テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

★足芸「葛の葉」の思い出

2005-09-29 22:53:51 | Weblog
 子供の頃、遊行寺(時宗総本山)の境内で見たサーカスの中に不思議な演目があった。いわゆる足芸なのだが、中年の女性が寝転がって足の裏に障子を載せて立てる。そこに着物姿の若い女性が飛び乗り、あやういバランスを保つ障子に口に加えた筆で見事な文字を書くのである。
 最後に障子の裏側に回ってきつねに変身すると、そのまま障子ごと空中高く舞い上がる。
 文字は何と書いたか、どういう意味なのかもまったくわからなかったが、他の演目にはない怪しい雰囲気と、女性の思いつめたような恐ろしい形相が強く心に焼きついた。いっしょにいった家族の者がいたく感心して、「あれは「くずのは」だよ、「くずのは」」といっていたのも覚えている。
 その後、昔、近所にサーカスが来てといった話しになると、なぜかそのシーンが真っ先に思い浮かんだ。ただ、「くずのは」がどういうものなのかはわからなかった。
 謎が解けたのは、数年前に遊行寺にお招きした三代目若松若太夫の説教節を聞いてからだった。説教節の演目に「葛の葉」というのがあることは知っていたが、実際に聞いてみて、あの足芸が説教節の一場面を再現したものだとようやくわかったのである。
 足芸の女性が書いた文字も理解できた。「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」。幼いわが子を置いて森に帰らねばならない母狐の悲痛を歌った有名な一首である。
 そうとわかってかの日の足芸を振り返れば、なんと奥深い芸だったことか。
 歌舞伎の「葛の葉」の舞台は観たことがないが、障子に和歌を書いて姿を消す場面があるそうだから、イメージは多分そこから借りたのだろう。くわえた筆で和歌を書くところから、狐になって舞い上がるまで、見事に構成された演出は日本の伝統芸能の深行きさえ感じさせる。まさに「アレグリア」も真っ青である。
 最近のサーカスの状況はよく知らないが、あの足芸は今もどこかで受け継がれているのだろうか。もし、他の伝統芸能と同様、すたれてしまったとしたらなんとも惜しいことだ。
 どこかで見たことがあるという人がいれば、ぜひ情報をいただきたいものである。 ――と、ここまで書いてインターネットで検索してみたら、70年以上にわたって上演されてきた木下サーカスのお家芸だということがわかった。(「川北新報」記事から)。そうそう子供の頃に観たのはたしか木下サーカスだった。
 ベテラン団員の退団などから10年ほど途絶えていたことが、昨年の創立100周年を機に若手によって復活したこともわかった。これはよかった。
 説経節の縁もあることだし、機会があればぜひ生の足芸「葛の葉」に再会したいものだ。


★テスラと縁があった日本人(2)木村駿吉

2005-09-29 01:04:57 | Weblog
 1902年、海軍無線電信調査委員会の木村駿吉は、欧米の無線事情を調査するため米国にわたり、テスラのマンハッタンの研究所を訪問した。当時、テスラはニューヨーク郊外のワーデンクリフに大無線塔を建設し、「世界システム」の実現に向かって第一歩を踏み出したところだった。
 研究所を訪れた木村に、テスラは巨大なテスラコイルを使ったデモンストレーションを見せて、無線送電に比べれば、無線電信などとるに足らないと笑ったそうである。
 木村の訪米の目的はあくまでも無線電信の調査にあったので、無線送電を強調するテスラに失望して研究所をあとにしたという。
 この調査を通して、木村は自分たちの研究レベルに自信をもち、独力で無線装置を製作しようと決意した。そして努力の末、ついに日本独自の無線機の開発に成功するのである。
 哨戒艦「信濃丸」に搭載された彼の三六式無線機は、バルチック艦隊の発見を伝える有名な「敵艦見ユ」の第一報を打電した。連合艦隊勝利の報に接した木村は、床に跪いて合掌し、神に感謝したという。
 ちなみに木村の父は、咸臨丸の提督として勝海舟や福沢諭吉とともに太平洋を渡った海軍奉行木村摂津守喜毅。兄は日清戦争の黄海海戦で活躍した木村浩吉大尉(のち少将)と、まさに海軍一家だった。

