テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

「山野先生のこと」2

2018-08-04 00:07:53 | Weblog
(承前)
 インタビューではNW運動やその理念に対する疑問を率直にぶつけた。山野先生の解答は明快で、多くの疑問が解消した気になった。その夜は、志賀隆生とともにお宅に泊まらせていただいた。
 その後、自然にNWワークショップに参加するようになった。ワークショップという言葉の意味はよくわからなかったが、J・G・バラードの提唱するスぺキュレイティヴ・フィクションを書くための勉強会ということだった。スぺキュレイティヴ・フィクションの定義もつかめなかったが、当時、傾倒していたカフカや安部公房などの観念小説に近いものだと勝手にイメージしていた。それこそ自分が書きたい小説だったので意気込んで参加したが、勉強したからといって書けるものではない。デビュー作でいきなり「X電車で行こう」という傑作をものにし、三島由紀夫に絶賛された先生のようにはいかないのです。
 原稿用紙を抱えてジャズ喫茶に入り浸り、家ではサンタナ、ピンクフロイド、エマーソン・レイク&パーマーなどを聴きながら、まったく筆が進まない毎日が続いた。

 そんなわけで小説はなかなか出来なかったが、毎月の読書会は勉強になった。ジュリアン・グラッグ、トルーマン・カポーティ、ディノ・ブッツァーティ、アラン・ロブ=グリエ、ヤコブ・ベルジャーエフ、マックス・ピカート、ホセ・オルテガ・イ・ガセット……、ワークショップがなければ、生涯出会えなかったかもしれない作家や思想家たちだった。
 普段の山野先生は、書斎部屋で静かに競馬の血統データを見たり、小説を執筆されたりしていた。評論などの鋭い切れ味から、狷介な人と思われがちだが、素顔の山野先生はとてもやさしかった。自分の中に閉じこもりがちな私のような人間にも、なにかと気をつかってくださった。
 ワークショップは山田和子さんが世話人として仕切り、先生は時々参加され、つねに該博な知識と明快な論理で会をリードされていた。その話は説得力があり、不勉強な若造には反論しがった。ただ、理論は別にして、小説に関しては自分なりにイメージがあり、そのあたりをなんとかしようともがいていたのを思い出す。

 山野先生のお人柄もあってNWSF社にはさまざまな人物が出入りしていた。多くの出会いがあり、すれ違いがあった。前出の大和田始、野口幸夫のほか、川本三郎、須永朝彦、清水欣也、永田弘太郎、増田まもる、川上弘美、亀和田武、川又千秋、寺山修司……。川本さんにはレビューを通してデビューの後押しをしていただいた。
 競馬の縁で先生と親しかった寺山修司が遊びに来て、たまたま居合わせた志賀隆生が将棋を指したと聞いてうらやましく思ったこともあった。
 その後も小説は書けないまま、翻訳やイラストをNW-SF誌に掲載したり、あとの活動といえば、将棋や囲碁、登山といったレクリエーションが主だった。将棋では覚えたての山田和子があれよあれよという間に上達し、アマチュア女流名人になったのには驚いた。才能というのはあるものだと思った。
 そのうちに山野先生の監修で、サンリオSF文庫が創刊されることになった。幻想文学、ラテンアメリカ文学、東欧SF、古典SFなど、先生らしい幅広い目配りがされた刺激的なラインナップだったが、翻訳など自分には無縁だと思っていた。しかし、ある日、突然……、
「新戸君も翻訳やったら」
 この一声でヴォネガットのエッセー集を担当することになった。
 それまで同人誌でインタビューやSF論を翻訳したことはあったが、英語に対する苦手意識は強く、商業出版など考えたこともなかった。やむをえず英語の文法書を引っぱり出してきたものの、にわか勉強では追い付けず、せっかくの機会を無にしてしまった。
 あちらでお会いしたら、「新戸君は翻訳もやらなかったね」といわれるだろうか。

 二〇代の頃はほとんど山野先生とNW─SFの影響下にあった。影響が強すぎると、そこから脱出するためなにか活動したくなるものである。SF論叢の刊行と並行して、「トーキングヘッズ」という読書会をお茶の水で開くことにした。ワークショップの真似事である。NWSF誌等で宣伝させていただき、志賀隆生、大和田始、永田弘太郎、巽孝之、牧眞司、鹿野司といった面々が加わってくれた。
 その後、SF論叢の5号でなんとか小説を一作書き上げたが、一九八二年の日本SF大会(TOKON8)の開催、十年近く勤めた市役所の退職、スタジオアンビエントの設立、評論誌「SFの本」創刊と重なって超多忙になり、先生にはすっかりご無沙汰してしまった。
 久しぶりの再会は、山野先生の結婚式だった。不義理をしていたにもかかわらず、ご招待いただき、その頃、藤沢で知り合った演出家の白石征さんとともに出席した。白石さんは寺山修司の盟友で、自主製作映画を通じて山野さんとも親交があったのだった。
 そして二年半前、私の遅い結婚式に来賓としてご出席いただき、スピーチを頂戴したのが最後になった。
「昔はなにもしなかった人が、長引くんだよね」
 その折り、こんな言葉をいただいた。長引くという表現は山野先生らしいと思った。「SFの本」などの活動、最近の二コラ・テスラの著作などを評価していただいたのだと勝手に、ありがたく受け取らせていただいた。

