テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

テスラーガーンズバック連続体(下)

2020-03-17 17:14:23 | Weblog
★ラルフ124C 41+

 1911年、ガーンズバックは「モダンエレクトリック」誌に、未来を舞台にした技術冒険物語の執筆を開始した。最初は誌面の穴埋めのつもりだったが、読者の熱心な要望に応えて書き継がれ、完結までに全12回に及ぶ長期連載となった。
 作中には、科学好きの読者をわくわくさせる未来的な発明が数々紹介されていた。たとえば蛍光照明、テレビ、ラジオ、プラスチック、野球の夜間ゲーム、立体映写機、ジュークボックス、液体肥料、自動販売機、睡眠学習、無線電力送信、ガラス繊維、ナイロン等(?)……。蛍光照明やラジオはいうにおよばず、その多くが尊敬するテスラの発明やアイデアに触発されたものだった。
 作品は最終的に「ラルフ124C 41+」という題名で出版され、科学冒険小説の代表作のひとつとなった。
 ガーンズバックは、読者の反響によって「ラルフ─」のような作品に需要があることに気付かされた。そこで、その手の作品を積極的に雑誌に掲載するようになった。この傾向は、彼が次に創刊した雑誌によってさらに顕著になる。
 アマチュア無線家の数は急増し、無線のマーケットはさらに拡大していた。それを見越して、ガーンズバックは1913年、二番目の雑誌となる「エレクトリカル・エクスペリメンター」誌(「モダーン・エレクトリック」誌を改題)を発刊した。
 この雑誌でガーンズバックはコラムニスト、エッセイスト、作家として、未来冒険物語「ミュンヒハウゼン男爵の新しい科学的冒険」を含む多くの文章を発表し、未来技術がもたらす社会的インパクトについて探求した。
 さらにA・A・メリットやレイ・カミングスといった人気作家の科学冒険小説で誌面を飾ったほか、ウェルズやヴェルヌの復刻作品も登場させた。後者はもっぱら著作権料節約のためだった。
 ガーンズバックはこの雑誌を通して、「ラルフ─」のような作品にふさわしい名称を採用しようとした。
 ウェルズに代表される空想的な科学小説は従来、「サイエンティフィック・ロマンス」と呼ばれてきた。それらは社会批判・文明批判を旨とし、描かれる未来も悲観的で暗いものが多かった。
 これに対して、彼が求めたのはジュール・ヴェルヌ風の明るい未来小説だった。
 二〇世紀初頭の西欧世界は、科学技術が開く新世紀への期待に満ちあふれていた。電力システム、電話、電信、無線、鉄道、汽船、自動車、航空機、合成化学、アルミニウム精錬。人々は次々と生まれる新技術・新発明に熱狂し、それらが普及した未来の姿を熱烈に知りたがった。こうした期待に沿って楽観的な未来社会を描くのが彼が求める新しい科学小説だった。それだけに従来の用語は捨てられなければならなかったのである。
 考えた末、彼が提案したのは「サイエンティフィクションscienti-fiction」という名称だった。
「サイエンティフィクション」とはなにか?
 彼の定義によれば、それは「ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、エドガー・アラン・ポーのタイプの物語……科学的事実と予言的ヴィジョンをないまぜにした魅力あるロマンス」である。
 これだけでは旧来の科学ロマンスと大差ないように思えるが、注意すべきはここで彼が強調したかったのは後半部だということである。彼の関心は科学的事実と予見技術社会の未来像そのものにあり、前半部に挙げたヴェルヌ、ウェルズ、ポーの三人彼らの小説の文学性や思想性にほとんど興味がなかった。言い換えれば、彼の「サイエンティフィクション」は、科学技術に特化した通俗小説だった。これは文学的洗練などに興味のない彼の読者の嗜好にも合致していた。
 この新語づくりにあたって大きな刺激を与えたのはやはりテスラだった。彼の未来的な発明やアイデア、ビジョンは、まさにサイエンティフィクションそのものだったからである。
 ガーンズバックはその「生きたサイエンティフィクション」に新しい文学のイメージを重ねようとして、テスラに関する情報ならなんでも載せようとした。1917年8月号には、「電気学と戦争に関するテスラの見解」と題するインタビュー記事を掲載、その中で軍事レーダーに関するもっとも早い予言を語らせている。
 原稿の執筆も依頼、これに応じて、テスラは新発明やそれに基づく予言的ビジョンを披瀝していった。とりわけ1919年の活躍はめざましかった。
 2月号には「有名な科学的幻想」、4月号と6月号には「月の回転」、5月号には「無線の真実」と立て続けに論考を発表、さらに自伝執筆の求めに応じて、同年2月号からは、唯一の自伝となる『わが発明』の不定期連載を開始した。誌面にはのちに高名なSFイラストレーターとなるフランク・R・ポールによる無線送電塔、無線動力の飛翔体などのイラストが華々しく添えられていた。
 世紀の予言者の誌面登場は、雑誌の権威を高めるとともに、無線の通販という新興ビジネスのイメージづくりにも貢献した。まさに一石二鳥だった。一方、テスラにとっても、ガーンズバックという賛美者の出現はありがたかった。
 無線送電の挫折以来、投資家の信頼を大きく損ねた発明家は、この頃、慢性的な資金不足に悩まされていた。再起の思いは強かったが、予備的な実験すらままならない状況が続いていた。そこへきて、1917年には完成目前で工事が中断していた無線送電塔が、新しい所有者の手で破壊されるという憂き目にもあった。
 それだけに、専門的意見から未来のビジョンまで、自由に意見を発表できるメディアの存在は貴重だったのである。