★藤沢で盆踊り

2005-09-25 13:23:51 | Weblog
 23日は地元藤沢で盆踊りイベント「藤沢宿と遊行の盆」のお手伝い。来年の町おこしの一環として行われる全国盆踊り大会のプレ・イベントだが、好天にもめぐまれ主催者の予想を上回る盛況となった。
 盆踊りが藤沢にゆかりの深い芸能だというのは案外知られていない。盆踊りのルーツは時宗開祖一遍上人が創始した踊り念仏にあるとされている。藤沢には時宗の総本山である遊行寺(清浄光寺)があり、藤沢の町はその門前町に始まり、江戸時代に東海道五十三次の宿駅として発展したのである。
 しかも踊り念仏が布教の手段としてはじめて大々的に取り上げられたのは、同じ藤沢市内の片瀬の浜である。
 北条時宗によって鎌倉入りを拒まれた一遍は、片瀬の地に4カ月半逗留し、その間に踊り屋を組み、尼僧を含む僧たちがその上で踊った。それを見たさに近郷近在からたくさんの人が集まり、大変なにぎわいを見せたという。(参考「盆踊りの世界」
 そんな縁で商工会議所を中心に藤沢で盆踊り大会をという話が盛り上がったのである。わたしも遊行寺を中心とした文化・芸能活動を推進する「遊行フォーラム」(高野修実行委員長、高須譜生事務局長)の実行委員をしている関係で、企画の立ち上げ段階からかかわった。
 最終的には、全国の盆踊りのうち、踊り念仏の古いかたちを残すものや、地味だが味わいの深いものを中心に招致するとともに、遊行寺に保存されている「踊り念仏」をもとにした創作盆踊りを立ち上げるという2本柱でいくことになった。
 後者は「遊行舎」の白石征氏がリーダーになって専門家を結集し、わたしもお手伝させていただくことになった。まだ、どうなるかわからないが、関係者・市民の期待も大きいのでなんとかよいかたちになればと思っている。
 これまで藤沢の文化活動では、地元の歴史や文化がなおざりにされるきらいがあった。根っからの藤沢っ子として、盆踊りがその突破口になればと期待している。

★テスラと縁があった日本人(1)八木秀次

2005-09-24 00:06:26 | Weblog
 第二次世界大戦中の1942年春、シンガポールを占拠した日本軍はその占獲兵器の中に見慣れない装置を見つけた。敵方の説明で、それが当時日本軍が「電探」(電波探知機)と呼んでいたレーダーだということはわかった。だがわからないのは、押収した操作マニュアルを読んでいたにひんぱんに登場する「YAGI」という言葉だった。敵のレーダー手に訊問すると、このアンテナをつくった八木という日本人を知らないのかとあきれられたという。
 レーダーの重要性を理解していなかった日本軍のお粗末さをあらわすエピソードとしてよく引用される話である。
 1925年、八木秀次によって発明されたアンテナは、高利得なうえに、指向性が非常に強かったため、「指向アンテナ」とも呼ばれた。この成果は欧米の研究者の注目をひいたが日本ではほとんど無視され、研究もそれ以上進まなかった。
 その間に英米の研究者がこれをレーダーに応用し、「八木アンテナ」(ヤジ・アンテナと発音された)の名まで与えた。そしてこれが、第二次世界大戦の勝利の帰趨を決する重要技術となったのである。
 戦後、八木アンテナはテレビ用のアンテナとして脚光を浴び、世界中の家庭に普及した。現在でもこれ以上に優秀なテレビ・アンテナはまだ見つかっていない。
 八木秀次は1886年、大阪の札差(ふださし)の三男として生まれた。若いころは内気な文学青年タイプだったが、理科を選び、東京帝国大学電気工学科にはいった。卒業後、仙台工業高校の講師になり、東北帝国大学工学部のスタートとともに教授に昇格した。
 八木は怜悧な頭脳と広範な学識を誇り、歯に衣を着せぬ発言も多かったため、敵もたくさんつくった。しかし本心は優しく、同僚や後輩を思いやる気持も強かった。これは彼のもとから優れた研究者が数多く育ったことからも証明される。
 八木はテスラを尊敬し、1926年にはテスラの無線送電の可能性について講演も行っている。彼は日本における無線操縦技術のパイオニアでもあったが、この分野でもテスラを偉大な先駆者と認めていた。
 八木アンテナの原理は共振にあり、共振を発明のキーワードとしたテスラとはこの点でも縁が深い。

