杉山寧『黄』(1962年、個人蔵)
『黄』は、これまで苦労して積み重ねてきた日本画の鍛錬の精華を、一気に突き崩してしまったような作品に見える。
ひとことでいえば、これは抽象画にほかならない。いったい何が描かれているのか、さっぱりわからないのだ。『黄』という題も、具体的な対象を指し示してくれるものではない。後年、杉山は漢字一文字の題名を好んでつけるようになっていた。
使われている色も、たとえば『椿と乙女』の多彩さに比べたら、うんと減らされている。ついでにいえば、タイトルの「黄」の色という平坦な印象は、絵のなかからは感じられない。ぼくが真っ先に連想したのは、燃えさかる炎であった。それも、枯野に火を放った野焼きのように、広範囲に燃え広がる炎だ。
マチエールに眼を凝らすと、平らではなく、それこそ随所で火炎が燃え盛るかのように隆起している部分もある。初期の作品にみられたフラットな滑らかさはすでになく、絵を眺めているだけで、皮膚がざらついてくるかのような違和感を覚えさせられる。
これこそが、杉山寧が求めていたものかもしれない。眼で観て納得できるだけの日本画から脱却するために、あえて意味に寄りかからず、観る者が五感でとらえねばすまないような絵を描いたのだ。
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杉山寧『悠』(1963年、個人蔵)
彼の重要なモチーフである、エジプトに取材した作品がようやくあらわれた。以前に東京で観た『穹』と同じく、スフィンクスを大きくとらえている。ただしこちらは真横からのアングルであり、しかもよく晴れた昼間の情景である。
ここでは、スフィンクスとピラミッドのごつごつした質感が、顔料の濃厚なマチエールに置き換えられている。対象の厳密な写生というわけではない。ただ、日本画の岩絵具はもともと岩を砕いて作ったものだから、そこには不思議な親和性が感じられるような気もする。
繊細な花鳥風月を愛で、四季の微妙な変化を味わうことが、日本人の感受性の原点とされてきた。従来の日本画は、いわばそういった“日本的なるもの”の前提の上に成立してきたのだ。しかし杉山はそこを離れ、過酷な暑さに塗り込められたようなエジプトに題材を求めた。
題名の『悠』が示すように、日々移り変わるわが国のめまぐるしさを追い求めることを止め、彼は不変なるものへと眼を向けたのだ。これは、たとえば印象派の画家たちが描こうとした光と色彩の移ろいとも無縁である。杉山にしてみれば、ちょっと眼を離した隙にも変化してしまう光景を追い求めることなど、あくせくした徒労のように思われたかもしれない。
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