闇に響くノクターン

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言葉、制度、ジェンダーについて考えるーー『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』を読んで①

2007-11-15 16:21:29 | 愉しい知識
10月27日に開かれたクィア学会のシンポジウムを聴講して以来、ジェンダー、セクシュアリティ、言葉、制度といった問題が私の頭のなかをぐるぐる渦巻いているのだが、そうした混乱した状態のなか書店で『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』(中村桃子著、日本放送出版協会<NHKブックス>、2007年10月30日刊)という本を見つけ、さっそく読んでみた。そして頭のなかの混乱がかなり整理されたのを感じた。
私のなかには、以前から「言葉=制度」と理解すべきではないかという考え方があり(これに関しては小ブログ内のフーコー『言葉と物』についての記事をご参照ください)、それがジェンダーやセクシュアリティの問題とどうつながっていくか、つなげていったらいいか、自問があった。そうしたなかでクィア学会の開会の辞(クレア・マリィさん)やシンポジスト・清水晶子さんの発言をとおし、「ジェンダーやセクシュアリティは制度である」という考え方の存在を知り、まさしく目から鱗が落ちるおもいがした。ただそこで、二つの考え方をどう接合したらよいかということが私のなかに生じた混乱だったのだが、本書のなかで、中村桃子さんは、「言葉という制度がジェンダー」を生み出すのだと明言している。それを読んで、混乱しながら自分が考えていたのは、まさにこういうことだったのだと納得した。
また同時に、日頃、自分では男女差につながる考え方や表現はなるべくしないつもりでいたのだが(このブログで「私」が選んでいる文体は、可能なかぎり透明なものを選んだつもりでいた)、本書を読み、それでもやはり、自分の考え方や表現は男目線にしばられていたのだなと強く反省した。日本語において男女を表現する言葉は非対称であるという中村さんの指摘は新鮮かつ鋭いとおもう。
そこで、以下、私の関心を軸にして、本書の内容を数回にわたって紹介してみたい。なお本書では、あらかじめ、ジェンダーは「社会的性役割」、セクシュアリティは「性的欲望・性的指向」と定義されているので、この二つの概念(用語)に関しては、その定義に従う。

さて、あとがきのなかで中村さんがみずから指摘している本書の新しさは次の四点。これに関しては、おおむねその狙いどおりの記述がなされているのではないかと肯首できる。

①日本語をセクシュアリティの側面から見る。
②日本語を消費社会の側面から見る。
③日本語には、特定の集団に特権を与えているイデオロギーとしての側面があると主張する。
④「イデオロギーとしての日本語」という考え方から、「正しい日本語」に縛られた息苦しい状況を打開する方策を導き出す。

またとりあえず、本書全体の構成は次のとおり。

はじめに

第一部 「わたし」はことばでつくられる
 第1章 ことばとアイデンティティ
 第2章 「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源

第二部 日本語に刻まれた<性>
 第3章 セクシュアリティと日本語
 第4章 変わりゆく異性愛のことばーー「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」

第三部 創造する言語行為
 第5章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか
 第6章 欲望を創造するーー消費社会と<性>
 終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える

あとがき

【参照】 『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』(日本放送出版協会サイト内ページ)
http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00910962