テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

地震と作業所のこと

2011-03-17 13:27:29 | Weblog
「遊行の盆」や「福祉まつり」のボランティアを通して仲良くなった矢野所長に誘われて、精神障害の作業所の非常勤職員になってからはや2年が立った。メンバーとも気心が通じるようになり、スタッフもよい人ばかりで、環境には満足している。
 作業所といっても、ここは所内での作業は少なく、メンバーのための文化・教養・スポーツなどのプログラムと、雇用契約による清掃事業が中心である。プログラムは絵画、生け花、茶道、書道、料理、ヨガ、体操、ハイキングなど十数種類あり、講師はみなボランティア。職員も特技や趣味をいかして、その一翼をになっている。わたしも「文章講座」を担当させてもらっている。
 文章講座も始めてから2年近くなる。講座と名前は堅苦しいが、内容はメンバーに書いてもらった短い文章をもとに雑談するだけである。その中で書き手自身が言いたかったことをよく理解し、少しでも掘り下げられれば目的は達したと思っている。はなから文章の巧拙は関係ないと思っていたが、その繰り返しのうちに、文章もしだいに上達してきたのはうれしい発見だった。
 毎回、こちらで用意した詩や短い文章も紹介しているが、星新一のショートショートが長すぎるといわれたり、意外な反応が返ってきてこれもおもしろい。これまでの文章は、年6回発行の機関誌に順次紹介してきたが、来年度は別冊形式でまとまられればと思っている。

 このたびの地震や原発事故で、メンバーの中には恐怖や不安を抱いて、変調を来している者が少なからずいる。こんなときは、作業所が開いていることが心の安定につながると考えて、停電中も開所し続けている。
 もちろん交通事情などもあるし、家のほうが安心できるメンバーには在宅を勧め、あとは電話で対応している。
 被災者の救出・支援、被災地の一日も早い復興とともに、作業所にも平穏な日々が戻ることを心から願っている。

計画停電と周波数の壁─全部テスラでやっておけば

2011-03-16 21:48:39 | Weblog
 大震災とそれにともなう原発事故で、需給バランスが崩れた電力を補うため日本最初の計画停電が実施されている。不便だが、この際、やむをえないだろう。
 当初、無傷の西日本の発電所から電力を融通する案もあったという。実現できれば停電せずにすんだかもしれないが、それを拒んだのが「周波数の壁」だった。
 よく知られているように、日本の電力事業は東日本の電力会社が50ヘルツ、西日本が60ヘルツで運用されている。従って西日本の電力を東日本で利用する場合には、周波数を変換しなければならないが、現有の変換設備の処理能力は100万KWしかない。これではとても需要を満たせないため、頓挫したのである。
 狭い日本の中でふたつの周波数がある。なぜ、そんなへんてこりんなことになったのか。その理由は日本の電力事業の歴史にあった。
 日本最初の電力会社、東京電燈会社(現在の東京電力)が設立されたのは1883年(明治16年)のことだった。その後、神戸、京都、大阪などにも同様の会社が設立されていった。
 初期の電力システムはエジソンの直流方式が主流だったが、電力需要がふえるにつれてニコラ・テスラの高圧交流方式が普及し始めた。
 このとき東京電燈会社が購入したドイツ製の交流発電機が50ヘルツを採用していたため、その供給エリアでは50ヘルツが使われるようになった。一方西日本では、大阪電燈会社(現在の関西電力)がゼネラル・エレクトリック社製の60ヘルツ発電機を採用した。ここから現在の東西の周波数区分が生じたのである。
 ゼネラル・エレクトリック社の設立者はエジソンだから、初期は当然、直流発電機を製造していた。しかし時の流れには逆らえず、当時はウェスチングハウス社のライセンス供与を受けた交流発電機も製造していた。ウェスティングハウス社の特許はテスラの特許を購入したものだから、かつての部下の軍門に下ったことになるわけで、天下の発明王としてはさぞ不本意だったことだろう。
 ちなみに60ヘルツという周波数も、当初からテスラが主張していたものだった。
 その後、周波数統一の話は何度も持ち上がったが、そのたびに膨大な費用がネックとなって実現しなかった。それに変わるべき周波数変換設備の建設も、やはり必要性と予算のかねあいでなかなか進まなかった。
 最初から全部テスラでやっていれば、今のような問題は起こらなかったのにと思うと残念でならない。

