テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

2月から「遊行舎ワークショップ」開催、参加者募集!!

2011-01-22 06:55:18 | Weblog
 

 今年も秋の<遊行かぶき公演>が決定した。演目は昨年大好評を博した「さんせう太夫」。中世説経節の世界を追求してきた遊行かぶきの集大成となる大作である。
 期日は9月上旬、舞台は例年通り遊行寺(時宗総本山清浄光寺)本堂。
 これに合わせて、2月から以下の要領でワークショップが開催されることになった。
 地元藤沢、湘南、神奈川、東京在住で演劇に興味がおありの方はぜひご参加を。

「遊行舎ワークショップ」参加者募集!!

 遊行舎では、9月上旬予定の遊行寺かぶき公演「さんせう太夫」に向けたワークショップを開催いたします。社会人、学生、主婦、プロダクション所属を問わず自由に参加できます。年齢制限はありません。スタッフその他をご希望の方の参加もお待ちしています。
 講師には演出家の白石征(遊行舎主宰)他を予定しています。
 あなたも遊行舎ワークショップに参加して、新しい芝居づくりに挑戦してみませんか。

「遊行舎ワークショップ」
期日:第一期(2月12日~3月26日)毎週土曜日午後2時~4時
会場:藤沢市村岡公民館第1和室(2階)
参加費:月額1000円(資料代)
《お問合わせ、お申込み》
251-0037藤沢市鵠沼海岸1-14-6 遊行舎
TEL.0466-34-9841
E-mail: niko091@bd.mbn.or.jp
http://www32.ocn.ne.jp/~yugyosya/yugyosya.html

《講師紹介》

◎白石征
演出家、遊行舎主宰

寺山修司の編集者をへて演劇活動を開始。1996年からは、〈遊行かぶき〉をコンセプトに毎年、遊行寺本堂を舞台に中世演劇を上演する。
両国シアターXの魯迅『眉間尺』、花田清輝『泥棒論語』の演出でも高い評価をえる。
主な作・演出作品:『新雪之丞変化一暗殺のオペラ』、『小栗判官と照手姫』、『中世悪党伝』三部作、『一遍聖絵』、『しんとく丸』、『さんせう太夫』、『瓜の涙』、『十三の砂山』、『眉間尺』、『泥棒論語』など。

さんせう太夫 ─母恋い地獄めぐり
白石 征/脚本・演出 寺山修司/短歌 J・A・シーザー/音楽
期日:9月上旬
会場:時宗総本山遊行寺本堂




クリスチャン・ベールがテスラを演じる!?

2011-01-21 21:31:28 | Weblog


 昨日、テスラブームについて書いたら、今日になってうれしいニュースが飛び込んできた。クリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」や「プレステージ」でおなじみの英国俳優クリスチャン・ベールが、テスラを描いた映画の主役を務めるというのである。
 映画の詳細はまだ不明だが、脚本はウラジミール・ライチッチ、制作はブランコ・ルスティーグ、共演は「バッドマン・ビギンズ」やハリーポッター・シリーズにも出演しているクロアチア出身のレイド・セルベッジア、カナダ在住のセルビア人女優ロリータ・ダヴィドヴィッチなどとのこと。
 制作のルスティーグは、「ソフィーの選択」や「シンドラーのリスト」なども手がけた大物プロデューサーである。
 記事だけではベールがテスラ役かどうかわからないが、彼がマジシャンを演じた「プレステージ」では、デヴィッド・ボーイ演じるテスラの瞬間移動装置が大きな役割を果たすなど、テスラとは因縁浅からぬものがある。それに長身痩躯のスタイルや、知的な風貌からいっても、テスラ役にはぴったり。
 それにしても、なんともわくわくするニュースだ。詳細がわかりしだい、また、このブログで報告したい。

http://community.livejournal.com/ohnotheydidnt/55255130.html

テスラの伝記漫画を刊行したい!

