てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「日展」ところどころ(5)

2010年01月22日 | 美術随想

長谷川喜久『韻』

 今度は、生き物が主役の日本画を見てみよう。といっても、かつて上村松園や鏑木清方が描いたような流麗で凛とした女性像や、菊池契月が得意としたシャープな線描の人物像などはすでに過去の遺物であって、現在の公募展にはそのような作品はまずない。むしろ、「日展」の日本画には他展に比べて人物画が少ないような気さえする。特に彫刻を堪能したあとで日本画を観ると、21世紀に人間を描くことはこれほど困難なことなのか、といった感じにうたれることがある。

 思うに、この100年間ほどを通じてホモ・サピエンスの秘めたる謎が次々と解明され、人間という生物が思ったほど単純ではない奇々怪々なるものだということが明らかになるにつれ、芸術家の間に素朴な人間像を世に問うことの不毛感が蔓延したのではなかろうか。原始的な“人間讃歌”を謳い上げる絵画はおそらくピカソまでで終わり、現代の画家は人間を人間として率直に描くことが難しくなった。いわば、絵画の登場人物は何か深遠なる意味を背負った象徴的な図像と化したのである。いや、「日展」のなかでも洋画部門とか、先にみた彫刻部門には以前の平明な人物表現が生きているように思うが、日本画部門における人物画はかつてない大きな曲がり角にさしかかっているといえそうだ。

 そんななかでぼくが注目したのは、長谷川喜久の『韻』という作品である。正直に打ち明けると、昨年までぼくはこの画家が好きではなかった。主に、描かれているのが今どきの男性であるという理由からだ。日本画という素材を用いて、あえて現代風俗に取り組む意味をぼくは長いこと計りかねていた。もちろんそれが古くさい考え方であることはわかっているけれど、これまで花鳥風月を巧みにとらえた伝統的な美の世界観に親しんできたし、それがぼくを日本画に惹きつけるもっとも肝心な要素でもあった。

 だが、花鳥風月のなかに“人”は含まれていない。考えてみれば、花や鳥は歳月を経たところで変わるものではないが、人間はたった数年のときを隔ててさえ容易に変貌する。それをイメージとして定着させようとするのが、人物像を主題に据えた画家たちに課せられた使命でもあるのではないか。そんなふうに思い直すことにした。

 『韻』に描かれているのは、植物を背景に女性が座っている姿である。このシチュエーションには、何ら新しいものはない。似たような例は、過去にいくらでも探し出すことができるはずだ。しかしこの絵は、新しい。輪郭が不思議に見え隠れする植物は、はっきり描かれていなくても気配が堆積しているのがわかる。“余白の美”ではなく、ほんのかすかに描かれた痕跡が、モデルの女性をびっしりと取り囲んでいる。

 この画家は、40代なかばだ。驚くことに、以前はロック少年であったという。今でも創作の合間にはエレキギターを爪弾き、ヴィンテージジーンズを愛用しているそうだ。世間に流通した日本画家のイメージからは、大きくかけ離れている。そんな新世代の画家が手探りしながらとらえた新しい人物像が、この絵のなかにはあると思う。

                    ***


諸星美喜『ゆらり』

 もうひとり、個人的にぜひ紹介しておきたい日本画家がいる。といっても面識があるわけではないが、だいたいぼくと同世代の作家だ。

 諸星美喜の絵をはじめて観たのは、もうずいぶん前の「松伯美術館花鳥画展」の入選作としてだと思う。具体的にどんな絵だったかは覚えていないが、今回の『ゆらり』と大きく変わらなかったはずである。つまり水中の生物が優雅に泳いでいるような絵だ。

 日本画で魚の絵というと、亡くなった大山忠作が描いていた鯉をすぐ思い出すのだが、諸星が描くものはかなり変わっている。エイだったり、イカだったり、アンコウだったり、ほとんど画題に取り上げられることのないものがほとんどなのだ。それに、もう長いこと彼女の絵に注目しつづけているのだが、一度描いた魚は二度と描いていないように思える。「日展」に出かけるたび、今年は何を描いているかな、と想像するのが楽しみのひとつである。

 今回はついに、ナポレオンフィッシュをテーマにした。それだけではなく、頭を下にして泳ぐヘコアユという魚も興を添えている。これまでこの魚を描いた絵があっただろうかと記憶をまさぐってみるが、まず思い当たらない。諸星の絵に出会うたび、水族館の水槽をひとつひとつ見てまわるときの喜びが思い出されてくるようだ。

 日本画には、どうしてもひとつのパターンというか、決まった“型”がある。その最たるものが、花鳥風月であろう。厳密な師弟関係が、絵画の技術と同時にそういった伝統を継承してきたし、もともと日本人のDNAに組み込まれたモチーフを描くことは、観る側への迎合という意味もたしかにある。しかし、今はもうそんな時代ではないのかもしれない。あえて未知なるモチーフに挑みつづけるこの若い画家に、ぼくは大いにエールを送るものである。

つづく
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