★サイエンス・フィクションの誕生

 自作の自雑誌掲載を機に、ガーンズバックのサイエンティフィクションへの思いはますます募っていった。その思いは、一九二三年の「サイエンス・アンド・インベンション」誌の”サイエンティフィクション特集”につながった。特集の反響は上々だったので、勢いに乗って今度は「サイエンティフィクション」というタイトルの新雑誌創刊を読者に提案した。しかしこちらの反応は余り芳しくなかった。
 そこでいったん仕切り直しをして構想を練り直すことにし、1926年、まったく別のタイトルで新雑誌創刊に踏み切った。「アメージング・ストーリィズ」。アメリカ最初の商業SF誌の誕生である。
 アメージング・ストーリイズは順調に部数を伸ばし、10年来採用してきたサイエンティフィクションという用語もようやく定着しかけた。
 だが天性のアイデアマンはそれに飽きたらず、新しい呼び名を次々に読者に提案していく。そして最終的に「サイエンス・フィクション」という名称で落ち着いたのである。もっとも何と呼ぼうと、彼が意図していた技術主体の未来小説だったことに変わりはなかったが。
「アメージング・ストーリィズ」誌創刊時、テスラはすでに七〇歳になっていた。ガーンズバックがSFに足場を移してからも、ふたりの親密な関係は続いた。そしてテスラの発明的想像力は、SF的想像力の源泉であり続けた。
 ガーンズバックにとってテスラはまたとない支援者だったが、逆に、テスラにとって彼との関わりはプラスばかりではなかった。
 エジソンやテスラを生んだ発明の英雄時代は19世紀末に終焉を迎える。20世紀、独立独歩の発明家に代わって台頭したのは大学や研究所に所属する高学歴の専門家たちだった。それによりかつて世界を震撼させた発明家たちの栄光も次第に色褪せていったのである。
 そんな中、彼らに新たな活躍の場を用意したのがサイエンス・フィクションだった。科学的想像力を重視するこの新興の文芸ジャンルの中に、彼らは天才的でアウトローな科学者──「マッドサイエンティスト」として再生したのである。
 世界を一変させる大発明を成し、時に世界征服すら夢見る異端の天才科学者。彼らの発明を軸に、次々登場する狡猾で獰猛な宇宙怪物(BEM)、必ず窮地におちいる薄着の金髪美女、それを救う力強い正義のヒーローなどが、大宇宙せましと駆けめぐる。これがスペース・オペラと呼ばれる初期サイエンス・フィクションの定番だった。
 この場合、主役のヒーローやお相手の美女は、たいてい類型的で無個性な大根役者と決まっていた。それに比べて、宇宙怪物やマッドサイエンティストなどの脇役たちは、個性がきわだつ演技派だった。中でも人間的な弱さを抱えたマッドサイエンティストは、ともすれば平板になりがちな物語に深い陰影を与える役割を果たした。
 拙著『逆立ちしたフランケンシュタイン』でも指摘したように、彼らのモデルは中世の魔術師や錬金術師であり、直接には19世紀の発明家たちだった。とりわけテスラの天才性、カリスマ性、異端性、悲劇性などは最高のモデルにふさわしかっただろう。
 しかし、こうしたイメージの浸透はテスラにとって痛しかゆしだった。通俗SFにおいては、マッドサイエンティストのイメージも通俗化せざるをえない。それによってテスラの発明もまた、殺人光線や超破壊兵器に特化され、俗化されていったからである。このことが後世、テスラの過小評価を招く一因になったことは否めない。
 まさかガーンズバックも、おのれが心血を注いだメディアが「自分の神」を貶る結果を招くとは思いもよらなかっただろう。
 とはいえそれは結果論であり、テスラはガーンズバックの存在に大いに慰められたし、ガーンズバックのテスラに対する尊敬も終生変わらなかった。
 一九四三年に発明家が亡くなると、ガーンズバックは遺骸を受け取った葬儀屋にデスマスクの制作を委託した。完成したデスマスクは、「プラクチカル・エレクトロニクス」誌に発表され、その後、ガーンズバックの事務所内に保存された。
 そして現在はベオグラードのテスラ博物館の収蔵品となっている。