 先生、恥ずかしながらすっかり長引いて、この歳になってまだSFを書こうともがいているんですよ。

山野先生のこと

2018-08-02 23:33:31 | Weblog
 7月30日(月)、飯田橋のホテルメトロポリタンエドモンドで開催された「山野浩一さんを偲ぶ会」に出席してきました。
 ご逝去されてはや一年。SFの創作と評論、競馬の血統評論の両分野で多大な功績を残され、その影響は今もSF内外、競馬界に脈々と受け継がれています。SFでは、日本初のニューウェーブSF誌「NW=SF」を刊行し、伝説的なSF文庫として語り継がれる「サンリオSF文庫」の総監修者も務められました。「日本SFの原点と指向」で、SF界の重鎮をなで斬りしてみせ、SF評論の誕生を宣言されたことも鮮烈に記憶に残っています。
 亀和田武氏、川又千秋氏など、生前から先生と関係の深かった諸氏のあいさつを聞き、また久ぶりの再会となった志賀隆生と旧交を温めながら、あらためてその功績を思い起こさせていただきました。

 次の文章は当日刊行された追悼ファンジン「SFファンジン」に掲載した追悼文「山野先生のこと」を若干手直しして、再掲するものです。山野先生との出会いと、その後の薫陶はほぼ尽くされていると思います。少し長いですが、2回に分けて。

「山野先生のこと」

「新戸くんは小説書かなかったよね」
「いや、書けなかったんですよ」

 山野浩一先生に久しぶりにお目にかかり、そんな会話を交わしたのはたしか横浜で開催された「ワールドコン2007」のときだった。かつてスぺキュレイティブ・フィクションの創作をめざすNWワークショップに参加しながら、一作も書かずに去ったことをおっしゃられたのである。
 先生のひとことは、長い間心にひっかかっていたことを思い出させた。たしかにあの頃の私は、SF小説を書こうあがいていた。
 山野先生の主宰する「NWSF」のワークショップに初めて参加したのはたしか一九七三年頃だった。きっかけは自分の主宰する同人誌「SF論叢」のインタビューでお宅にお邪魔したことだった。
 当時、山野先生のお住まいは東京の京王井の頭線永福町駅の近くにあった。同人仲間の志賀隆生とともにマンションを訪れると、山野先生のほか、「NWSF」の編集長の山田和子さん、翻訳家の大和田始氏と野口幸夫氏がいた。ほかに競馬関係者の出入りがあったような気がするが、よく覚えていない。

「SF論叢」の創刊号に山野浩一インタビューを載せようと提案したのはたしか私だった。「SF論叢」は、「綾の鼓」というSF同人誌のメンバー数人で始めたSF評論誌だった。
 当時、私たちの間では、SF界には批評が不足しているというのが共通認識になっていた。作家の数より評論家のほうが多いくらいの純文学などに比べて、評論家といえるのは石川喬司さんなど数えるほど。これではSFの発展は望めない。この状況を打破するためには批評誌が必要だと、青二才どもが高ぶった気持でいたのである。
 ただ、同人仲間のSF観は千差万別、とくに当時、イギリスで起こったSFの改革運動「NW運動」に対しては評価がまっぷたつに割れていた。
 仲間の大半はよきSFファンだったので、神のように崇めるアシモフやハインラインを否定するようなNWの論調には批判的だった。私もSFマガジンを隅から隅まで読むようなコアなファンだったから、全面的に共鳴していたわけではなかった。それにもともと政治嫌いで、学生運動や新左翼運動にも懐疑的だったから、それと呼応するようなNW運動にも懐疑的だったのである。ただ文学志向は強かったので、運動の理念自体やその中心的存在であったバラードの作品には刺激を受けていた。
 山野先生のお話を聞きたいと思った最大の理由は、一九六九年、「SFマガジン」誌に掲載された「日本SFの原点と指向」にあった。それまでの私は小松左京の影響もあって、SFを「SF対文学」という対立軸でとらえていた。しかし山野先生の論は、日本SFの借り物性を批判しつつ、SFにおける科学志向と文学志向、SFと思想の問題を内在的に論じていた。そのインパクトは強烈だった。
 小松左京の評価については全面的に賛同できなかったが、そこには真剣に考えるべき問題があると感得されたのである。
 第一回の人選は山野先生しかないと思い定めた私は、皆の反対を押し切ってインタビューを申し込んだ。先生は快く引き受けてくださったが、仲間の反対は根強く、結局、当日参加したのは私と志賀隆生の二人だけになった。(続く)