てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

難しいシャガール(3)

2012年11月12日 | 美術随想

マルク・シャガール『音楽』(1920年、トレチャコフ美術館蔵)

 『音楽』は、『ユダヤ劇場への誘い』と向き合うように掛けられていた複数の壁画のなかの一枚だ。緑色の顔の男が、やや憂いがちにヴァイオリンを弾いている。彼は家の屋根に足をのせて、危ういバランスをとっている。まさしく、「屋根の上のヴァイオリン弾き」である。

 このモチーフはシャガールの絵のなかでもとりわけ多く繰り返され、彼の名刺代わりのようにもなった。けれども実は、ここで演奏されている楽器はヴァイオリンとは少しちがう「フィドル」という楽器だという(ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」も原題では“Fiddler on the Roof”となっている)。もちろん音を出す構造は同じなので、ヴァイオリンと思って差し支えないし、一般的にヴァイオリンの別称として「フィドル」が使われることもなくはない。

 たとえばアメリカの軽音楽の作曲家ルロイ・アンダーソンは、オーケストラのヴァイオリンのパートがめちゃくちゃに駆け巡るような曲を書いて「フィドル・ファドル」と名付けた。これはそもそも「ばか騒ぎ」といった意味の俗語らしいが、ヴァイオリンを意味する「フィドル」と引っかけてあるのは明らかだろう。

 だが、シャガールの絵のなかで「フィドル」を弾いているこの男は、浮かれ騒ぐどころか、深刻な哲学者のような表情で弓を動かしている。あるいは、世を去ってしまった誰かのことを悼んでいるようでもある。その楽器からは、明るく心楽しくなるような楽曲ではなく、聴く者に思わず涙を流させるような哀愁にみちたメロディーが流れてくるように感じられるのである。

                    ***

 シャガールを「愛の画家」と呼ぶことは、決して間違いではないと思う。ただ、それだけではじゅうぶんでない。彼は人間のむき出しの感情を豊かに描くことができる、20世紀では稀有な芸術家だった。ということは、空を飛びたくなるほどの喜びとは裏腹の、胸をかきむしりたくなるような悲しみも、彼はないがしろにしなかったはずだ。

 ユダヤ民族は、悲しみに彩られた人たちである。そんな暮らしにそっと寄り添うようにして、彼らの音楽はずっと奏でられてきたにちがいない。20世紀という激動の時代を生き、根なし草のように世界を転々とせざるを得なかったシャガールのそばには常に愛する人がいたかもしれないが、その一方で「フィドル」の物悲しい音色が、絶えず彼の耳に聞こえていなかったとは誰がいえよう?

 後年になると、空飛ぶ恋人たちの伴奏者としてヴァイオリン弾きが頻繁に登場するようになる。人間ではなく、動物が楽器を弾いていることもある。彼らは自分の音色にうっとりと酔っているようにも見える。もはや、悲痛な調べを奏でる存在ではないだろう。何しろ、それは至福の場面を描いた、喜びの絵画なのだから。

 けれどもシャガールは、自分の耳の底に息づいている「フィドル」の音色を、一生忘れることはなかったにちがいない。

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