テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

レトロ・フューチャー2

2019-10-02 00:23:00 | Weblog
レトロ・フューチャー2
コメント

テスラの新刊「天才二コラ・テスラのことば」出ました。

2019-03-26 17:34:07 | Weblog

 発明家二コラ・テスラは生前、論文や自伝、雑誌・新聞に発表したエッセーやインタビューに多くの言葉を残しました。本書はその中から、彼の天才性や人間性をよくあらわす言葉を著者が独自に選定して翻訳・紹介したものです。

人間テスラは発明家としての功名心と挫折、己の才能に対する自信と不安の間で揺れ動きました。生来の繊細さから、自律神経失調、強迫性障害、潔癖症などの精神的病にも苦しめられました。そこから自ずと孤独を愛する性格が形作られていったのです。
 その反面、放電パフォーマンスなどで見せた芝居っ気やユーモアで多くの人を引き付けました。折にふれて発表された科学や社会に対する鋭い批評、東洋思想にも通じる人生哲学、感性の豊かさを示す詩作、祖国や自然や動物などに注いだ豊かな愛情。それらの全体が人間テスラを形成しているのです。

 本書が未だ知られざる人間テスラの魅力を理解する一助になればさいわいです。

 孤独になりなさい。それが発明の秘密なのだ。孤独になりなさい。アイデアが誕生するのはその時なのだ。(一九三四年)

 現在は彼らのものだが、私が心血を注いだ未来は私のものだ。(一九二七年)



新戸雅章編著
「天才二コラ・テスラのことば」
小鳥遊書房
2019年4月3日刊
\1,800
コメント

レトロ・フューチャー

2019-01-12 01:06:34 | Weblog


コメント

政太夫の説教節

2018-09-21 15:13:33 | Weblog
先月31日、説教節政太夫さんの説経節を日暮里に聴きにいってきた。
政太夫さんとは遊行かぶき創立以来のお付き合いだから、もう20年以上になる。
私が説経節を最初に聞いたのは、1996年、つまり遊行かぶき旗揚げの年。ところは時宗総本山清浄光寺(遊行寺)。その本堂で、政太夫さんの師匠に当たる武蔵大掾師の「小栗判官一代記」を聴いたのが最初だった。
 舞踏家大野一雄氏とコラボしたこの歴史的舞台で、初めて接した説経節は言葉もわからず、節回しも初めて聞くものだったが、深い郷愁を呼び覚ますような独特の響きがあり、なぜ知らずその懐かしい世界に身をゆだねていた。武蔵大掾はその後体調を崩され3年後にお亡くなりになったので、再会は果たせなかったが、代わりに弟子の若松若太夫と政太夫さんの演奏を聴くことができた。
 とくに政太夫さんは「遊行かぶき」の狂言回しとして、その後20数回の公演にお付き合いいただき、間近かで拝聴してきた。全6時間余りに及ぶ「小栗判官一代記」全段通し公演という荒行も2度聴かせていただいた。その間の精進をつぶさに見て、芸道の厳しさを改めて認識させられたものだった。
 説経節とは、中世末から近世にかけて行われた語り物芸能の一つで、仏教の説経が平俗化し、節をつけて音楽的に語られるようになったものである。原型は、中世に竹でできた「ささら」をすりながら語った大道芸や門付芸で,江戸時代にはささらの代わりに三味線が伴奏に使われるようになった。操り人形との共演も行われた。
 元禄以前には浄瑠璃よりも盛んで,「かるかや」「さんしょうだゆう」「しんとく丸」など、いわゆる五大説経が人気を博した。最近、私がよく聞いている講談や浪曲などの語り芸のルーツともされている。
 明治になって一時、衰退したが、初代若松若太夫が新しい台本と節で復活させた。戦前は講談や浪曲に次ぐ人気を誇っていたが、戦後は久しく後継者が絶えた。それを復活させたのが、前出武蔵大掾(二代目若松若太夫)である。
 政太夫さんは私とほぼ同年代。近年、大きな病をえたが、それを克服してからの進境が著しい。今回もますます冴えわたる政太夫の「勧進帳」を堪能したが、この公演では、「江戸映し絵」との共演も見どころだった。
 写し絵とは、要するに幻灯のことである。数台の幻灯機を使ってスクリーンに絵を裏から映す。それを自在に動かすことによってアニメーションのような効果を生み出すのである。
 江戸時代後期、オランダから渡来した幻灯機を、日本の伝統的語り芸に取り込むことで完成した。からくり儀右衛門(田中久重)に代表される江戸からくりの精華の一つであり、日本アニメの隆盛の原点ともいえる貴重な芸能と言ってよい。説経節と同じように一度途絶えたが、平成の世になって(一九九四年)、有志の手で復活した。
 前述のように説経節はもともと人形芝居や影絵との組み合わせが多かった。その延長上の新しい試みは、互いを引き立てあって大成功だった。
 説経節、写し絵とも、今後も公演予定があるので、古典芸能や江戸からくりに興味がある方にはぜひお勧めしたい。
コメント

すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り

2018-09-07 00:40:03 | Weblog
 去る8月30日、友人に誘われて、錦糸町の「すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り」に行ってきた。
 河内音頭で盆踊りをという趣旨で始まり、今年で37回目を迎えたそうである。
37回目ということは1981年が第一回。当時はバブル突入前で、誰もが先を見て前のめりになっていた時代。そんな頃に、河内音頭のようなマイナーでローカルな芸能を、しかも東京の真ん中錦糸町でやろうと思いついたのは、すごいことだと思う。あの頃の浮ついた自分の気分を思い出すにつけ、そう思う。
 その後、バブル崩壊も乗り越え、今や夏の風物詩としてすっかり定着しているようだ。関係者の熱意の賜物だろう。

 ところで、私を誘った友人とは、DJの鷲巣功氏である。鷲巣氏は大学時代の後輩の伴侶で、音楽雑誌のライターとして、業界の裏方として、プロデューサーとして、DJとして音楽界で長く活躍されてきた異才である。日本レゲエ界の草分け、ランキン・タクシーのマネージャーも務めてこられた。今も中央FМのDJ、ピーター・バラカン氏などとのコラボ企画で活躍されている。そして朝倉喬司氏や平岡正明氏とともに錦糸町河内音頭盆踊りの立ち上げにかかわり、その後も首都圏河内音頭推進協議会議長として、祭りの盛り上げに力を注いできたのである。
 親しくなったのが比較的最近なので、お誘いをいただくまで、こんな活動をされているとはつゆ知らず。そういえば、少し前、浪曲師で河内音頭の音頭取りの京山幸枝若をよく聞いていると話したら、すぐに反応してくれた。洋楽やJ-POPだけでない広い音楽知識に感心したが、知ってみれば当たり前だった。
 実のところ、河内音頭については,その昔、鉄砲光三郎、河内家菊水丸をテレビを通して聞いていたくらいで、なにか言えるだけの縁も知識もない。正直、若い頃は興味もなかった。それがこの歳になって、京山幸枝若に惚れ込んだ縁で、彼の唄う河内音頭にも興味を抱くようになったのだった。
 師の「雷電と八角遺恨相撲」、「河内十人斬り」などはユーチューブで何回も聴き、聴くたびに新たな感銘を受けている。

 会場は首都高下の樫川親水公園特設会場。妻と5時半頃に到着すると、ステージではすで音頭が始まり、ステージ前には何重もの踊りの輪ができていた。老若男女入り乱れて盛り上がっている。会場に来る前は踊りに参加するつもりでいたが、なにせ当日は猛暑日の東京都心。二宮から会場まで約2時間の旅で消耗し、まずはビールで一息と思って見る阿呆を決め込んでいるうちに、結局、盆踊りの輪には加われなかった。
 五月家一若の「サチコ」、鳴門家寿美若の「砂川捨丸漫才一代記」と師匠方の演題が続いて、鉄砲光三郎の弟子鉄砲光丸さんの「河内十人斬り」を大トリに、すべての演目が終了した。演目はどれもよかったが、まだ初心者なので新作よりは古典が好みだなと思いながら聴いていた。
 アンコールは上記三師匠による豪華そろい踏みで、大団円。
 全体に地元の盛り上がりによる手作り感がすごい。私が立ち上げにかかわった藤沢の「藤沢宿遊行の盆」も盛り上がってきているけど、足りないのはこれかなと思った。
 来年もまたぜひ参加してみたい。


