テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

森昌子賛、「演歌は日本人の心ではない」

2009-06-14 18:52:37 | Weblog
 ブレンダ・リーやナット・キング・コールなどのアメリカン・ポップスに始まったわがネット動画音楽の旅も、途中、日本の歌謡曲に移ってはや半年、森昌子でようやく一区切りがついた。その間、美空ひばり、島倉千代子、三波春夫といった戦後歌謡の大物から、都はるみ、石川さゆりといった実力派まで、毎晩寝る前に聞き続けた。
 島倉千代子の「新妻鏡」、三波春夫の「俵星玄蕃フルバージョン」(日本芸能のひとつの頂点である)、石川さゆりの「天城越え」を勝手に殿堂入りさせていただきながら、最後にたどりついたのが森昌子。1984年から86年頃の3年間のものは、自分の持ち歌も、他の歌手の持ち歌もどれもすばらしい。誇張やハッタリはないが、素直で繊細な歌唱が心にしみる。
 聴きながら頭に浮かんだのが「歌謡曲」という言葉だった。
 わたしはつねづね「演歌は日本人の心である」という言い方はおかしい、「歌謡曲は日本人の心である」というべきであると思ってきた。
 演歌と歌謡曲はどこが違うか。あのこぶしコロコロや和服に代表される演歌は、衣装から歌唱法まで、ある時代に限定された歌唱の一スタイルにすぎない。とくに小林幸子、瀬川瑛子、藤あや子、伍代夏子といったスタイルの継承者によって、1980年代以降、増幅されてきたイメージにすぎない。その後、歌謡曲が停滞してしまったために、日本の歌謡の代表のような顔をしてきただけである。
 いわば演歌とは歌謡曲の単なるサブ・ジャンルなのである。本家の歌謡曲(日本のポップス、大衆音楽)はもっとずっと許容力が大きかった。これは戦後歌謡を動画でたどってみればすぐにわかる。美空ひばりにしても、ブギからジャズやロックまで取り込みながら、新しい日本のポップスを創造し、それによって時代の抒情や風景をつむぎ続けてきた。
 その融通無碍なスタイルのうちに響く抒情にこそ、「日本の」と形容してよい音楽の姿がある。その意味では、70年代のフォーク、80年代のアイドル歌謡やニューミュージックのほうが、演歌よりはよほど日本歌謡の本道であり、日本人の心の音楽と呼ばれるべきなのである。
 今回、森昌子引退前数年の歌を聴きながら、あやまって演歌歌手に分類されることの多かった森昌子が、日本の歌謡曲の孤塁を守り続けてきたことにあらためて感銘を覚えた。フォークやポップスのヒット曲を歌っても、童謡を歌っても、いわゆる演歌を歌ってすらもことごとく歌謡曲になっている。
 その重要性に当時気付いた音楽関係者は少なかったのではないだろうか。彼らも今ならよくわかると思う。
 復活した森昌子は当初こそブランクによる歌唱力低下をいわれたが、最近の動画を見る限り声もだいぶ戻ってきたようだ。早熟の天才の晩年が困難なことは、天才の伝記を読み書きする機会が多いので、よくわかっているつもりだ。現時点ではかつてのライバル石川さゆりにも差をつけられているだろう。
 しかし日本の歌謡曲を最高のレベルで伝承できるのは、やはり森昌子しかいない。歌謡曲はすでに滅んだジャンルかもしれないが、それならそれでよい。戦前・戦後を含めた代表曲の全曲レコーディングを目標に、この天才歌手がさらに研鑽を積まれることを切に願うものである。

 

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1 コメント

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同様に感じます (おちゃのこ)
2012-12-01 04:02:29
初めまして、”おちゃのこ”と申します。
貴殿のブログ内に、森昌子に関する評価がありましたので拝見いたしました。私は、音楽そのものは大好きで幼少期から他ジャンル聞いてきましたが、演歌に関しては食わず嫌いで40年程経過し、この年(50代後半)になり、あるきっかけで森昌子を聞きファンになりました。新戸さんのおっしゃることに賛同しており、今後さらに日本の音楽、特に戦後以降について研鑽したいと興味を抱いております。また、関連記事があったら是非拝見させてください。宜しかったら私のブログものぞいて見て下さい。
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