てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

あたたかな静寂 ― ル・シダネルを回顧する ― (2)

2012年04月26日 | 美術随想

参考画像:『夕暮の小卓』(1921年、大原美術館蔵)
京都会場は不出品


 アンリ・ル・シダネルは1862年に生まれているから、あのグスタフ・クリムトと同い年である。ただ、クリムトが世紀末という時代の病理を一身に背負ったような刺激的な作品を次々と発表したのに比べ、ル・シダネルの絵画世界は時代の動きとほとんど結びついていない。

 美術史というのは、美術運動がいかに変遷したかをたどるものである。マネ、クリムト、マティス、ピカソといった次なる新しい絵画を切り拓いていった人物に関しては、多くのページが割かれるだろう。

 けれどもル・シダネルのように、美術の潮流から一歩引き下がったところで独自の創作活動をつづけた画家は、美術史の網からこぼれ落ちてしまう。彼が現在まで広く知られることがなかったのは、日本人が西洋美術に詳しくなったことの弊害だといってもいい。

 ただ、本人は決して世捨て人のような生き方をしたわけではなかった。誰からも認められないという不遇の画家でもなかった。洲之内徹の証言によれば、『夕暮の小卓』(今回は観ることが叶わなかった)は大原美術館の開館当初からコレクションに加わっていたそうだから、遠く離れた東洋の島国でも人眼に触れる場所に置かれていたのだ。

 ただ、“点”よりも“線”を追いかけることに熱心な日本の美術ファンのあいだでは、ル・シダネルにたどり着くきっかけがそもそもつかめなかったのだろうと思う。彼は絶海の孤島に浮かぶ、一輪の花のようなものなのだから。

                    ***


『帰りくる羊の群れ』(1889年、ひろしま美術館蔵)

 会場の入口をくぐると、予想に反して、とりあえずは人物を描いた絵が何枚も眼に飛び込んできたので安心した。いきなり「孤独のぬくもり」のなかに投げ込まれることはなさそうだ。

 彼の年譜を見ると、生まれたのは南洋のモーリシャスである(驚いたことに、彼自身が絶海の孤島の出身なのであった)。ぼくにはほとんど馴染みがない国だが、「インド洋の貴婦人」と称されるほどの澄んだ青い海と白い砂に恵まれた島国だそうだ。父親は船乗りだったというから、仕事の関係でフランス本土を離れていたらしい。

 けれども、こういった生い立ちがル・シダネルの作風と関係があるとは思えない。ただ、のちに理想の住みかを求めて各地を転々とした彼の生き方は、父のDNAを受け継いでいたのではないかという気もする。その父親も、アンリが18歳のときに海の藻屑となってしまった。彼に孤独の影が差すのは、このときからではなかろうか。

 父が死んだ同じ年、ル・シダネルはアレクサンドル・カバネルの塾に入っている。カバネルといえば、今では印象派の眼のかたきのようにいわれている官展の大御所だ(「五十点美術館 No.19」参照)。だが、後年の作風をたどっていくと、カバネルよりは印象派に多くを学んでいるように思われる。少なくとも、人物を理想化して描くようなことは、ル・シダネルにはおよそありそうもない話であろう。

 ただ、初期の『帰りくる羊の群れ』を観ると、人物の明確な造形力や、極端な奥行きが眼につく。これは、のちのル・シダネルがことごとく手放してしまう手法だが、それ以上に、ミレーの『羊飼いの少女』との類似点に気づかないわけにはいかない。杖を手にした少女のポーズなども、そっくりだ。


参考画像:ジャン=フランソワ・ミレー『羊飼いの少女』(1864年、オルセー美術館蔵)

 芸術の中心地としての都会パリの喧噪が、ル・シダネルは好きになれなかったのだろう。アカデミックな神々や高貴な人物の像などではなく、描くべきモチーフを“周縁”に求めようとした時点で、彼はみずから旅人となるべき人生に足を踏み入れたのである。

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