2011-01-20 23:07:48 | Weblog
         (c)下栃棚正之


 1980年初めから続く世界的なテスラブームは、21世紀にはいってからも衰えを知らない。
 映画では、デヴィッド・ボーイがテスラ役を演じた「プレステージ」、テスラコイルおたくの青年が主人公の「魔法使いの弟子」、コミックスでは荒木飛呂彦の「変人偏屈列伝」、アニメでは、テスラがモデルの「メガマインド」、TV番組ではエジソンとテスラの死闘を描いたNHK-BShiの「光の偉人 陰の偉人」。その他、ドラマ、アニメ、ゲーム、音楽、演劇、アートまで、あらゆるメディアに取り上げられている。
 テスラモーターズ社のEVカー「テスラロードスター」を初め、社名、製品名に名前が使われる機会もふえている。
 肝心の発明の分野でも、テスラの遺志を継ぐ無線送電の研究が、携帯機器のワイヤレス給電や太陽発電衛星などで、大きな成果をあげている。
 こうした情報は、わたしのホームページやブログで折にふれて紹介してきたが、あまりに数が多く、紹介し切れていないのが実情である。

 そんな中で、紹介し忘れたわけではないが、もう一度あらためて紹介しておきたい作品がある。それは下栃棚正之さんによるテスラの伝記漫画である。
 1999年に学研の雑誌「6年の科学」に連載されたこの漫画は、拙著「発明超人ニコラ・テスラ」を原作に、下栃棚正之さんが漫画化したテスラの唯一の伝記漫画である。原作の評価は置くとしても、定評のある下栃棚さんの作画がすばらしく、こむずかしいところもある原作をよく咀嚼し、小学生にもわかりやすく、おもしろい作品に仕上げていただいた。
 連載は好評で、終了後、単行本化の話もあったが、諸般の事情からまだ実現はしていない。テスラがメディアで取り上げられるたびに、このまま埋もれさせるのは惜しい作品とつねづね考えていた。
 とはいえ、あれからはや10年余り。考えているだけではラチが開かないことが証明された。昨今の出版事情もあるが、今年は下栃棚さんのご理解をえながら、単行本化に向けてがんばってみようと思っている。
 興味がおありの編集者の方は、ご一報を。

発明超人ニコラ・テスラ
http://nikola-tesla.sakura.ne.jp/


e-taxで確定申告

2011-01-19 08:11:31 | Weblog
 昨日はe-taxで確定申告をした。昨年はわたしのe-tax元年ということで、住民基本カード取得などの事前準備でずいぶん手間取ったが、今年は比較的スムーズに処理できた。
 ただ収支内訳書もe-taxで送れることを忘れて、郵送にしてしまった。還付なので少しでも早くと、用紙の交付と提出で税務署に2度足を運ぶことになった。
 一昨年までは、例年3月15日ぎりぎりに出していたので、ものすごい混雑だったが、期間前なので署内は閑散としていた。その分、担当者の姿がめだった。おかげで時間をかけて親切に応対してくれた。
 還付金が早く振り込まれるとうれしいな。

