TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

憧れの「北アルプス・サバイバル登山」

2017年09月16日 | 山にまつわる話
学生時代に「屋久島サバイバル」などとたいそうな名を打って合宿を行ったが、海岸で行ったあれはサバイバル的な合宿であり、サバイバルへの憧れであった。サバイバルというなら、暴風雨に耐えたあの宮之浦分岐の一夜こそがむしろそれに近かった。

あの頃、登山とサバイバルのカテゴリー分けは、テントやブスなどの便利な装備品を使うかどうかの差でしかなかったと思う。国立公園の特別保護地区では焚き火が禁止だったので、焚き火への憧れが登山とは別の形態としてサバイバルを生み出したのではないか。


北アルプスで次のようなサバイバル登山をしてはどうだろうか。

仮想・北アルプス・サバイバル登山
今回の合宿ではテントやブスは一切使わない。現代文明への挑戦だ!
寝るのはもっぱらフカフカした高山植物のベッドの上だ。ハイジの干し草のベッドにはかなわないだろうが… 夜は冷え込むが、晩飯を作ったときの焚き火の燠で暖は取れる。露よけには油紙でも掛けておけば十分さ。満点の星に包まれてまどろむのは最高だよ。なに?高度一万尺では星のランプが明るすぎて眠れないって、何を贅沢言っている!
雨の日には岩屋を探すさ。槍ヶ岳を開いたという播隆上人も何日も岩屋でビバークしたというじゃないか。大丈夫、大丈夫。そんな野性味あふれるワンゲル活動をしたかったんだろう。
食糧だけど、主食の米と味噌だけは持参してそれ以外は自然の中から調達することにしよう。
何?よくそれでサバイバルって言えるねって?米だけは勘弁してよ…。
おかずは近くにいる雷鳥を捕まえて料理しよう。豚汁ならぬ「雷鳥汁」は絶品らしい。


どうだろう、ワクワクするような計画だ。しかし、これを実行すれば間違いなく新聞に載り、自然愛好家から非難ごうごうであろう。いやその前に自然公園法違反で逮捕されるかもしれない。


しかし、100年前はこれこそが北アルプスの普通の登り方だったのだ。辻村伊助の日本アルプス黎明期の紀行文に、そのことが綴られている。


飛驒山脈の縦走」(1909年) 辻村伊助  

 「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」
(「嘉門治」の表記は原文のまま)


 「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」


 「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」





岩屋での宿泊。そんな目で多良岳を歩いていると、泊まれそうな岩屋はけっこういっぱい見つけることがでる。でも、多良岳は日帰りだし… 

県外では

【祖母山:天狗の岩屋】



【大崩山】

これらは水場もすぐの所にある。今度泊まってみるか…

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