テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

テスラ─ガーンズバック連続体(上)

2020-03-15 11:23:24 | Weblog
この文章は2006年神奈川県川崎市で開催された「テスラ生誕150年記念イベント」のプレ・イベントとして東京で開催した「テスラ記念講座全3回」(講師:新戸雅章)の第3回「テスラーガーンズバック連続体」の原稿に若干の手入れを施して掲載するものです。

テスラ─ガーンズバック連続体


                    新戸雅章

 もし真に発明した人間を意図しているなら、言い替えればーー他の人間によってすでに発明されていたものをたんに改良しただけでなくーー発明し、発見した人間を意図しているなら、疑いなく、ニコラ・テスラは現代の最大のというだけでなく歴史上最大の発明家である……彼の革新的であるばかりでなく基本的な発見は、まったく大胆で、知的世界の歴史において並ぶものがない。
           ――ヒューゴー・ガーンズバック


 天才の栄光と悲惨を一身に背負ったニコラ・テスラの生涯はつねにわたしたちを魅了してやまないが、近年は科学や発明におけるヒーローとして、またマッド・サイエンティストのモデルとして、メディアや文化に対する影響力の大きさでも注目を浴びている。
 テスラの文化的影響のひとつに、サイエンス・フィクションの起源との関係がある。彼が文化ヒーローとして、このもっともアメリカ的な文芸ジャンルの成立に果たした役割は想像以上に大きい。
 よく知られているように、世界最初の商業SF誌は一九二六年、アメリカ在住の編集者ヒューゴー・ガーンズバックによって創刊された「アメージング・ストーリィズ」誌である。この業績によってガーンズバックは「アメリカSFの父」と呼ばれるようになった。
 一八八四年、東欧に生まれたガーンズバックは、発明家になる夢を胸に新大陸の土を踏んだ。しかし発明家として一定の成功をおさめたあとは事業家に転身、ラジオの通販業と通俗科学雑誌の発行で大成功をおさめた。その後、自分の発行する電気技術雑誌に連載した未来技術小説が好評だったため、その種の作品を積極的に掲載していった。
 これを小説に特化・発展させて創刊されたのが「アメージング・ストーリィズ」であり、サイエンス・フィクションという名称もこの雑誌でガーンズバックが初めて採用したものである。
 のちに考察するように、このサイエンス・フィクション誕生において、テスラの発明的・技術的な想像力が果たした役割は大きかったが、その関係を支えたのが、ガーンズバックのテスラに対する終生変わらぬ尊敬の念だった。
 アメリカでの初対面以来、テスラのカリスマ性に心酔したガーンズバックは、未来技術に対する彼の予言的ビジョンを積極的に紹介していった。そこから生まれた未来のイメージは一九一〇年代、二〇年代のアメリカSF草創期における重要な支柱のひとつになっていった。
 だが、こうした視点は近年までSF史家の考察からもほぼ抜け落ちていた。わたしはこの論点を、拙著『逆立ちしたフランケンシュタイン』や「ワールドコン(世界SF大会)2007」の基調報告のために準備した論稿(「テスラーガーンズバック連続体」)などで指摘してきたが、充分に展開できたとはいいがたい。
 そこでこの際、世紀末の天才発明家と彼を終生信奉した出版者の交流を通じて、ひとつのメディアの成立過程をあらためて考察してみようというわけである。
 まずは、SFというジャンルの成立に多大な貢献をしながら、意外に知られていないガーンズバックという人物の追跡から初めてみよう。

