テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

一二三の「うひょー」①

2011-08-28 22:41:48 | Weblog

 それは今から30年ほど前、千駄ヶ谷の将棋会館に出かけたときのことである。当時から将棋には興味があったが、そのときの用件は将棋とは無関係だったと記憶している。
 用がすんで玄関を出たところで、向こうから歩いてくる中年男に気付いた。たったったっと、早足で歩いてくる。丸みを帯びたからだから、すぐに加藤一二三氏だとわかった。
 明らかに常人とはオーラが違う。近づいてくるにつれて、体内からブンブンというダイナモの唸りが聞こえるような気がした。あまりのエネルギーに、思わず道をあけてしまった。
「あれが神武以来の天才か。たしかにすごいもんだな」
 わたしは後ろ姿を見送りながらつぶやいていた。

 加藤一二三氏は1940年生まれで、現在、71歳、段位は9段。最近は猫のえさやりとか、長すぎるネクタイとか、対局中に音がうるさいからと、庭の滝をとめさせたとか、奇癖、奇行ばかりが取り上げらているが、かつては「神武以来の天才」とよばれ、名人位にもついた大棋士である。18歳でA級8段、19歳で名人挑戦という記録は今も破られていない。
 名人に初挑戦した当時は大山康晴名人の全盛時代で、善戦むなしく1勝4敗で斥けられたが、いずれは大山を倒して棋界の覇者になると誰もが信じていたものだった。
 ところが大名人の牙城をなかなか崩せないうちに、7歳下の後輩で、「棋界の太陽」と呼ばれる中原誠が台頭、24歳で名人の座についてしまった。
 神武以来の天才は、次代のエースに「華麗にスルー」されてしまったわけである。
 気を取り直して、今度は若き覇者に挑戦するもどうしても勝てない。十段位など他のタイトルは獲得したが、一番ほしい名人がどうしても手に入らないのである。
 わたしが見かけたのはたしかこの頃だったと思う。あれほどの天才、あれほどのエネルギーがをもってしても、名人位には手がとどかないのか……。勝負の世界の厳しさと奥深さを感じたものだった。
 中原に名を成さしめているうちに、かつての若武者も30代半ばを過ぎ、40の坂を超えた。普通ならこれでめげてしまうところだが、「生まれてから一度も風邪を引いたことがない」加藤は違った。昼食には鰻重、おやつには明治の板チョコを2枚重ねでばりばり食べながら、空打ちの駒音も高く闘志あふれる将棋を指し続けた。そして42歳にして、ついに大舞台がめぐってきた。

 迎えて1982年。この年、加藤はA級順位戦を勝ち抜き、見事第40期名人戦の挑戦権を獲得したのである。
 戦前の予想は中原名人の圧倒的有利。これは当然だろう。このとき中原34歳。名人8期連続防衛を果たし、永世名人の称号も獲得するなど絶頂期あった。
 片やどんな大棋士も棋力の衰えを感じる40を超えたベテラン。
 しかし勝負はふたを開けてみなければわからない。対局が始まると両者互いに譲らず、ひとつの千日手、ひとつの持将棋をはさんで3勝3敗と、9局目にもつれこんでもまだ決着がつかない。文字通りの死闘だった。
 そして迎えた10局目、ここでも指し直し後、ついに女神が加藤にほほえむ時がきた。難解な終盤。最後に詰みを発見した加藤の口から出た叫びが、

「うひょー」

 伝統の名人戦で、歓声をあげるなど不謹慎だという声もあった。しかしそれは、名人の重みを誰よりもよく知る大棋士の心からの叫びだったにちがいない。