★ガーンズバックの贈り物

 未来を鏡とする現代批判を旨としてきた「科学ロマンス」は、未来の国アメリカで、未来の技術風景そのものを描く「サイエンス・フィクション」へと変貌を遂げた。それを牽引したのは、移民でありながら、きわめてアメリカ的な個性をもった一人の編集者だった。
 しかし彼のアイデンティティは1930年代末には早くも崩壊してしまう。それを促したのは、MITで学んだインテリ編集者、J・W・キャンベルだった。
 文学指向の強いこの敏腕編集者のもとで、サイエンス・フィクションは、ガーンズバック的な技術楽観主義や通俗性を脱して、洗練された〈文学〉へと変貌していった。それはたしかにSFの進化ではあったが、一面では科学ロマンスへの回帰でもあっただろう。
 その後もサイエンス・フィクションは、J・バラードの「スペキュレイティヴ・フィクション」、ウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングの「サイバーパンク」、「スティームパンク」などの衝撃を受けとめ、変貌を重ねながら、より重層的な文学ジャンルへと成長を遂げていった。
 興味深いことにギブスンは1980年代に、「ガーンズバック連続体」というメタフィクション的なSF短編を著して、ガーンズバックへの多大な負債を認めた。
 むろん、サイバーパンクの旗手は、現代SFの内実が名付け親の定義から遠く隔たったことは充分に認識していた。その上で、彼の技術小説が持つ荒々しい想像力や廃墟のイメージ、人工性、神秘性などに、ハイテク時代の文学の可能性を見ようとしたのだった。
 反科学・反技術主義的な風潮に支配されていた1970年代が終わり、80年代にはコンピュータや新素材などの科学技術に再び期待と関心が集まった。その技術の行く末を見据えて、コンピュータを介して人と機械が融合する先端的で、異端的なマッドサイエンスを扱ったのがサイバーパンクの小説群だった。これとニコラ・テスラという真正マッドサイエンティストの同時代的復権は偶然ではないだろう。
 挫折した発明家ガーンズバックは、テスラを通して発明家の時代の終わりをさとった。だからこそ文学の発明を通して神々の時代の再興を夢見たのではないだろうか。私には「サイエンスティフィクション」がガーンズバックからテスラへの私的な贈り物だったように思えてならない。