計画停電初日

2011-03-16 08:38:49 | Weblog
 一昨日の計画停電初日はまぬかれたが、昨日は午後4時頃から3時間ほど停電した。身の回りの雑用をしているうちに、暗くなってきたので1時間ほど仮眠した。起きたらあたりはもう真っ暗だった。
「しまった、電池を買い忘れた!」と思いながら、暗闇の中で懐中電灯を探し出すと、案の定、電池が切れていた。
 キッチンにあった百円ライターの灯りをたよりに仏壇のろうそくを探したが、見つからない。明かりはあきらめ、ノートパソコンを開いて、文章を書き始めた。しかし、どうも落ち着かない。
 パソコンを閉じ、真っ暗な廊下を手探りで伝って玄関から表に出た。
 家の前は国道だが、街灯も、信号も消え、なにより店や建物の明かりがまったくない。通りを走る車の数も、人通りもいつもより少ない。いくらか心細い思いにとらわれながら、ふと空を見上げた。星がよく見えるかと思ったのだが、あいにく曇りでなにも見えない。しかたなく部屋にもどって、時計をにらみながら、停電の回復を待った。
 終了予定時刻の7時ぴったりに、アナログテレビのスイッチがバチンとはいって、照明が点灯した。テスラに感謝しながら、夕食の支度を始めた。
 子供の頃にはよく経験したが、久しぶりの停電にはとまどうばかりだった。
 こんな調子で今日も続くのだろうか。

東日本大震災について

2011-03-14 23:29:39 | Weblog
◎観測史上最大のマグニチュード9・0の大地震、未曾有の大津波、原子力発電所の深刻な事故……。
3月11日に発生した東日本大震災は、自然の猛威を見せつけるとともに、科学技術を過信することの危うさをあらためて思い知らせた。
今は被災者に一刻も早く救援の手が差し伸べられ、今なお予断を許さない原子炉の事故が無事収束することを願うのみである……。

◎東日本大震災にからめて、ハープや地震兵器といった与太話を得意げに語る連中には本当に腹が立つ。テスラと無縁なものを、当たり前のように関連付けて語っているのも不快だが、なによりこれほどの被害が出ている災害に対して、つまらないオカルト話や陰謀論を語ること自体不謹慎だろう。



トリスのハイボールを飲んだら、アンクルトリスのTシャツがあたった!

2011-03-04 18:37:56 | Weblog


 昨夜、駅前の居酒屋「村さ来」でトリスのハイボールを注文したら、くじがついてきた。引いたら、Tシャツがあたった。トリスウィスキーのキャラクター、アンクルトリスをデザインしたTシャツである。
 うれしくて、ちょっとなつかしかった。
 アンクルトリスといっても、今の若い人は知らないだろうが、わたしたちの世代には思い出のキャラクター。柳原良平氏が描くその酒好き親父のキャラは、昭和30年代前半に一世を風靡した。漫画少年だったわたしは、そのイラストをまねしてよく描いたものだった。あれから50年たった今でも描ける。
 テレビCMでは、アンクルがグラスをかたむけるたびに、顔が下から徐々に赤くなっていくのが可愛かった。白黒テレビの時代だったが、あの赤ははっきり見えた。
 このアンクルトリスとともに流行ったのが、「トリスを飲んでハワイに行こう」という懸賞コピー。当時は1ドル360円。海外旅行などとても手が届かない時代の、それでも一番身近な海外がハワイだった。
 トリス・ウィスキーもまたウィスキーが高級酒であった時代の一番庶民的なウィスキーだった。サントリーレッドとハイニッカが1本500円だった当時、確か1本380円だった。学生下宿で仲間と酒盛りをするときは、これとコカコーラが必需品だった。一番安いウィスキーを飲んで、あこがれのハワイに行ける。なかなかうまい宣伝であり、見事なキャッチコピーだった。

 ハワイは当たらなかったが、アンクルトリスのTシャツがあたった。
 それで満足な夜だった。