第二次世界大戦中の1942年春、シンガポールを占拠した日本軍はその占獲兵器の中に見慣れない装置を見つけた。敵方の説明で、それが当時日本軍が「電探」(電波探知機)と呼んでいたレーダーだということはわかった。だがわからないのは、押収した操作マニュアルを読んでいたにひんぱんに登場する「YAGI」という言葉だった。敵のレーダー手に訊問すると、このアンテナをつくった八木という日本人を知らないのかとあきれられたという。
レーダーの重要性を理解していなかった日本軍のお粗末さをあらわすエピソードとしてよく引用される話である。
1925年、八木秀次によって発明されたアンテナは、高利得なうえに、指向性が非常に強かったため、「指向アンテナ」とも呼ばれた。この成果は欧米の研究者の注目をひいたが日本ではほとんど無視され、研究もそれ以上進まなかった。
その間に英米の研究者がこれをレーダーに応用し、「八木アンテナ」(ヤジ・アンテナと発音された)の名まで与えた。そしてこれが、第二次世界大戦の勝利の帰趨を決する重要技術となったのである。
戦後、八木アンテナはテレビ用のアンテナとして脚光を浴び、世界中の家庭に普及した。現在でもこれ以上に優秀なテレビ・アンテナはまだ見つかっていない。
八木秀次は1886年、大阪の札差(ふださし)の三男として生まれた。若いころは内気な文学青年タイプだったが、理科を選び、東京帝国大学電気工学科にはいった。卒業後、仙台工業高校の講師になり、東北帝国大学工学部のスタートとともに教授に昇格した。
八木は怜悧な頭脳と広範な学識を誇り、歯に衣を着せぬ発言も多かったため、敵もたくさんつくった。しかし本心は優しく、同僚や後輩を思いやる気持も強かった。これは彼のもとから優れた研究者が数多く育ったことからも証明される。
八木はテスラを尊敬し、1926年にはテスラの無線送電の可能性について講演も行っている。彼は日本における無線操縦技術のパイオニアでもあったが、この分野でもテスラを偉大な先駆者と認めていた。
八木アンテナの原理は共振にあり、共振を発明のキーワードとしたテスラとはこの点でも縁が深い。
レーダーの重要性を理解していなかった日本軍のお粗末さをあらわすエピソードとしてよく引用される話である。
1925年、八木秀次によって発明されたアンテナは、高利得なうえに、指向性が非常に強かったため、「指向アンテナ」とも呼ばれた。この成果は欧米の研究者の注目をひいたが日本ではほとんど無視され、研究もそれ以上進まなかった。
その間に英米の研究者がこれをレーダーに応用し、「八木アンテナ」(ヤジ・アンテナと発音された)の名まで与えた。そしてこれが、第二次世界大戦の勝利の帰趨を決する重要技術となったのである。
戦後、八木アンテナはテレビ用のアンテナとして脚光を浴び、世界中の家庭に普及した。現在でもこれ以上に優秀なテレビ・アンテナはまだ見つかっていない。
八木秀次は1886年、大阪の札差(ふださし)の三男として生まれた。若いころは内気な文学青年タイプだったが、理科を選び、東京帝国大学電気工学科にはいった。卒業後、仙台工業高校の講師になり、東北帝国大学工学部のスタートとともに教授に昇格した。
八木は怜悧な頭脳と広範な学識を誇り、歯に衣を着せぬ発言も多かったため、敵もたくさんつくった。しかし本心は優しく、同僚や後輩を思いやる気持も強かった。これは彼のもとから優れた研究者が数多く育ったことからも証明される。
八木はテスラを尊敬し、1926年にはテスラの無線送電の可能性について講演も行っている。彼は日本における無線操縦技術のパイオニアでもあったが、この分野でもテスラを偉大な先駆者と認めていた。
八木アンテナの原理は共振にあり、共振を発明のキーワードとしたテスラとはこの点でも縁が深い。
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