コメント

「山野先生のこと」2

2018-08-04 00:07:53 | Weblog
(承前)
 インタビューではNW運動やその理念に対する疑問を率直にぶつけた。山野先生の解答は明快で、多くの疑問が解消した気になった。その夜は、志賀隆生とともにお宅に泊まらせていただいた。
 その後、自然にNWワークショップに参加するようになった。ワークショップという言葉の意味はよくわからなかったが、J・G・バラードの提唱するスぺキュレイティヴ・フィクションを書くための勉強会ということだった。スぺキュレイティヴ・フィクションの定義もつかめなかったが、当時、傾倒していたカフカや安部公房などの観念小説に近いものだと勝手にイメージしていた。それこそ自分が書きたい小説だったので意気込んで参加したが、勉強したからといって書けるものではない。デビュー作でいきなり「X電車で行こう」という傑作をものにし、三島由紀夫に絶賛された先生のようにはいかないのです。
 原稿用紙を抱えてジャズ喫茶に入り浸り、家ではサンタナ、ピンクフロイド、エマーソン・レイク&パーマーなどを聴きながら、まったく筆が進まない毎日が続いた。

 そんなわけで小説はなかなか出来なかったが、毎月の読書会は勉強になった。ジュリアン・グラッグ、トルーマン・カポーティ、ディノ・ブッツァーティ、アラン・ロブ=グリエ、ヤコブ・ベルジャーエフ、マックス・ピカート、ホセ・オルテガ・イ・ガセット……、ワークショップがなければ、生涯出会えなかったかもしれない作家や思想家たちだった。
 普段の山野先生は、書斎部屋で静かに競馬の血統データを見たり、小説を執筆されたりしていた。評論などの鋭い切れ味から、狷介な人と思われがちだが、素顔の山野先生はとてもやさしかった。自分の中に閉じこもりがちな私のような人間にも、なにかと気をつかってくださった。
 ワークショップは山田和子さんが世話人として仕切り、先生は時々参加され、つねに該博な知識と明快な論理で会をリードされていた。その話は説得力があり、不勉強な若造には反論しがった。ただ、理論は別にして、小説に関しては自分なりにイメージがあり、そのあたりをなんとかしようともがいていたのを思い出す。

 山野先生のお人柄もあってNWSF社にはさまざまな人物が出入りしていた。多くの出会いがあり、すれ違いがあった。前出の大和田始、野口幸夫のほか、川本三郎、須永朝彦、清水欣也、永田弘太郎、増田まもる、川上弘美、亀和田武、川又千秋、寺山修司……。川本さんにはレビューを通してデビューの後押しをしていただいた。
 競馬の縁で先生と親しかった寺山修司が遊びに来て、たまたま居合わせた志賀隆生が将棋を指したと聞いてうらやましく思ったこともあった。
 その後も小説は書けないまま、翻訳やイラストをNW-SF誌に掲載したり、あとの活動といえば、将棋や囲碁、登山といったレクリエーションが主だった。将棋では覚えたての山田和子があれよあれよという間に上達し、アマチュア女流名人になったのには驚いた。才能というのはあるものだと思った。
 そのうちに山野先生の監修で、サンリオSF文庫が創刊されることになった。幻想文学、ラテンアメリカ文学、東欧SF、古典SFなど、先生らしい幅広い目配りがされた刺激的なラインナップだったが、翻訳など自分には無縁だと思っていた。しかし、ある時、
「新戸君も翻訳やったら」
 この一声でヴォネガットのエッセー集を担当することになった。
 それまで同人誌でインタビューやSF論を翻訳したことはあったが、英語に対する苦手意識は強く、商業出版など考えたこともなかった。やむをえず英語の文法書を引っぱり出してきたものの、にわか勉強では追い付けず、せっかくの機会を無にしてしまった。
 あちらでお会いしたら、「新戸君は翻訳もやらなかったね」といわれるだろうか。

 二〇代の頃はほとんど山野先生とNW─SFの影響下にあった。影響が強すぎると、そこから脱出するためなにか活動したくなるものである。SF論叢の刊行と並行して、「トーキングヘッズ」という読書会をお茶の水で開くことにした。ワークショップの真似事である。NWSF誌等で宣伝させていただき、志賀隆生、大和田始、永田弘太郎、巽孝之、牧眞司、鹿野司といった面々が加わってくれた。
 その後、SF論叢の5号でなんとか小説を一作書き上げたが、一九八二年の日本SF大会(TOKON8)の開催、十年近く勤めた市役所の退職、スタジオアンビエントの設立、評論誌「SFの本」創刊と重なって超多忙になり、先生にはすっかりご無沙汰してしまった。
 久しぶりの再会は、山野先生の結婚式だった。不義理をしていたにもかかわらず、ご招待いただき、その頃、藤沢で知り合った演出家の白石征さんとともに出席した。白石さんは寺山修司の盟友で、自主製作映画を通じて山野さんとも親交があったのだった。
 そして二年半前、私の遅い結婚式に来賓としてご出席いただき、スピーチを頂戴したのが最後になった。
「昔はなにもしなかった人が、長引くんだよね」
 その折り、こんな言葉をいただいた。長引くという表現は山野先生らしいと思った。「SFの本」などの活動、最近の二コラ・テスラの著作などを評価していただいたのだと勝手に、ありがたく受け取らせていただいた。