大西洋横断通信の夢

2011-01-10 21:40:16 | Weblog

 1867年7月、大西洋を行く巨船グレート・イースタン号の甲板にひとりの男の姿があった。長いあごひげと秀でた額をもつこの男の名はウィリアム・トムソン。英国の名門グラスゴー大学に籍を置く少壮の物理学者である。
 大学で教鞭をとっていた学者が、蒸気船で大西洋に乗り出したわけは、建設が始まった大西洋横断電信ケーブルの敷設工事を陣頭指揮するためだった。
 この工事は世界の産業をリードする英米両国にとって、まさに10年越しの悲願だった。
 アメリカのサミュエル・モースが発明した有線電信が実用化したのは1840年代のことだった。その後、電信網は陸地から海峡を越えて広がり、1856年には大西洋を横断して新旧大陸を結ぶ計画が立案され、大西洋電信会社が設立された。
 トムソンは以前から電信ケーブルの電気的性質の研究を行い、様々な提言も行ってきた。そこで彼も計画に参加することになった。
 トムソンは、信号の速度はケーブルの断面積に比例し、信号の減衰はケーブル長の2乗に比例するから、成功の鍵はより太いケーブルの採用にあると主張した。しかしこの提案は経済的な事情から採用されないまま、1857年、英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻による敷設工事が開始された。
 工事は順調に進むかに見えたが、500キロ余り敷設したところでケーブルが切断され、海中深く沈んでしまった。翌年の2度目の挑戦も切断などで失敗に終わった。しかし同年の3度目の試みで、ようやく大英帝国のヴァレンシア島(現在のアイルランド領)とアメリカのニューファンドランド島(現在のカナダ領)間の敷設に成功した。
 開通当日には、ヴィクトリア女王からブキャナン大統領あての祝電も送られ、労苦が報われた関係者は祝賀ムードに包まれた。しかしせっかく開通したものの通信状態が悪く、何度も送り直さす必要があったことなど大きな問題が残った。しかも2カ月後にはケーブルの腐食により音信不通になってしまった。
 度重なる失敗にこりた事業主は、主任技師を解雇してトムソンを後任に据えた。理論と現場に通じた文字通り海底電信界のエースの登場だった。
 トムソンの指導の下、敷設は順調に進み、前年、海底に見失ったケーブルの引き揚げにも成功した。かくして合計2本の海底ケーブルが大西洋をまたいでつながれ、新大陸と旧大陸がホットラインで結ばれることになったのである。
 この大工事に活躍したグレートイースタン号は、蒸気王イザムバード・ブルネルが設計した3隻の大西洋横断蒸気船の最後の一隻だった。そして最大の船だった。その大きさが、重量が増したトムソンのケーブルの運搬に大きな利点となった。
 ブルネルはこの蒸気船の完成を見ずに没していたが、大西洋の架け橋となった蒸気船が二度目のご奉公をしたことを草葉の蔭で喜んだにちがいない。

 1825年、数学者を父に生まれたケルヴィンは10歳で大学に入学するという早熟振りを発揮、22歳で大学教授に就任した。熱・電気・磁気現象を数学的に取り扱った多数の論文を書いたが、中でも、熱力学の第二法則の一般化、絶対零度を基準とする温度単位の提唱、高周波回路に応用された振動回路理論、仕事量ゼロでで膨張する気体の温度は低下するという「ジュール=トムソン効果」の発見などは科学史上に特筆されている。
 そんな彼の後半生をドラマチックに彩ったのが、この敷設工事だった。
 何事も徹底しないとすまないケルヴィンは、これ以降、海底電信の技術的な研究に没頭し、数多くの特許を残すことになった。
 1890年には世界科学界の最高峰である王立協会の会長に就任。科学の発展に尽力し、多くの科学者を支援した。ニコラ・テスラやチャンドラ・ボースといった誤解されがちな天才にも、暖かい励ましの手を差し伸べた。
 1892年、その多彩な業績に対してサーの称号を贈られ、ケルヴィン卿となった。
 ケルヴィンは古典物理学に殉じた科学者と評価され、晩年は旧世代の代表と目されるようになった。だがその一方で、20世紀物理学に先駆ける業績も無数に残したことは忘れてはならないだろう。
 彼は大西洋横断ケーブルで新旧大陸の懸け橋となっただけでなく、19世紀と20世紀の橋渡しもしたのである。



ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)
1824~1907
イギリスの物理学者

東京スカイツリー・ウォッチング

2011-01-10 13:52:50 | Weblog

 首都圏の新しい電波塔となる東京スカイツリーの建設に注目している。完成後の高さは634メートルと、電波塔としては世界一になる予定だ。
 この塔を定点観測しているブログがいくつかあって、わたしはそのひとつを毎日のように覗いている。(「東京スカイツリー定点観測所」)日々高くなる建物は、低迷気味の日本経済復活の起爆剤になりそうなパワーすら感じさせる。
 ブログによれば建設現場界隈は、すでに東京の新名所になっているようだ。人々も世界一の塔建設に、いろいろと復活の希望を託しているのだろう。
 その一方で、ブログの写真を見るたびに、わたしはなんとなく背中がゾクゾクする感じを味わっている。高い所が苦手なわたしは、自分がその上にいるような想像にとらわれて、足下がうすら寒くなってくるのである。
 わたしの高所恐怖症には、子供時代に昇った東京タワーの体験が関わっている。

 昭和33年春、当時小学生だったわたしは家族でオープンしたばかりのタワーを見物にいった。エレベーターに乗るつもりだったが、待たされるのを嫌った父の希望で、父とわたしだけが外階段で昇ることになった。母と姉・妹はエレベーターを待った。
 一度昇った人ならごぞんじだろうが、この階段は囲いが金網になっており、そこから下が丸見えである。高いところが苦手だったわたしには、苦役以外の何者でもなかった。
 なるべく下を見ないようにしていたが、緊張と恐怖で何度も足がとまりそうになった。そのうち疲れで足も痛み出した。心と体の二重苦である。永遠に責め苦が続くかと思われたころ、ようやく大展望台にたどりついた。
 ところがほっとしたのもつかのま、今度は人混みにまぎれて父とはぐれてしまった。どこをどう探してもみつからない。心細さと緊張による疲労から、半べそ状態で歩き回っているうちに案内所に行き着いた。そこでガイドにアナウンスしてもらって、ようやく家族と再会できたのだった。

 東京タワーには恨みはないが、以来、高いところへの苦手意識はますます強まった。成人してから新宿や池袋の高層建築物はいくつか昇ったが、毎度、好奇心と恐怖の板挟みでの見物となった。最近はこりて高い建物は最初から敬遠、地元に近い横浜のランドマークタワーにも行っていない。
 ブログの写真を見ると、あのときの体験がじわじわと蘇ってくるのである。それなら見なければいいという話だが、一方でわたしはものがつくられていく過程を見るのが大好き。街中でも、工事現場や建築現場に出会うとつい足をとめて見入ってしまう。
 日々高くなる建物を眺めながら、明日はどこまで伸びるのやら、と想像するのが愉しい。
 その点からいえば、世界一のタワーの建設ほど興味深いものはない。しかも毎日更新される鮮明な定点写真でウォッチすることが出来る。恐怖も実際に昇るのに比べれば、ずっと弱まり、その分だけ好奇心が打ち勝つのである。
 日々、成長するタワーは昨年暮れには、ついに500メートルの大台を突破した。現在は550メートルになり、今年中には634メートルに達するそうだ。
「やはり世界一じゃなけりゃだめだ」ということで、成長を楽しみに、今後もブログ・ウォッチを続けたいと思う。

(完成想像図 東武鉄道・東武タワースカイツリー 提供)

