悠々と散策することができる。境内はほとんど平らで、よく整備されている。金閣や銀閣の周囲は高低差が激しく、歩くだけでもかなり難儀することに比べれば、かなり平穏だといってもいい。
ただ、その相国寺が、まるで一触即発とでもいった緊迫した空気に包まれたことがある。2007年のこと、若冲の代表作として知られる『動植綵絵』全30幅が、承天閣美術館を使って一堂に展示されたのだ。これらの絵はもともと相国寺に寄進されたものだったが、明治の廃仏毀釈を受けて寺が荒廃するのを助けるために、皇室に献上されていた。それがまとまったかたちで“里帰り”するということで、話題となった。
おりしも、伊藤若冲ブームはまさに、たけなわだった(現在でも人気が衰えているわけではない)。おそらく前代未聞と思われる長蛇の列が、相国寺の境内にできた。いつもは閑散としているはずの展示室は、ラッシュアワー並みの人で埋め尽くされた。
ぼくもそのなかにいたのだが、これではとても美術を鑑賞するどころの騒ぎではない、と思わざるを得なかった。なかでも、牛歩戦術のごときのろのろ歩きに閉口したオバチャンが、誘導員のアルバイト青年をつかまえて「そんないいかただから前に進まないのよ、もっとかくかくしかじか、こんなふうにいいなさいよ」と食ってかかり、青年が気圧された様子で「は、はい」と応じているところは、一種の修羅場だといってよかった。
その特別展は、ごく短い期間で終了したが、他のフロアに若冲の水墨画が常設されていることは、どの程度知られているのだろう。それこそが、鹿苑寺の大書院に若冲が描いた障壁画の一部なのだった。今回はそれを含めて、全50面が展覧される特別な機会だということでおそるおそる出かけたのだが、前回のような恐慌状態とは程遠く、拍子抜けするほど人影はまばらだった。
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