てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

イメージの系譜 ― 江戸絵画を横断する試み(9)

2006年11月18日 | 美術随想
余白について その1



 美術は好きだが、あまり美術のことばかり考えていると、頭が凝り固まってくる。気分転換にと思い、ちょっと軽めで、しかも全然無駄にはならないような本を読むことにして、五木寛之氏の『生きるヒント』を手にとった。すると、こんなことが書かれているのを見つけてしまった。彼は京都特有の美意識に関して、次のようにいっていた。

 《石庭そのものが、時間がたってしまって今はああなっているけれども、もしかしたら、かつては、たとえば豊臣秀吉がはなやかな花見の宴をしていたころは、あの庭の背景はもっと明るく、もっと濃厚なものだったかもしれません。今、さびさびとした感じで見える神社仏閣が、かつては極彩色に飾られ、そしてどぎついまでの原色を誇っていた時代があることを想像しますと、京都の文化というのはもっと華やかで、そしてもっと空間を多く飾り、過剰なまでの装飾概念のなかにある文化だ、という気がします。

 ですから、京都の焼き物を見ても、あるいは和服を見ても、余白を生かしていくというよりは空間を埋めていく精神を強く感じるし、それはとりもなおさずヨーロッパのバロックという精神と共通のものだと思えるのです。バロックという精神は、ある意味では成金趣味とか装飾過剰とか、悪趣味というものと紙一重のところに成立している凄い美意識なんですね。》
(『生きるヒント1―自分の人生を愛するための12章―』「6章 飾る」角川文庫)

 ぼくは一読して、なるほどと思った。五木氏は京都に暮らした経験もあるとかで、単なる旅行者的な感想ではない。龍安寺の石庭が昔はどのようだったか知るよしもないが、祇園祭の華美な鉾の飾りなどを思い浮かべると、「過剰な装飾」という言い方にもうなずけるものがあるのである。寺院にしても、仏像にしても、作られた当初は絢爛豪華に輝いていたはずで、NHKがデジタル技術を駆使して再現したCGの映像などを見ると、まさに目もくらむばかりの華やかな世界なのだ。

 それにしても、日本美術というと判で押したように「余白の美」などという言葉が使われるのは、逆に自分の国の美術を一面的な見方で片付けてきた証拠ではあるまいか? 確かに、いかにも「余白の美」を感じさせる絵画はあるし、能楽などは「沈黙の美」なのかもしれないが、五木氏のいうようにバロックを想起させるものも少なからず存在するのである。バロックというと、ルーベンスの絵を観てもわかるように、人体が過剰なまでにうねり、絡まり合っていて、まさしく「空間を埋めていく精神」を感じざるを得ない。その傾向が、例えば伊藤若冲の彩色画などに顕著にみられることは、ここで改めて指摘するまでもないことであろう。静粛な能楽もあれば、騒々しい祭囃子もあるのである。そういった二面性こそが、日本文化の本質なのではなかろうか。

                    ***

 『紅白梅図屏風』(プライスコレクション、上図、部分)を観ていると、これぞ「余白の美」の対極にあるものではないかと思われてくる。左右合わせて幅7メートルを超える大画面の中に、ほとんど寸分の隙間もないほど梅の花が描き散らされていて、まるで満開の桜の中にいるようだ。この絵の作者は現在のところ明らかになっていないけれども、「空間を埋めていく精神」がこれほど率直かつ大胆にあらわれた絵というのも、ちょっと珍しい。

 だがよく観ると、梅の木は右隻と左隻にそれぞれ一本ずつ描かれているだけである。それぞれの幹から無数の枝が分かれ、隙間を求めるようにくねくねと伸び、その先からさらに小枝が分かれ、そして大輪の花と蕾とをいっぺんにつけている。梅の花びらは普通、枝先に向かって徐々に開いていくものだが、この絵の中ではそれがどの程度忠実に描かれているか、丹念に観ても判別することは難しい。それほど入り組んでいるのである。

 おまけにこの梅は、紅梅と白梅とが同じ木から咲いているのだ。こちらが紅梅、あちらが白梅というわけではなく、文字どおり「紅白梅」が混ざり合って咲き競っているのである。いつだったか、奈良にある大和文華館の庭園で、紅梅と白梅が一本の木から咲いているのを見たような気がするのだが、確か大変珍しい種類の梅だと説明されていたように覚えている。ここに描かれている梅は、はたしてその希少な梅なのか、それとも画家の想像力のたまものか? いずれにしても、めったに見ることのできない壮麗な図柄だというべきだろう。

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 さらに目を凝らすと、梅の背後に川が流れていることがわかる。この二本の梅の木は、川のほとりに立っていたのだ。そうなるとただちに、あの尾形光琳の『紅白梅図屏風』(MOA美術館、下図)を思い出してしまう。年に一度だけ熱海で公開されるこの名高い国宝を、ぼくは実際に観たことはないが、絵柄の解釈の点でも、あるいは最近おこなわれた科学的な調査の点でも、何かと話題を提供しつづける、日本を代表する一枚だといって間違いはない。



 川辺に梅の木が二本立って、花を咲かせているという点では、先ほどのプライスコレクションのものと光琳の絵は同じである。明らかに異なるところは ― 改めて指摘するのも気が引けるほどだが ― 後者が圧倒的にシンプルに描かれているということだ。それぞれの木は孤立し、あいだを川で隔てられていて、みだりに重なり合うことはない。そこに余白があらわれてくるのである。

 これらの絵が描かれた年代を調べてみると、光琳のほうが後のものらしい。二枚の絵に因果関係があるかどうかわからないが、画面をいっぱいに埋め尽くしていた梅を間引き、さらに間引き、もう一度間引いて、光琳のあの絵ができあがったと考えるとおもしろい。それはいわば、日本美術に余白が出現するプロセスを告げているからだ。余白とは、画家が意図的に間引いてできた空間のことであり、最初から何もなかったわけではないということを、この二枚の『紅白梅図屏風』は気づかせてくれるのである。

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