スケネクタディの天才

2011-01-04 12:38:46 | Weblog

 交流電力が実用化されたのは19世紀末だった。このとき、最初に虚数を用いてそれを理論化したのは、風変わりな天才オリヴァー・ヘヴィサイドだった。そして最終的な完成者となったのが、交流理論のもうひとりの天才チャールズ・スタインメッツである。
 脊椎後湾症の家系に生まれたスタインメッツは、小柄で、見るからに風采があがらなかった。しかし無邪気で、ユーモラスで、穏やかな人柄は多くの人から愛された。なにより彼は抜きんでた知性の持ち主だった。
 三月革命のさなかドイツに生まれたスタインメッツは、ギムナジウムを最優秀の成績で卒業し、17歳で大学に入学した。大学では電気工学を希望していたが、当時、ドイツの大学には該当する講座がなかったため断念した。
 大学では科学から文学にわたる幅広い知識を身につける一方、社会主義の影響を受けて社会主義に関する論文を書き、革命運動に身を投じた。そのためあやうく検挙されそうになったが、難をのがれて亡命、チューリヒやベルリンの大学で語学、数学、物理学、機械工学などを学んだ。その後、アメリカへ渡った。
 先に亡命していた同国人アイケマイヤーの経営する会社に就職したスタインメッツは、交流電動機の開発をまかせられた。このとき強磁性体のヒステリシス損失が最大磁束密度の1.6乗に比例するという法則(ヒステリシス損の法則)を発見した。
 その才能に目をつけたエジソンは、彼を雇い入れたいと考え、思い切った手段に出た。スタインメッツが勤める会社ごと買い取ってしまったのである。1893年、彼はゼネラル・エレクトリック社の研究者となった。
 エジソンはスタインメッツの才能と人柄を愛し、スタインメッツもエジソンの業績に賛辞を惜しまなかった。ふたりは終生変わらない親交を結んだ。
 1893年、スタインメッツは交流回路の解析に複素数の代数を使う論文を発表した。これによってニコラ・テスラが実用化した交流は、ついに理論的完成を見たのである。
 晩年のスタインメッツの評価は上がるばかりで、その権威から「最高裁判所」とも、また彼の研究所の所在地からとって、「スケネクタディの天才」とも呼ばれた。しかしもともと一匹狼だったスタインメッツは、所長のポストを辞退し、その後は後進の育成に尽力した。
 生涯独身を通したスタインメッツがこの世を去ったのは1923年だった。

「人が本当に愚か者になるのは、疑問を呈しなくなったときである」。
 天才が残した至高の名言である。

(写真は左アインシュタイン、右スタインメッツ)

チャールズ・スタインメッツ
1865-1923
電気工学者


遊行寺で年越し

2011-01-02 20:01:22 | Weblog

 大晦日は遊行寺で、ポトピの矢野さん、遊行フォーラムの高須さんと、年越しそばの振る舞いを手伝いながら年越し。
 遊行寺の参詣客は年々増えているようで、けっこうなことである。
 今から約20年ほど前、ふと思いついて遊行寺に初詣に行ったとき、あまりの参詣客の少なさに驚いた。暗い境内にまばらな人影。売店のたぐいも見当たらない。
 当時はバブルの夢華やかなりし頃で、人々の目も身近な地元より、有名な初詣スポットや海外に向いていた。わたしも明治神宮や鶴岡八幡宮が定番だった。
 それがバブル崩壊以後じょじょに人がふえ始め、最近では境内に長い列ができるほどになった。売店の数も多くなり、時宗総本山にふさわしい初詣光景となっている。
 おかげで用意した千食のそばも、2時間ほどでなくなった。

 当日は宝物館も開館していたので、手伝いが終わったあとは、3人でお邪魔して学芸員の遠山さん、職員の三浦さんと新発見の宝物などについて歓談した。
 ここしばらくは、こんな新年になりそうである。