 先生、恥ずかしながらすっかり長引いて、この歳になってまだSFを書こうともがいているんですよ。
コメント

山野先生のこと

2018-08-02 23:33:31 | Weblog
 7月30日(月)、飯田橋のホテルメトロポリタンエドモンドで開催された「山野浩一さんを偲ぶ会」に出席してきました。
 ご逝去されてはや一年。SFの創作と評論、競馬の血統評論の両分野で多大な功績を残され、その影響は今もSF内外、競馬界に脈々と受け継がれています。SFでは、日本初のニューウェーブSF誌「NW=SF」を刊行し、伝説的なSF文庫として語り継がれる「サンリオSF文庫」の総監修者も務められました。「日本SFの原点と指向」で、SF界の重鎮をなで斬りしてみせ、SF評論の誕生を宣言されたことも鮮烈に記憶に残っています。
 亀和田武氏、川又千秋氏など、生前から先生と関係の深かった諸氏のあいさつを聞き、また久ぶりの再会となった志賀隆生と旧交を温めながら、あらためてその功績を思い起こさせていただきました。

 次の文章は当日刊行された追悼ファンジン「SFファンジン」に掲載した追悼文「山野先生のこと」を若干手直しして、再掲するものです。山野先生との出会いと、その後の薫陶はほぼ尽くされていると思います。少し長いですが、2回に分けて。

「山野先生のこと」

「新戸くんは小説書かなかったよね」
「いや、書けなかったんですよ」

 山野浩一先生に久しぶりにお目にかかり、そんな会話を交わしたのはたしか横浜で開催された「ワールドコン2007」のときだった。かつてスぺキュレイティブ・フィクションの創作をめざすNWワークショップに参加しながら、一作も書かずに去ったことをおっしゃられたのである。
 先生のひとことは、長い間心にひっかかっていたことを思い出させた。たしかにあの頃の私は、SF小説を書こうあがいていた。
 山野先生の主宰する「NWSF」のワークショップに初めて参加したのはたしか一九七三年頃だった。きっかけは自分の主宰する同人誌「SF論叢」のインタビューでお宅にお邪魔したことだった。
 当時、山野先生のお住まいは東京の京王井の頭線永福町駅の近くにあった。同人仲間の志賀隆生とともにマンションを訪れると、山野先生のほか、「NWSF」の編集長の山田和子さん、翻訳家の大和田始氏と野口幸夫氏がいた。ほかに競馬関係者の出入りがあったような気がするが、よく覚えていない。

「SF論叢」の創刊号に山野浩一インタビューを載せようと提案したのはたしか私だった。「SF論叢」は、「綾の鼓」というSF同人誌のメンバー数人で始めたSF評論誌だった。
 当時、私たちの間では、SF界には批評が不足しているというのが共通認識になっていた。作家の数より評論家のほうが多いくらいの純文学などに比べて、評論家といえるのは石川喬司さんなど数えるほど。これではSFの発展は望めない。この状況を打破するためには批評誌が必要だと、青二才どもが高ぶった気持でいたのである。
 ただ、同人仲間のSF観は千差万別、とくに当時、イギリスで起こったSFの改革運動「NW運動」に対しては評価がまっぷたつに割れていた。
 仲間の大半はよきSFファンだったので、神のように崇めるアシモフやハインラインを否定するようなNWの論調には批判的だった。私もSFマガジンを隅から隅まで読むようなコアなファンだったから、全面的に共鳴していたわけではなかった。それにもともと政治嫌いで、学生運動や新左翼運動にも懐疑的だったから、それと呼応するようなNW運動にも懐疑的だったのである。ただ文学志向は強かったので、運動の理念自体やその中心的存在であったバラードの作品には刺激を受けていた。
 山野先生のお話を聞きたいと思った最大の理由は、一九六九年、「SFマガジン」誌に掲載された「日本SFの原点と指向」にあった。それまでの私は小松左京の影響もあって、SFを「SF対文学」という対立軸でとらえていた。しかし山野先生の論は、日本SFの借り物性を批判しつつ、SFにおける科学志向と文学志向、SFと思想の問題を内在的に論じていた。そのインパクトは強烈だった。
 小松左京の評価については全面的に賛同できなかったが、そこには真剣に考えるべき問題があると感得されたのである。
 第一回の人選は山野先生しかないと思い定めた私は、皆の反対を押し切ってインタビューを申し込んだ。先生は快く引き受けてくださったが、仲間の反対は根強く、結局、当日参加したのは私と志賀隆生の二人だけになった。(続く)
コメント

