闇に響くノクターン

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人間の美徳とは?--18、肛門性交というタブー

2008-09-12 23:51:28 | テクストの快楽
これまでいろいろみてきたように、イスラームという宗教は、たしかに同性愛をタブー視しており、イランなどでは同性愛者を死刑にしているが(直前の記事にも書いたように、私には、同性愛に対するタブーもさることながら、同性愛者を処罰するというときのプロセスの正当性に大きな疑問がある)、いろいろ考えてみると、キリスト教社会をも含めた同性愛タブーは、タブーはタブーであるのだが、それはもっと広い性的タブーの一部なのではないかという気がしている。つまり、それは、一つには肛門性交へのタブーとつながるで問題であり、また自慰行為へのタブーとつながる問題でもある。これをつきつめていくと、イスラーム社会やキリスト教社会では、精液を女性の膣に放出すること以外の性的行為へのタブーが根源的なものとしてあり、同性愛タブーはそれから派生しているのではないかということである。
また同性愛タブーといっても、そもそも、「homosexual(同性愛)」という言葉がヨーロッパ言語のなかで古い起源をもつ言葉ではなく、近代にこの言葉が創出される以前は、「同性愛タブー」というのは、現代われわれが考えるものとは異なる概念として存在していたのではないかということを想定させる。そしてそれは、現代のイスラーム社会に関しても言えることである(人間をその行動からとらえるという傾向が強いイスラーム社会では、「同性愛」は、「愛」という側面よりも、具体的な同性との「性行為」という側面からとらえられている可能性が強いのではないだろうか。もちろん、われわれのいう「同性愛」は同性との性行為を含む概念ではあるが、それは、性行為に限定されない、より広い行動や感情を含むものではないだろうか)。

このことを強く考えさせられるのが、中村桃子さんの指摘である。以下、小ブログで企図途中で終わってしまった「『<性>と日本語ーーことばがつくる女と男』を読んで」という記事から関係部分を再掲する。

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「中村さんは古代ローマの性的区分を例に引く。つまり、古代ローマでは、「現代ヨーロッパで主要な性的区分である「異性愛/同性愛」ではなく、「能動性/受動性」によって区別されていた」のである。
この古代ローマのセクシュアリティ区分の紹介は非常に興味深いのだが、古代ローマの「能動的」セクシュアリティとは、ペニスを用いて、ヴァギナ、肛門、口の三カ所に挿入することをさし、どこに挿入するかに応じてその人には異なる呼び名が与えられた(fututor、pedicator、irrumator)。またこの三カ所に対応する「受動的」セクシュアリティは男と女で呼称が異なり、古代ローマにおいては、つごう9種類の性的区分があったことになる(女性はつねに「受動的」セクシュアリテイに分類されていた)。つまり、古代ローマの性行為の区分は、能動的男性が受動的男性もしくは(受動的)女性と行為を行うことを基準とし、相手の性別よりも性行為に使用する身体部位の違いが重要な要素と考えられていた。したがって中村さんのように考えると、現代であれば同性愛、異性愛とみなされるような実態があっても、古代ローマにはそうした概念がないため、「同性愛」「異性愛」とはみなされていなかったということになる(ちなみに、河口和也さんの『クイア・スタディーズ』<岩波書店>によれば、homosexualという言葉(概念)は、1869年にハンガリー人医師ベンケルトによって考案された近代的な用語(概念)である<同書3頁>)。」(小ブログ2007年12月9日付け)

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これによれば、古代ローマには同性愛に対するタブーがなかったどころか、「同性愛」という概念すらなかったというのだ。
ではなぜイスラームやキリスト教(というよりユダヤ教)社会のなかに性行為に関する独自のタブーが生まれたかというと、私は、それは両社会が牧畜(遊牧)を生活の大きな糧としていたことと関係しているのではないかと推測している。つまり、牧畜を主として生活する社会のなかでは、家畜を殖やすことが至上命題であり、そのためには牡の家畜の精液を無駄にすることは許されない。それが人間社会や人間行動に反映されると、精液を無駄にする行為へのタブー視が生じてくるのではないかということだ。
肛門性交へのタブー視は、日本では非常に理解しづらいのだが、かつて、ベルトルッチ監督の『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年)が、肛門性交(ファック)を正面から描いた作品として世界的な話題を呼んだことがある。しかしこのとき、日本には肛門性交に対するタブー視があまりないために、そのスキャンダル性がほとんど理解されずにおわってしまった。
また肛門性交に対するタブーへの挑戦ということでは、そもそもサド侯爵の著作が肛門性交の描写で充ち満ちているのだが、ではなぜサド侯爵が肛門性交にそれほどこだわったかといえば、それは、前回の記事でもみたように、キリスト教社会のなかでは肛門性交が死に値する大きなタブーだったからだ。

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