goo blog サービス終了のお知らせ 

てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

井田照一とは誰だったのか(3)

2012年06月28日 | 美術随想

井田照一『Blue Cake』(1967年、京都国立近代美術館蔵)

 少しあいだを空けて、今度は京都国立近代美術館のほうへ行ってみる。

 展示の密度は、こちらもかなり高い。しかも順路がわかりにくく、受付の係員に「あちらからどうぞ」と促されたものの、どこから観ればいいのかわからなかった。作品が順番に並んでいるというわけでもないようだ。

 個人の展覧会を観るときは、制作の順序にしたがって作風の変遷をたどることが有意義だと思っているので、この時点ですでに心が折れてしまった。

 それでも何となく歩を進めて行くと、しばしば既視感に襲われるではないか。先に京都市美術館で観たのと同じような作品 ― 版画であるから正確にいえば刷りがちがうのだろうが ― と出くわす。これでは、同じ作家の展示を2か所でやる意味がない。部屋中に卵のプリントをはりめぐらしたインスタレーションも、両方にある。同じ日にふたつとも観なくてよかったと、変なところで安心した。

 はっきりいってしまえば、ぼくは2日間かけて数百点もの井田照一の作品を観て腹いっぱいになったはいいが、いささか食べ過ぎてしまったようなのである。最初からフルコースを平らげるには、彼の芸術は過度に刺激的で、胃にもたれる。人によっては、全然受け付けないかもしれない。

 どうせならもう少し作品を精選してもらって、コンセプトが明確にたどれるような展示の仕方を考えてもらえれば、ありがたかった。その点で、これらふたつの展覧会は、寄贈されたものを並べるだけ並べた見本市のようにも思えた。

                    ***


井田照一『Gray Scale from Pink of Palace』(1972年、京都国立近代美術館蔵)

 だが、胃にもたれたならもたれるだけ、いつまでも体内に井田照一の感触が残っているのもまだ本当である。ちょっと尾籠な表現で申し訳ないけれど・・・。

 こんな下手な冗談めいたことを書きたくなったのも、井田が好んで取り上げるモチーフには、あまり上品とはいえないものが含まれているからだ。便器に腰掛ける裸の女児など、今発表すれば多少の問題になるのではないか、と思えるようなものもある。

 もちろんそこには、エロティシズムの追求がある。エロスといえば、池田満寿夫も忘れられない存在だった。だが、井田照一の描くエロスはポップで、軽妙で、ドロドロしたところがない。彼の師である吉原英雄の、女性の脚線美を用いた作品も影響しているように思う(「20世紀版画おぼえがき(1)」参照)。

                    ***

 井田の晩年は、病気との戦いだったらしい。しかし、創作意欲は衰えなかったようだ。彼は8年前の ― ということは亡くなる2年前の ― 京都新聞のインタビューで、次のように語っていた。

 「人生は一回しかないし、いろんな出会いと表現の可能性をミスしたくない。そのためにはひとつの素材や表現手法に固執するのではなく、もっともふさわしい素材と方法で具現化する、それがぼくの創作だし、生き抜いていく方法でもあるんです」

 そうやって人生を駆け抜けた井田照一の作品を、ひとりの人間の歴史として鑑賞するには、もう少し時間がほしい気がした。ぼくの眼に残る彼の版画の色彩も、紙の凹みも、まだ出来たばかりのように生々しかった。

(了)


DATA:
 「京都市美術館コレクション展 第1期 井田照一 版の思考・間の思索」
 2012年4月7日~6月17日
 京都市美術館

 「井田照一の版画」
 2012年5月22日~6月24日
 京都国立近代美術館

この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。