交流電力が実用化されたのは19世紀末だった。このとき、最初に虚数を用いてそれを理論化したのは、風変わりな天才オリヴァー・ヘヴィサイドだった。そして最終的な完成者となったのが、交流理論のもうひとりの天才チャールズ・スタインメッツである。
脊椎後湾症の家系に生まれたスタインメッツは、小柄で、見るからに風采があがらなかった。しかし無邪気で、ユーモラスで、穏やかな人柄は多くの人から愛された。なにより彼は抜きんでた知性の持ち主だった。
三月革命のさなかドイツに生まれたスタインメッツは、ギムナジウムを最優秀の成績で卒業し、17歳で大学に入学した。大学では電気工学を希望していたが、当時、ドイツの大学には該当する講座がなかったため断念した。
大学では科学から文学にわたる幅広い知識を身につける一方、社会主義の影響を受けて社会主義に関する論文を書き、革命運動に身を投じた。そのためあやうく検挙されそうになったが、難をのがれて亡命、チューリヒやベルリンの大学で語学、数学、物理学、機械工学などを学んだ。その後、アメリカへ渡った。
先に亡命していた同国人アイケマイヤーの経営する会社に就職したスタインメッツは、交流電動機の開発をまかせられた。このとき強磁性体のヒステリシス損失が最大磁束密度の1.6乗に比例するという法則(ヒステリシス損の法則)を発見した。
その才能に目をつけたエジソンは、彼を雇い入れたいと考え、思い切った手段に出た。スタインメッツが勤める会社ごと買い取ってしまったのである。1893年、彼はゼネラル・エレクトリック社の研究者となった。
エジソンはスタインメッツの才能と人柄を愛し、スタインメッツもエジソンの業績に賛辞を惜しまなかった。ふたりは終生変わらない親交を結んだ。
1893年、スタインメッツは交流回路の解析に複素数の代数を使う論文を発表した。これによってニコラ・テスラが実用化した交流は、ついに理論的完成を見たのである。
晩年のスタインメッツの評価は上がるばかりで、その権威から「最高裁判所」とも、また彼の研究所の所在地からとって、「スケネクタディの天才」とも呼ばれた。しかしもともと一匹狼だったスタインメッツは、所長のポストを辞退し、その後は後進の育成に尽力した。
生涯独身を通したスタインメッツがこの世を去ったのは1923年だった。
「人が本当に愚か者になるのは、疑問を呈しなくなったときである」。
天才が残した至高の名言である。
(写真は左アインシュタイン、右スタインメッツ)
チャールズ・スタインメッツ
1865-1923
電気工学者
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