闇に響くノクターン

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お節介な?チョムスキー

2007-11-21 16:23:04 | テクストの快楽
アメリカの言語哲学者ノーム・チョムスキー(1928年~ )がニューヨーク・タイムズ通信社(『ニューヨーク・タイムズ』の発行元と同じ企業グループ内の別部門)に、2002年9月から2007年3月にかけて署名入り原稿として書いた論説記事をまとめた『お節介なアメリカ』(大塚まい訳、筑摩書房<ちくま新書>、原題『Interventions』)を読んだ。ニューヨーク・テロ事件一周年直前に書かれた記事からイラン問題をテーマとしたことし三月の記事まで、一貫してアメリカの外交政策を批判した政治論説集だ。最初の記事を読めばすぐにわかるのだが、チョムスキーの発言が注目されるのは、対イラク戦争(戦後処理)の失敗に導き出されて結果遡及的にアメリカの外交政策を批判しているのではなく、対イラク戦争開始以前からすでにイラク問題介入(intervention)を批判している点であり、またユダヤ人でありながらイスラエル政府の強硬政策(およびその背後にいるアメリカ政権)を強く批判し、政治的にはPLOやヒズボラを支持している点であろう。『お節介なアメリカ』の論説は、これら中東問題とラテン・アメリカの自治問題に関する発言を核とする。アメリカを代表する知識人の一人であるチョムスキーが、本書に記されているような政治倫理・政治論理をもっていることを知り得たことは、私にとり非常に有益であった。
なお、本書前書きによれば、本書で紹介されているチョムスキーの論説は、直接的にはアメリカ人に向けて書かれたものであるが、『ニューヨーク・タイムズ』を含めたアメリカの大手一流新聞からは掲載を拒否され、アメリカではほとんど読まれていないということである。
以下、本書のなかから注目すべき発言を二つ引用し、紹介する。

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まずは「あとがき」に記された本書全体を貫く基本視線である。
「アメリカの外交政策のおおまかな全容に関しては、明確なドクトリンがあり、これが西側のジャーナリズムや学界、さらには政治評論家の間にまで浸透している。その主題は「アメリカ例外主義」である。つまり、アメリカには、「超越的な目的」があるため、いまも昔も他の大国とは違う存在なのだという主張だ。「超越的な目的」とは、アメリカが「国内」はもちろん世界各地でも、「自由の平等を確立」するというものである。その根拠は「アメリカがその目的を擁護・促進していく活動の舞台となる領域は、いまや世界全体に広がってきている」からだという。
 私がいま引用した主張は、その出所を見ると非常に興味深い。これはハンス・モーゲンソーの言葉なのだ。しかし、この引用はケネディ政権時代、つまりこの上なく残虐なベトナム戦争が勃発する前のものである。冒頭で引用したのは、1970年、モーゲンソーが思想的にもう少し自己批判的な段階に移った時代の発言からのものだ。
 最も高度な知性や道徳的高潔さを備えた人物でさえ、「例外主義」の立場を支持したことがある。ジョン・スチュアート・ミルの古典的な論考「不介入主義についての小論」を検討してみるとよい。
 ミルは、イギリスが醜い世界に介入すべきか、それとも、自国のことだけを考え、野蛮人たちには好き勝手に残虐行為を続けさせておくべきか、という疑問を投げかけている。彼の結論は、微妙なニュアンスを含み複雑だが、結局はこうだ。イギリスは、他国に介入すべきであるーー結果としてヨーロッパ諸国から「誹謗中傷」や嫌がらせを受けることになるとしても、だ。彼らは、イギリスという国が自国のためには何ひとつ求めず、他国の利益のためだけに行動する「世界でもたぐいまれな存在」であることを理解できないため、「低劣な動機を探ってくる」ことだろう。[だが]イギリスは無私無欲で、介入にともなう犠牲を払いながら、そこから得られる利益を他国と平等に分配するのである。
 例外主義は、ほぼ普遍的に見られるもののようである。もしチンギス・ハンの発言を記録した資料が残されていたら、そのなかにもまったく同じような要素が発見されるのではないかと私は思っている。」(本書281-2頁、本書全体の後書きとして載せられた2006年7月13日付けの論説「権力の「偉大な精神」」より)