〈参考文献〉
*Tesla, Nikola, My Inventions, Hart Brothers, 1982.
*Tesla,Nikola, Famous Scientific Illusions, Electrical Experimenter, February 1919
*Tesla,Nikola, The Moon's Lotation, Electrical Experimenter, April,June 1919
*Tesla,Nikola, The True Wireless, Electrical Experimenter, May 1919

テスラ─ガーンズバック連続体(上)

2020-03-15 11:23:24 | Weblog
この文章は2006年神奈川県川崎市で開催された「テスラ生誕150年記念イベント」のプレ・イベントとして東京で開催した「テスラ記念講座全3回」(講師:新戸雅章)の第3回「テスラーガーンズバック連続体」の原稿に若干の手入れを施して掲載するものです。

テスラ─ガーンズバック連続体


                    新戸雅章

 もし真に発明した人間を意図しているなら、言い替えればーー他の人間によってすでに発明されていたものをたんに改良しただけでなくーー発明し、発見した人間を意図しているなら、疑いなく、ニコラ・テスラは現代の最大のというだけでなく歴史上最大の発明家である……彼の革新的であるばかりでなく基本的な発見は、まったく大胆で、知的世界の歴史において並ぶものがない。
           ――ヒューゴー・ガーンズバック


 天才の栄光と悲惨を一身に背負ったニコラ・テスラの生涯はつねにわたしたちを魅了してやまないが、近年は科学や発明におけるヒーローとして、またマッド・サイエンティストのモデルとして、メディアや文化に対する影響力の大きさでも注目を浴びている。
 テスラの文化的影響のひとつに、サイエンス・フィクションの起源との関係がある。彼が文化ヒーローとして、このもっともアメリカ的な文芸ジャンルの成立に果たした役割は想像以上に大きい。
 よく知られているように、世界最初の商業SF誌は一九二六年、アメリカ在住の編集者ヒューゴー・ガーンズバックによって創刊された「アメージング・ストーリィズ」誌である。この業績によってガーンズバックは「アメリカSFの父」と呼ばれるようになった。
 一八八四年、東欧に生まれたガーンズバックは、発明家になる夢を胸に新大陸の土を踏んだ。しかし発明家として一定の成功をおさめたあとは事業家に転身、ラジオの通販業と通俗科学雑誌の発行で大成功をおさめた。その後、自分の発行する電気技術雑誌に連載した未来技術小説が好評だったため、その種の作品を積極的に掲載していった。
 これを小説に特化・発展させて創刊されたのが「アメージング・ストーリィズ」であり、サイエンス・フィクションという名称もこの雑誌でガーンズバックが初めて採用したものである。
 のちに考察するように、このサイエンス・フィクション誕生において、テスラの発明的・技術的な想像力が果たした役割は大きかったが、その関係を支えたのが、ガーンズバックのテスラに対する終生変わらぬ尊敬の念だった。
 アメリカでの初対面以来、テスラのカリスマ性に心酔したガーンズバックは、未来技術に対する彼の予言的ビジョンを積極的に紹介していった。そこから生まれた未来のイメージは一九一〇年代、二〇年代のアメリカSF草創期における重要な支柱のひとつになっていった。
 だが、こうした視点は近年までSF史家の考察からもほぼ抜け落ちていた。わたしはこの論点を、拙著『逆立ちしたフランケンシュタイン』や「ワールドコン(世界SF大会)2007」の基調報告のために準備した論稿(「テスラーガーンズバック連続体」)などで指摘してきたが、充分に展開できたとはいいがたい。
 そこでこの際、世紀末の天才発明家と彼を終生信奉した出版者の交流を通じて、ひとつのメディアの成立過程をあらためて考察してみようというわけである。
 まずは、SFというジャンルの成立に多大な貢献をしながら、意外に知られていないガーンズバックという人物の追跡から初めてみよう。