不思議な飛行場

2011-01-01 16:57:29 | Weblog
 子どもの頃(1950年頃)、巨大なB―29が、我が家の軒先をかすめるほど超低空で飛行していた記憶がある。物心ついたかつかない頃の記憶だから、かなりデフォルメされていると思うが、巨大な銀色の機影は空を覆うようだった。
 あるとき、ふと記憶を確認したくなって家のものに聞いてみたところ、たしかにそんな感じに見えたとのことだった。
 わたしの住む藤沢は、米軍厚木基地の進入路になっている。今なら低空での進入など許されないが、当時はまだ占領下。騒音など無視して飛んでいたのだろう。
 湘南海岸の町藤沢は、意外にも航空機と縁が深い町である。戦前から戦後の一時期には、引地川沿いの高台に飛行場もあった。
 昭和34年9月、その「藤沢飛行場」に黒い偵察機といわれたロッキードU―2が不時着し、大騒ぎになったことがあった。Uー2といえばソ連の領空侵犯して査察活動を行い、ミサイルで撃墜された有名なスパイ機である。折りしも六十年安保の前年ということもあって、テレビや新聞でもかなり騒がれた。
 そんな物騒な飛行機ばかりではなく、飛行場から飛び立った軽飛行機やヘリコプターの姿もよく見かけた。
 藤沢にかつて飛行場があったことはもはや忘れられようとしている。しかしわたしにとってこの飛行場の存在は大きかった。家から近いこともあって、子供のころには格好の遊び場になっていた。
 丘陵を登っていくと、海に向かって突き出すように伸びる滑走路と格納庫が目に入る。運がよければヘリコプターや、軽飛行機の飛行を見ることができた。さらに運がよければ、グライダーの離陸も見ることができた。
 大学のグライダー部のお兄さんが、滑走路の端に停まったグライダーの座席に乗り込むと、それを黒塗りの外車が引っ張って走り出す。興奮して見つめるわたしたちの前をものすごいスピードで走りぬけたかと思うと、そのまま相模湾に向かって飛び出していった。
 そのころ子供たちの間に、パイロットのおじさんと仲よくなれば、飛行機に乗せてもらえるという噂があった。実際に乗ったと言いはる子供もあらわれた。
 ただ、子どものころから引っ込み思案だったわたしは、そのような幸運は最初からあきらめていたが。
 藤沢飛行場で一番興奮した出来事は、はじめて双発機を見た時だった。いつもは単発の軽飛行機ばかりだったが、その日はなぜか、大きく、たのもしい機体が滑走路に翼を休めていた。たぶんビーチクラフトの双発機だったと思うから、軽飛行機の部類のはずだが、わたしには羽田を飛ぶ旅客機のように見えた。
 双発機を見たのは、あとにも先にもこの一度だけだった。
 滑走路に機影のないことも多かったが、そんな時には格納庫を覗くという楽しみがあった。扉は開いていることが多く、大人の目をかすめて潜り込むことはむずかしくなかった。
 広い庫内に数機の軽飛行機と透明な卵型の風防のヘリコプターが並んでいた。金属製の機体はまぶしく、操縦席の計器や操縦駻を飽きずに眺めたものだった。ちょっとしたイタズラもしたが、今思い出して、事故につながるような悪さをしなくて本当によかったと思う。
 飛行場の楽しみは滑走路の外にも広がっていた。周囲には戦時中に掘られた防空壕が多かったからである。蝋燭を手に仲間とよく探検ごっこをした。たいていは行き止まりだったが、ある時、気がついたら、前方に光が見え、山の裏側に抜けていた。
 急に山間の風景が開け、小さな工場を眼下にした時には、別世界につれていかれたような不思議な気分になった。
 飛行場の影響かやがて航空少年になり、将来は航空機の設計者になろうと思ったが、結局、挫折した。
 飛行場がなくなり、跡地に工場ができると聞いたのはたしか、中学校時代のことだった。そのあたりの記憶をたしかめようと、図書館で飛行場について調べたことがある。
 藤沢飛行場ができたのは、戦時中の昭和19年。海軍航空隊がゴルフ場跡地を徴用して訓練用の飛行場を建設したのがはじめである。戦後は進駐軍に接収されたが、その後返還され、民間の航空会社が相模湾の遊覧飛行を行ったり。大学のグライダー部が練習に使ったりした。自家用飛行機の操縦免許証の講習にも使われたそうだ。
 ただ、このあたりは適当な資料がみつからず、詳しいことはわからなかった。
 そういえば中学校のころUFOに興味をもって、テレパシーでUFOを呼ぶ会に参加したことがある。会場は藤沢飛行場の滑走路跡だった。結局、UFOは出現しなかったが、遺棄された滑走路はなにか神秘的で、UFOが降りてきても不思議ではないように思えたものだった。
 あの日の夢の飛行機たちは、今どこを飛んでいるのだろうか。