★木村多江は決まっているんですけどね

2005-09-14 22:27:15 | Weblog
 先週末は地元藤沢で芝居ざんまい。テスラ関係の原稿も書けず、テスラ講座の準備もできませんでした。ようやく復帰しました。
 ところでテスラの芝居、もしくはドラマをつくるとして配役はだれがいいでしょうか。
 美貌のピアニスト、マーガレット・メリントンは木村多江で決まっているんですけどね。(笑)肝腎のテスラがね。長身で、ハンサムで、知的、多少エキセントリックな雰囲気もあって、となると。阿部寛、沢村一樹、村上弘明、加藤雅也あたりが候補になるのでしょうが、どうもひと味足りません。
 ウェスティングハウスは西田敏行、エジソンは竹中直人、J・P・モルガンは塩見三省、マーク・トウェインは伊東四朗でどうでしょう。
 テスラの両親は上川隆也と森口瑤子、親友のジョンソンは佐々木蔵之介、ジョンソン夫人は羽田美智子あたりなら文句はありません。アン・モルガンは西田尚美か。女優は脇役オンパレードだな・・・・・・。
 まあ、そんな妄想をめぐらせながら、講座で披露する写真を整理しております。

★わたしとテスラ(3)

2005-09-04 19:14:40 | Weblog
 テスラ伝記に革新をもたらしたマーガレット・チェニーの著書(邦題「テスラ:発明王エジソンを超えた偉才」)は1981年に刊行された。1980年代、アメリカを中心に起こったテスラ再評価(いわゆるテスラ・ルネッサン)の気運はこの著書がきっかけとなった。
 若い頃からテスラの研究を志したチェニーは、半生をかけてその生涯を調べ上げ、ようやく上梓したのが本書である。
 ハードカバー版の存在は書誌で見て知っていたが、なぜか注文しそこねていた。紀伊國屋書店に出ていたのはそのペーパーバック版だった。
 早速入手して読んでみたが、その内容はかなり衝撃的なものだった。特にオニールに対する批判が鮮烈だった。オニールはピューリッツァ賞も授賞した著名なジャーナリストであるが、チェニーによればその著書には大きく3つの欠点があった。
 ひとつは著者の年齢や健康の問題から書き急いだため、事実誤認がかなりあること。ふたつめはソースを提示していないこと。三つめは、根拠のないオカルト的なエピソードを散りばめて、無用な評価の混乱を招いたことである。
 ジャーナリストらしくあくまでも資料に基づいて謎を追求するチェニーの文章には、オニールにはない説得力があった。とくに感銘を受けたのがテスラの秘密文書の追求だった。
 その秘密文書とはテスラの究極兵器(殺人光線、テスラシールド)に関するもので、テスラの生前はホテルの私金庫に秘蔵されており、米ソのスパイがそれを狙って暗躍していた。彼の死後、何者かによって盗みだされ、戦後は旧ソ連にわたってすでに実験が行われている。一方、アメリカの情報機関も入手し、極秘裏に研究を進めている、とされていた。そのような陰謀の核となる文書として、テスラファンやオカルティストの間では有名だったが、その真偽が解明されたことはなかった。
 チェニーはこの文書の行方に徹底的に追求し、ついにその所在を突き止めた。詳しくは彼女の著書で確認してもらうとして、このような地道な努力によって伝説の真実解明は大きく前進した。その他、数多くの点で画期的な発見が含まれていた。
 これによって私もようやくテスラの生涯の全体像をつかむことができ、多くの疑問点も解決した。しかし、それと同時に、読むほどに新たな疑問も湧いてきた。(この項続く)