★ガーンズバック

 ヒューゴー・ガーンズバックは1884年、ルクセンブルグの比較的裕福な酒造業者の家に生まれた。
 少年時代のガーンズバックが強い興味を示したのが電気だった。きっかけは子供の頃、電気回路の端子から飛び出す緑色の火花に魅了されたことだった。経済的に恵まれた少年は、部品をパリの電気店からカタログ注文して電気の実験に熱中したという。この経験は、のちの通販業者としての成功のカギとなったと思われる。
 電気とともにガーンズバックを夢中にさせたのが、最新の科学や天文学の知識だった。
 10歳の頃、彼はアメリカの天文学者パーシバル・ローウェルの著書の翻訳で、火星生命についての記述に初めて遭遇した。すっかり魅了されたガーンズバックは、昼も夜も火星の生命と文明について考え続けたという。これはのちのSFとの出会いに導く重要な体験となった。
 基礎教育を終えたのち、彼はブリュッセルの寄宿学校に入学した。ここで英語を習得したことが、のちの作家、編集者、出版者としてのキャリアに役立った。またマーク・トウェインの著作を読んで、新大陸へのあこがれをかきたてられたという。
 ドイツのビンゲン工科大学に学んだガーンズバックは。その三年目、高電流の積層乾電池と小型の火花間隙式無線送信機を設計した。これを商品化して発明家として身を立てるべく1904年、新大陸の土を踏んだ。
 ニューヨークで電池の特許を申請したガーンズバックは早速、その売り込みに奔走した。だが意に反して結果ははかばかしくなかった。彼の電池は高性能な反面、生産コストが高く、大量生産には向かなかったのである。
 ある自動車部品業者と電池の製造契約を結んだものの、その後は恐慌の影響もあって、事業は廃業に追い込まれてしまった。こうして本命の電池では挫折したが、もうひとつの小型無線機が彼を思いがけない成功に導いた。
 20世紀初頭のアメリカは発明ブームに湧いていた。なかでも発明マニアや科学少年の夢を激しくかきたてていたのが、草創期の無線電信やラジオだった。
 19世紀末、テスラ、ポポフ、ロッジらによって基礎技術がつくられた無線電信は、1901年のマルコーニの大西洋横断無線電信の成功を機に、実用化に大きく踏み出していた。とはいえ、当時の無線機は数万ドルもする高価な商用機に限られ、一般の愛好者には文字通り高嶺の花だった。
 ガーンズバックは自分の設計に従えば、はるかに安価な無線機が製造可能だと信じていた。ところが、いざ着手してみると意外な壁に突き当たった。
 それはニューヨーク周辺には無線機器の販売店がなく、必要な電気部品の入手が困難だということだった。このとき、脳裏によみがえったのが、通販を利用して部品を購入していた子供の頃の思い出だった。早速、ヨーロッパへ部品を発注しながら、ガーンズバックは新しいビジネスのアイデアを思いついていた。
 それは電気や無線部品を輸入・販売する通販会社の設立だった。無線機の自作を試みる科学マニアは全米に少なからず存在し、自分と同様、部品の入手の問題で悩んでいるだろうと読んだのである。

★巧妙なメディア戦略

 待望の新型無線機は、この新会社から「テリムコ無線電信機」の名で発売された。価格は受信機付きで八ドル五〇セント。破格の安さに最初はインチキや詐欺を疑う声も出たが、やがて本物だとわかると、爆発的な売れ行きを示すようになった。
 こうして無線機事業は大成功を収め、あわせて通販事業の方も順調に拡大していった。このまま彼が発明に打ち込んでいれば、発明家としての成功も夢ではなかったかもしれない。
 しかし実際にはそうはならなかった。幸か不幸か彼の頭にはビジネスのアイデアもまた湧きだしていたため、それにかかわって発明のアイデアを熟成させるひまがなかったのである。
 そのビジネスマン・ガーンズバックが次に目をつけたのが、技術的知識の啓蒙を通して幅広い客層を開拓することだった。
 もともと彼の通販カタログには、技術記事がコラム的に掲載されていた。これを徐々に拡大していき、1908年4月には、電気と無線の技術雑誌「モダーン・エレクトリック」誌の創刊にこぎつけた。
 価格は一部10セント。内容は無線のハウツー記事、特許情報、無線に関するニュースなど、アマチュア無線家にとって有益な情報が満載されていた。この雑誌で、ガーンズバックは出版者、編集者、ライターから宣伝担当まで兼務した。
 ガーンズバックが次に打った販売戦略は、無線愛好家のネットワークづくりだった。そのため、無線機の所有者名、コールサイン、装置などのデータを列記した「無線紳士録」を作成、これを雑誌に掲載した。さらに無線愛好家の全米組織である「アメリカ無線協会(WADA)」も立ち上げた。ここに現在のアマチュア無線の基礎がつくられたのである。
 強固なマーケットに支えられたガーンズバックの雑誌の販売部数は、1915年には40万部以上にのぼった。並行して電気輸入会社の売り上げも倍増していった。メディアを利用してブームをあおり、その風に乗って売り上げを伸ばす。まさにマーケッティングの勝利だった。
 こうしてガーンズバックは、現代に通じる通販ビジネスの開拓者となった。技術の将来性を見透して、新しいビジネスモデルを立ち上げたという点では、現代のビル・ゲイツやジェフ・ベゾスにも通じる才能といってよいだろう。