ここで述べられている「(政治的)例外主義」とは、要するに、自国は不謬であるとの暗黙の前提のもと、自国の論理を基準にして他国の政治に対する批判と介入は積極的に行うが、同じことを自国に対して行うことを許さないという態度といっていいだろう。チョムスキーが例外主義の存在を紹介し、アメリカの対外政策が例外主義的だと述べていることは、とりもなおさず、彼が不介入主義を支持するということの原理的な表明であり、それゆえチョムスキーは、対イラク戦争開始以前からこの戦争(介入・お節介)を強く批判していたのだ。彼によれば、他国の自立的な主権を尊重し不介入主義を貫くことこそが国際関係における民主主義の原点であり、他国の政治に介入した時点で、アメリカは民主主義国家の資格を喪失していることになる(外国の政治に対するアメリカの干渉は、結局、自国の権益擁護のための干渉を「民主主義」を守るためと言いつくろったものに過ぎないことを、チョムスキーは本書の中で繰り返し強く批判している)。
また以上の基本視線を前提にして読むと、ことし三月に発表された本書の最終記事は、アメリカ発のイラン問題に関する一般メディアの記事をどのように読むべきかという点で示唆にとむ。

「米国政府は、イランを国内的に不安定化させようと画策しているようだ。イランの民族構成は複雑であり、国民の多くは非ペルシャ系である。分離主義的な趨勢もあり、米国政府はたとえば、イランの石油資源が集中する湾岸地域のフージスターン州ーーその住民の大多数はアラブ系で、ペルシャ系ではないーーで、そうした趨勢を加速させようと動いている可能性がある。
 武力威嚇をエスカレートさせることは、イランを経済的に締めつけようというアメリカの取り組みに他国も加担するよう圧力をかけるのに役立つ。これに関しては[とくに]ヨーロッパでうまくいく見込みがある。他に予測される結果としてはーーおそらくは、これはねらいどおりになるだろうがーーイランの指導層がなるべく厳格で、抑圧的になるよう仕向けることだ。これが国内の混乱と、さらには抵抗を助長し、同時に、米国政府の作戦に激しく抗議する勇気あるイラン人改革者たちの努力を台無しにすることにつながる。また同時に、指導層を悪者扱いすることも必要だ。西側諸国では、イラン大統領マフムード・アフマディネジャドが、大胆な発言をしたら、それがどんなものであれ、いいかげんな翻訳でメディアの見出しになってすぐに広まる。しかし、よく知られているように、アフマディネジャドには外交政策の実権はない。実質的に実験を握っているのは、彼の上司である、最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイ師だ。
 アメリカのメディアは、ハメネイ師の発言をーーそれが融和主義的なものだった場合にはとくにーー無視する傾向がある。たとえば、アフマディネジャドが、イスラエルは存在してはならないと発言したときは広く報道される。しかし、ハメネイ師が、イランは「最も重要なイスラム-アラブ問題、つまり、パレスチナ問題に関しては、アラブ諸国と見解を同じくする」と発言したときは、まったく無視される。ハメネイ師のこの発言の趣旨は、イランがアラブ連盟の立場ーー二国共存方式という、国際的コンセンサスにもとづく、(そしてほとんどアメリカとイスラエルだけが拒否し続けている)イスラエルとの完全な関係正常化ーーを受け入れるということのように思われる。」(本書273-4頁、2007年3月5日付けの論説「アメリカとイランの冷戦」」より)

アメリカ発のイランおよびイスラーム関係の報道に関して、私は、本書を読む以前からそれだけで何らかの態度決定をすることはできないと基本的に判断を保留していたのだが、本書を読み、そうした保留の必要性をさらに強く感じるようになった。私は、イランの政治行動をすべて肯定するものではないが、であればこそ、それに対する批判は、イスラーム法に基づくイランの論理にも耳を傾けたうえで慎重に行うべきだとおもっている。

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ところで、イスラーム問題全般について、広い意味での東洋文化、東洋思想を取り巻く問題のひとつ(脱西洋中心主義問題)として私はかねてから強い関心をもっており、近年のさまざまな政治問題もその例外ではない。そうした関心のなかで、最近、『神の法vs.人の法ーースカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』(内藤正典、阪口正二郎編著、日本評論社、2007年)、『神の棄てた裸体ーーイスラームの夜を歩く』(石井光太、新潮社、2007年)の二冊の本を購入し、ちらちら眺めてはいるのだが、このところクィア学の関連で読まなくてはならないと感じている本が多く、どちらもすぐには読めそうにない。関心をもっているということで、とりあえず書名のみ記しておく。
また、チョムスキーの著作を読んだのは、実はこの『お節介なアメリカ』が最初だということも、ついでながら記しておこう。
近現代の言語思想というと、私は、スイスの言語哲学者ソシュール(1857年~1913年)の思想に強い関心をもっており、丸山圭三郎氏の著作をはじめとするソシュールの研究書はかなり読んでいるつもりだが、チョムスキーの言語思想には不案内で、この『お節介なアメリカ』が、チョムスキーの思想全体のなかでどのように位置づけられるのかを述べるには不適格でありその資格がないということをお断りしておく(これはつまり、本書『お節介なアメリカ』についての私の読みは、かなり強引で一面的なものである可能性をもつということだ)。