闇に響くノクターン

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アジア的クィアについて考えるためにーー中国の歴史から学ぶ

2007-11-10 18:41:53 | テクストの快楽
このところたてつづけに中国史の本を読んだ。講談社版の「中国の歴史」シリーズのなかから、06巻『絢爛たる世界帝国』(気賀澤保規)、07巻『中国思想と宗教の奔流ーー宋朝』(小島毅)、08巻『疾駆する草原の征服者ーー遼、西夏、金、元』(杉山正明)、09巻『海と帝国ーー明清時代』(上田信)およびそれと比較する意味で中央公論新社版の「世界の歴史」シリーズのなかから7巻『宋と中央ユーラシア』(井原弘、梅村坦)だ。私はもともと日本中世史に関心をもっており、日本史研究会という研究会等の会員でもあるのだが、日本中世史と比較する意味で中国の歴史をきちんと勉強してみたいとおもいつつそれが先送りになっていたのを、とりあえず手許のシリーズ本を読むことで果たしたという感じだ。
さて、日本史の叙述に接するのと同じ感じで中国史の叙述を読みはじめて、まず最初に気づいた大きな違いは、日本史の場合、その対象が非常に明確で、とりあえずは対象とする時代になかが起こったのかという事実を扱う「客観的学問」であるという理解が一般的であるのに対し、中国史といった場合、なに(どの地域)をもって中国史とするのかという対象が自明ではなく、まず対象確定に多くの言葉を費やさなくてはならないということだ。つまり、いわゆる「中国」は、たとえば、唐、宋、元、明、清といった代表的王朝をとっただけでも、領域が非常に異なるし、構成民族も違ってくる(中華本土に限定された宋と世界帝国といえる元で、その違いはもっとも顕著となる)。そこで現在の中国史叙述の主流的な考え方では、便宜的に、中華人民共和国の領域を「中国」と規定し、その地域およびそこに住む人々の歴史を対象とすることになるが、チベットや新彊が「中国」という通念と一致するかどうかは議論が残るところだし、中華人民共和国の領域を基準にして、その東北地域(旧満州)の人々がたてた清王朝は(国内の)少数民族支配の王朝で、モンゴル人がたてた元は(国外の)異民族支配の王朝だといってみたところで、その定義に有意が違いがあるように、すくなくとも私にはおもわれない。逆に、宋や明は、支配領域も比較的狭く、文字通りの中国王朝と呼べそうな気がするが(伝統的な中国史の叙述はそのようになっていた)、ではその時代のチベットや西域について記さずに「中国史」と呼べるのかというと、事情はそう簡単ではない。つまり、日本史と比較した場合、中国史という学問は、対象確定の段階で論者の判断がはいりこまざるを得ず、イデオロギー性のつよいものになってくる。逆にいえば、歴史学がほんらいもっているイデオロギー性が、日本史という学問では見えにくいのに対し、中国史はそれをまざまざと見せつけるともいえるとおもう。
(ちなみに、厳密にいえば、日本史にも同様な問題が存在しており、最近は琉球や蝦夷地を日本史のなかに組み込んで叙述すべきだという主張が行われるようになってきている。しかし少なくとも中世に関していえば、琉球や蝦夷地に関する史料はきわめてすくなく、かつそれが中央の王権に及ぼした影響も非常に限定されているので、こと日本中世史に関しては、琉球や蝦夷地について触れなくてもカタチにはなるという事情がある。)

さてそうしたなかで、とりあえず、「中国」の歴史について、いくつかの事実を知り、また新たな視点を得のだが、個々の事実(たとえばユーラシア大陸全体を一つの有機的なかたまりとしてみたときにあらわれている銀とモノの交換の動き)に関しては、それらの事実に関する知識が刺激的だったことを記すにとどめ、ここでは、このブログにとって重要な一つの指摘を引用し、紹介しておきたい。それは、小島毅氏による宋の思想に関するものだ。

前後する唐や元と異なり、日本では、宋[960年~1279年。1127年に女真(満州)族国家・金の攻撃をうけて南遷(南宋)。宋の時代は、日本でいえば平安時代中期から鎌倉時代中期にあたる]の明確なイメージがつかみにくい。これはまず、宋の対外活動が限定されており、とりわけ遣唐使、元寇といった日本との明確な関係ほとんどないことに起因すると考えられるが、いずれにしても宋のイメージは、強大な王朝からはほど遠い。また、広大な「中国」の一部しか支配しえなかった宋朝に関しては、その歴史は、同時代の中国史の一部に過ぎないという主張もある(「中国の歴史」シリーズのなかで、杉山正明氏は、キタン(契丹、遼)中心の叙述を提案している)。したがって小島毅氏は、宋が限定付きの中華国家に過ぎないことを指摘したうえで、自身の専門領域である思想史研究の成果をいかし、小さな王朝であった宋朝の歴史、社会、思想を明らかにしようとしている。するとそこからは、つねに領域外を意識することで漢人王朝としてのアイデンティティを確立していった宋の政治文化のあり方が鮮明にみえてくる。
そうした政治文化がその後の「中国」の排他的アイデンティティに結びつき、一種の停滞をもたらした側面は否定できないが、それでも小島氏は、宋文化は現代にとって重要な意義をもつとする。それは、端的にいえば、宋文化は印刷、軍事、医学などの分野で独自の合理思想を展開していたということであり、合理主義(理性主義)を西洋文明の専売特許とみなし、東洋的思惟を非理性的とすることへの批判である。
「文明の転換点に来ているからか、近年なにかと過去の見直しがはやっているが、それらの多くが対象にしている「過去」は、たかだかこの百数十年のことにすぎない。ひところもてはやされたポストモダンの思潮が結局は近代主義の変種にすぎなかったのと同様に、西洋的な枠組みを自明の前提とした上での問題設定というのでは底が浅い。より根底的な見直しは、これとは異質な知の体系に対する認識を踏まえて可能であろう。自分が属する文明を独善的に称揚し、異質な他者を排除して「文明の衝突」を唱えるような思考の堕落に見舞われないためにも」(小島毅氏)

つまり、「社会の多様性と異種混淆性の保持」「複数の知の体系の共存」という最近私が考えている問題を解くための鍵のひとつ、さらには「アジア的なクィアのあり方は存在しないか」という疑問に対するヒントのひとつが、中国史とりわけ宋の歴史にはありそうにおもえるのである。