★テスラという神
 
 ガーンズバックが通販ビジネスを拡大する上で、採用した戦略がもうひとつあった。それは無線界の大物たちとのコネクションづくりである。
 発明王エジソン、「電気の魔術師」テスラ、大西洋横断無線通信のマルコーニ、無線電話のフェッセンデン。無線技術の基礎を築いたこれら大発明家たちは、無線愛好家たちにとっては文字通り神であり、生きた伝説だった。
 その思いをよく知るかつての無線少年は、彼らを誌面に登場させるべく手紙攻勢を仕掛けた。
 エジソンの場合には実際に研究所を訪問し、その折り、わき出るようなアイデアを語り続けて、初老の発明家を疲労困憊させたという逸話が残されている。こうしたコネクションは雑誌の読者確保と権威付けに役立っただけでなく、アメリカ無線協会の設立に際しても大きな力となった。
 だが、ガーンズバックがとりわけ心酔し、深い絆で結ばれた発明家はテスラだった。
 子供の頃から憧れていたテスラの魔術師的な雰囲気は、ガーンズバックの中でつねに電気の持つ神秘的な魅力と重なっていた。しかしそれ以上に、彼にはテスラに強い親近感を抱く理由があった。
 それは渡米前までのふたりの出自と足跡だった。テスラの出身は当時のオーストリア=ハンガリー二重帝国(現クロアチア共和国)、一方、ガーンズバックはルクセンブルグ。ともに東欧出身だった。
 幼い頃から科学に強い関心をもち、技術教育を受け、発明家を夢見て新大陸の土を踏んだのも同じだった。マーク・トウェインの著作によって、アメリカへの夢を育んだというのも共通していた。
 片や発明家として大成功し、片やビジネスに転じて成功したという違いはあるにしても、強いシンパシーを抱く理由は揃っていたのである。
 そのガーンズバックが憧れのアイドルと初めて会ったのは、渡米から4年後の1908年のことだった。そのカリスマ性に深い感銘を受けた編集者は、のちにその思い出を次のように記している。

「・・・・・・あなたは高次の人間性と対面していることにすぐ気づくだろう。ニコラ・テスラは進み出て、六〇歳を超える年齢とは思えない力で力強く手を握る。異常に深い眼窩の奧にある淡いブルーグレイの瞳で射るように見つめながら、人を惹きつける微笑であなたを魅惑し、たちまちくつろいだ気分させてくれる」(「エレクトリカル・エクスペリメンター」1919年)

 この会見以降、ガーンズバックのテスラ熱はますます高じ、自分の雑誌にテスラの業績やアイデア、発明に関するニュースなどを積極的に紹介するようになった。
 この熱がやがて彼を新しい文芸ジャンルの開拓者へと導いていったのだろう。
                                                               (続く)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