やや具体的にみていくと、例えばこういうことになる。激情をそのままぶつけたような野性味あふれるアンフォルメルの時代を経て、彼は『二元的なアンサンブル』という連作へと移っていく。この一風変わった表題は、絵画のタイトルとしてはまことに異色なものだといっていいだろうが、ここでようやく堂本尚郎は、新しい“秩序”の手がかりを探り当てたように思われる。キャンバスがふたつの面に分割され、それらは対照的に描き分けられたり、ずれたリズムを刻んだりする。
あたかも、誕生したばかりのどろどろの地球が徐々に冷やされ、雨が降って水が溜まり、陸地と海との画然たる区別があらわれてくるのを見るように、混沌の中から“秩序”が生まれ、それらが対比されて“アンサンブル(調和)”を奏ではじめるのである。そこは、日本画を捨てて「不定形」のカオスの中でもがいていた堂本尚郎が、ようやくたどり着いた陸地であったかもしれない。
未開の地に上陸した人間がまず始めることは、そこに家を建て、街を作ることであろう。それはすなわち、“秩序”で世界をおおいつくすことにほかならない。『連続の溶解』という連作になると、堂本は画布の上に絵の具を盛り上げ、立体的なグリッドを築き上げる。それは彼の独自の“秩序”で構成された、人工的な世界なのである(表題にあるように、それが一部分で“溶解”しているのだが)。
堂本はこのテーマでおびただしい点数の作品を描いている。そのうちの何点かはヴェネツィア・ビエンナーレに出品され、入賞を果たしているという。しかし煉瓦を積み上げるように整然と構築されたその絵画は、無機的で、冷たい。人間の情感にうったえる要素が、ここからは厳しく排除されているのだ。たとえ、京都生まれの堂本があちこちで目にしたにちがいない格子模様のイメージがそこに影を落としているにしても、である。
一定の評価を受けたからといって、彼はそこにとどまろうとはしなかった。人間は考えごとをしながら散歩しているときにでも、ふと目についたものがきっかけで考えが変わったり、それまで気がつかなかったことに気づいたりする。堂本も、この連作を描き継いでいく過程で、内なる変化に気づかないわけにはいかなかったはずだ(そのきっかけが何だったかは、知るすべがないけれども)。
いつしか彼の絵画の中には、コンパスでひいたような完全な円形があらわれるようになる。そしてそれこそが、通奏低音のように、後期の彼の創作活動のベースになっていくのである。
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あたかも、誕生したばかりのどろどろの地球が徐々に冷やされ、雨が降って水が溜まり、陸地と海との画然たる区別があらわれてくるのを見るように、混沌の中から“秩序”が生まれ、それらが対比されて“アンサンブル(調和)”を奏ではじめるのである。そこは、日本画を捨てて「不定形」のカオスの中でもがいていた堂本尚郎が、ようやくたどり着いた陸地であったかもしれない。
未開の地に上陸した人間がまず始めることは、そこに家を建て、街を作ることであろう。それはすなわち、“秩序”で世界をおおいつくすことにほかならない。『連続の溶解』という連作になると、堂本は画布の上に絵の具を盛り上げ、立体的なグリッドを築き上げる。それは彼の独自の“秩序”で構成された、人工的な世界なのである(表題にあるように、それが一部分で“溶解”しているのだが)。
堂本はこのテーマでおびただしい点数の作品を描いている。そのうちの何点かはヴェネツィア・ビエンナーレに出品され、入賞を果たしているという。しかし煉瓦を積み上げるように整然と構築されたその絵画は、無機的で、冷たい。人間の情感にうったえる要素が、ここからは厳しく排除されているのだ。たとえ、京都生まれの堂本があちこちで目にしたにちがいない格子模様のイメージがそこに影を落としているにしても、である。
一定の評価を受けたからといって、彼はそこにとどまろうとはしなかった。人間は考えごとをしながら散歩しているときにでも、ふと目についたものがきっかけで考えが変わったり、それまで気がつかなかったことに気づいたりする。堂本も、この連作を描き継いでいく過程で、内なる変化に気づかないわけにはいかなかったはずだ(そのきっかけが何だったかは、知るすべがないけれども)。
いつしか彼の絵画の中には、コンパスでひいたような完全な円形があらわれるようになる。そしてそれこそが、通奏低音のように、後期の彼の創作活動のベースになっていくのである。
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