遊行の盆2018

2018-07-31 16:10:18 | Weblog
 7月29日(日)、遊行寺会場で行われた「藤沢宿遊行の盆2018」の大盆踊り大会に参加してしてきました。前日に予定されていた遊行ばやしコンテストに参加する予定でしたが、台風で中止になったため、今年はこちらがメインになりました。
 今は二宮在住の私ですが、このイベントには、遊行舎の白石征さん、作曲のJ・A・シーザー、振付の花柳輔礼乃さんなどとともに、10年前の立ち上げから参加しただけに、思い入れがあります。
 招致踊りの西馬音内盆踊りを間に挟みながら、遊行の盆のメインテーマ曲となる、遊行ばやし、ささら交歓唄(かがいうた)、藤沢盆の恋歌、それと歴史のある藤沢シャンシャン、神奈川踊り、そしておなじみ炭坑節、東京音頭と次々に踊りの輪が広がりました。鈴木市長もわたしの前で楽しそうに踊っていました。
 この日の収穫は、三波春夫先生の「江の島ヨット音頭」が披露されたこと。ごぞんじのように、前回1964年の東京オリンピックでは、江の島がセーリングの競技会場になりました。それを記念してつくられたものです。
 それから今日までほとんど披露の機会がなかったのですが、2020年のオリンピックで、江の島がふたたびセーリング会場になったのを受けて復活したというわけです。


ハローワンダフル すてきじゃないか 
島は緑の 晴れ姿
ヨット ヨット ヨット ヨットでね

 あわせて、同じ三波先生のこちらは大メジャーナンバー「東京オリンピック音頭」のアレンジ版「東京オリンピック音頭2020」も披露されました。でも、これはちょっとアレンジしすぎかなー。振付が盛りだくさん、テンポも早すぎて、若い人ならよいのかもしれないが、老人にはついていくのが大変でした。もっと単純なほうがみなが参加しやすくていいとおもうけどなー。

 台風にたたられたとはいえ、年々盛況になっている「遊行の盆」。けっこうなことです。





コメント

豊島新棋聖誕生!!

2018-07-19 00:17:48 | Weblog
 7月17日、豊島将之8段が羽生善治棋聖とのヒューリック杯棋聖戦5番勝負を勝ち抜き、棋聖位を獲得した。本ブログで当時まだ6段だった豊島新棋聖を期待をこめて紹介してから8年。ようやく初タイトルに手が届いたわけである。
 16歳でプロ入りした新棋聖は、若いころから羽生竜王の後継と期待されてきた。20歳で初挑戦して以来、何度もタイトルに挑戦したが、そのたびに羽生竜王、久保利明王将らの厚い壁に跳ね返されてきた。
 その間に一回り若い藤井七段が彗星のように登場、棋界の評価は羽生から藤井への王者移動が当然視されるようになった。
 あれ、豊島の立場は? 豊島に期待していた私は新しいヒーローの登場を複雑な思い出見守っていた。しかし藤井の登場が覚醒させたか、昨年から名人戦挑戦者決定のプレーオフ進出、王位挑戦(現在継続中)と続き、ついに無冠の帝王に終止符を打ったのだった。
 羽生→藤井の規定路線がすんなり実現してしまっては、波瀾万丈好きな私には物足りない。やはり豊島棋聖がこの勢いに乗じてタイトルをかっさらい、二人の間に割り込んで禅譲ムードに待ったをかけてもらいたい。そして藤井七段の壁として立ちはだかってほしい。そんな夢を見させてくれためでたい1日だった。
コメント

改名効果かな

2018-05-16 00:14:01 | Weblog
都元晴 土田 関。
初日から2連勝。
改名効果だろうか。
このまま突っ走ってほしい。
コメント