★ガーンズバック

 ヒューゴー・ガーンズバックは1884年、ルクセンブルグの比較的裕福な酒造業者の家に生まれた。
 少年時代のガーンズバックが強い興味を示したのが電気だった。きっかけは子供の頃、電気回路の端子から飛び出す緑色の火花に魅了されたことだった。経済的に恵まれた少年は、部品をパリの電気店からカタログ注文して電気の実験に熱中したという。この経験は、のちの通販業者としての成功のカギとなったと思われる。
 電気とともにガーンズバックを夢中にさせたのが、最新の科学や天文学の知識だった。
 10歳の頃、彼はアメリカの天文学者パーシバル・ローウェルの著書の翻訳で、火星生命についての記述に初めて遭遇した。すっかり魅了されたガーンズバックは、昼も夜も火星の生命と文明について考え続けたという。これはのちのSFとの出会いに導く重要な体験となった。
 基礎教育を終えたのち、彼はブリュッセルの寄宿学校に入学した。ここで英語を習得したことが、のちの作家、編集者、出版者としてのキャリアに役立った。またマーク・トウェインの著作を読んで、新大陸へのあこがれをかきたてられたという。
 ドイツのビンゲン工科大学に学んだガーンズバックは。その三年目、高電流の積層乾電池と小型の火花間隙式無線送信機を設計した。これを商品化して発明家として身を立てるべく1904年、新大陸の土を踏んだ。
 ニューヨークで電池の特許を申請したガーンズバックは早速、その売り込みに奔走した。だが意に反して結果ははかばかしくなかった。彼の電池は高性能な反面、生産コストが高く、大量生産には向かなかったのである。
 ある自動車部品業者と電池の製造契約を結んだものの、その後は恐慌の影響もあって、事業は廃業に追い込まれてしまった。こうして本命の電池では挫折したが、もうひとつの小型無線機が彼を思いがけない成功に導いた。
 20世紀初頭のアメリカは発明ブームに湧いていた。なかでも発明マニアや科学少年の夢を激しくかきたてていたのが、草創期の無線電信やラジオだった。
 19世紀末、テスラ、ポポフ、ロッジらによって基礎技術がつくられた無線電信は、1901年のマルコーニの大西洋横断無線電信の成功を機に、実用化に大きく踏み出していた。とはいえ、当時の無線機は数万ドルもする高価な商用機に限られ、一般の愛好者には文字通り高嶺の花だった。
 ガーンズバックは自分の設計に従えば、はるかに安価な無線機が製造可能だと信じていた。ところが、いざ着手してみると意外な壁に突き当たった。
 それはニューヨーク周辺には無線機器の販売店がなく、必要な電気部品の入手が困難だということだった。このとき、脳裏によみがえったのが、通販を利用して部品を購入していた子供の頃の思い出だった。早速、ヨーロッパへ部品を発注しながら、ガーンズバックは新しいビジネスのアイデアを思いついていた。
 それは電気や無線部品を輸入・販売する通販会社の設立だった。無線機の自作を試みる科学マニアは全米に少なからず存在し、自分と同様、部品の入手の問題で悩んでいるだろうと読んだのである。

★巧妙なメディア戦略

 待望の新型無線機は、この新会社から「テリムコ無線電信機」の名で発売された。価格は受信機付きで八ドル五〇セント。破格の安さに最初はインチキや詐欺を疑う声も出たが、やがて本物だとわかると、爆発的な売れ行きを示すようになった。
 こうして無線機事業は大成功を収め、あわせて通販事業の方も順調に拡大していった。このまま彼が発明に打ち込んでいれば、発明家としての成功も夢ではなかったかもしれない。
 しかし実際にはそうはならなかった。幸か不幸か彼の頭にはビジネスのアイデアもまた湧きだしていたため、それにかかわって発明のアイデアを熟成させるひまがなかったのである。
 そのビジネスマン・ガーンズバックが次に目をつけたのが、技術的知識の啓蒙を通して幅広い客層を開拓することだった。
 もともと彼の通販カタログには、技術記事がコラム的に掲載されていた。これを徐々に拡大していき、1908年4月には、電気と無線の技術雑誌「モダーン・エレクトリック」誌の創刊にこぎつけた。
 価格は一部10セント。内容は無線のハウツー記事、特許情報、無線に関するニュースなど、アマチュア無線家にとって有益な情報が満載されていた。この雑誌で、ガーンズバックは出版者、編集者、ライターから宣伝担当まで兼務した。
 ガーンズバックが次に打った販売戦略は、無線愛好家のネットワークづくりだった。そのため、無線機の所有者名、コールサイン、装置などのデータを列記した「無線紳士録」を作成、これを雑誌に掲載した。さらに無線愛好家の全米組織である「アメリカ無線協会(WADA)」も立ち上げた。ここに現在のアマチュア無線の基礎がつくられたのである。
 強固なマーケットに支えられたガーンズバックの雑誌の販売部数は、1915年には40万部以上にのぼった。並行して電気輸入会社の売り上げも倍増していった。メディアを利用してブームをあおり、その風に乗って売り上げを伸ばす。まさにマーケッティングの勝利だった。
 こうしてガーンズバックは、現代に通じる通販ビジネスの開拓者となった。技術の将来性を見透して、新しいビジネスモデルを立ち上げたという点では、現代のビル・ゲイツやジェフ・ベゾスにも通じる才能といってよいだろう。

★テスラという神
 
 ガーンズバックが通販ビジネスを拡大する上で、採用した戦略がもうひとつあった。それは無線界の大物たちとのコネクションづくりである。
 発明王エジソン、「電気の魔術師」テスラ、大西洋横断無線通信のマルコーニ、無線電話のフェッセンデン。無線技術の基礎を築いたこれら大発明家たちは、無線愛好家たちにとっては文字通り神であり、生きた伝説だった。
 その思いをよく知るかつての無線少年は、彼らを誌面に登場させるべく手紙攻勢を仕掛けた。
 エジソンの場合には実際に研究所を訪問し、その折り、わき出るようなアイデアを語り続けて、初老の発明家を疲労困憊させたという逸話が残されている。こうしたコネクションは雑誌の読者確保と権威付けに役立っただけでなく、アメリカ無線協会の設立に際しても大きな力となった。
 だが、ガーンズバックがとりわけ心酔し、深い絆で結ばれた発明家はテスラだった。
 子供の頃から憧れていたテスラの魔術師的な雰囲気は、ガーンズバックの中でつねに電気の持つ神秘的な魅力と重なっていた。しかしそれ以上に、彼にはテスラに強い親近感を抱く理由があった。
 それは渡米前までのふたりの出自と足跡だった。テスラの出身は当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国(現クロアチア共和国)、一方、ガーンズバックはルクセンブルグ。ともに東欧出身だった。
 幼い頃から科学に強い関心をもち、技術教育を受け、発明家を夢見て新大陸の土を踏んだのも同じだった。マーク・トウェインの著作によって、アメリカへの夢を育んだというのも共通していた。
 片や発明家として大成功し、片やビジネスに転じて成功したという違いはあるにしても、強いシンパシーを抱く理由は揃っていたのである。
 そのガーンズバックが憧れのアイドルと初めて会ったのは、渡米から4年後の1908年のことだった。そのカリスマ性に深い感銘を受けた編集者は、のちにその思い出を次のように記している。

「・・・・・・あなたは高次の人間性と対面していることにすぐ気づくだろう。ニコラ・テスラは進み出て、六〇歳を超える年齢とは思えない力で力強く手を握る。異常に深い眼窩の奧にある淡いブルーグレイの瞳で射るように見つめながら、人を惹きつける微笑であなたを魅惑し、たちまちくつろいだ気分させてくれる」(「エレクトリカル・エクスペリメンター」1919年)

 この会見以降、ガーンズバックのテスラ熱はますます高じ、自分の雑誌にテスラの業績やアイデア、発明に関するニュースなどを積極的に紹介するようになった。
 この熱がやがて彼を新しい文芸ジャンルの開拓者へと導いていったのだろう。
                                                               (続く)