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ハーフィズを読む②ーー神秘主義、遊蕩との関係から

2009-03-16 12:31:44 | イスラーム理解のために
ハーフィズの詩でもその基調を構成しているイスラーム神秘主義(スーフィズム)について、ハーフィズ詩集の翻訳者・黒柳恒男氏の解説から引用しておく。

「この思想の土壌になったのはイスラーム初期におこった禁欲主義であった。(中略)女聖者ラービア(801没)が現れると、禁欲主義における神への畏怖が神への愛に変った。神への熱烈な愛、人格的な愛、愛における神と人間との一体化は神秘主義の基本的性格の一つとなり、ハーフィズの思想の基調をなしている。その後9世紀になると、神への愛の他に二つの性格が導入された。即ち霊知・神秘的知識(マーリファ)と陶酔の境地(ファナー)で、神秘主義は以上の三つの基本的性格から成っている。マーリファとは書物から学ぶ思弁的、間接的な知識ではなく、神との瞬間的合一の時に得られる神からの直接的、感性的知識を意味し、ヘレニズム的接神論グノーシスと同じである。ファナーとは自我を滅却して神との合一をはかる陶酔の境地を意味し、論理を超越し、直観によって人間の魂が入神の境地に達するのをいう。神秘主義は民衆宗教運動の形態として発展し、正統的宗教学者(ウラマー)とは発展過程において激しく対立した。しかし教理至上主義を唱え抽象的論議に終始したウラマーの弾圧にも拘らず、神秘主義は民衆の信仰生活と密着してイスラーム圏全域に広がり、12世紀には正統派神学と神秘主義の間に調和、協調関係が樹立され、神秘主義は一層発展した。」

以上はもちろん神学的な説明であるが、私はこの「(神との)瞬間的合一の時に得られる(神からの)直接的、感性的知識」「自我を滅却して(神との)合一をはかる陶酔の境地」は、「神」をはずして一般論的に考えれば、同性愛の感覚に通ずるのではないかとおっている。異性愛の場合は、どうしてもそこに「生殖」という強度に目的論的な要素がかかわってくるために、「知・愛・陶酔」という三位一体となじまないような気がするのである(これってヤオイ的?)。
ファナー(陶酔)について、『イスラーム辞典』から捕捉しておく。

「ファナーという概念は、9世紀にバグダードで活躍したハッラーズが創唱したとされる理念であるが、前近代においてこれを否定するムスリムはほとんどいなかった。ただし、すべてのムスリムが、アッラー以外のあらゆるものを見なくなり、主体的意識を喪失するような第3段階のファナー(自らがファナーに到達したという意識すら消滅する段階)を認めていたとは必ずしもいえず、悪しきエゴの消滅といった倫理的な意味に限って認める人びともいたと思われる。アッラーへのファナーという語そのものを否定する論者が現れるようになるのは、近現代になってからである。」

さてハーフィズの詩の紹介、同性愛の主題を含むものだけというのではさすがに方手落ちとおもわれるので、以下により一般的なものを引用しておくことにする。といっても、詩集に含まれる約500篇の詩に内容的な大きな違いがあるわけではなし、代表作といっても選びにくいので、イラン人がハーフィズの詩集で占いをするときのように、適当なページを開いてそこに出てきた詩を記しておく(ハーフィズ占いというのは、彼の詩集の適当なページを開き、そこに記してある詩によって運勢等を占うもの)。

敬虔な行いはいずこ、酔い痴れる私はいずこ(訳注1)
見よ、道の相違はいずこからいずこまで
わが心は僧庵と偽善の弊衣に倦いた
拝火教徒の寺院(訳注2)はいずこ、美酒はいずこ
放蕩は善行や敬神となんの関りがあろう
説教の聴取はいずこ、楽器の調べはいずこ
恋人の面から敵の心がどうして分ろう
消えた燈火はいずこ、太陽の燭はいずこ(訳注3)
わが目の睫墨(訳注4)はそなたの門辺のほこりゆえ
この宮居からいずこに行こう、言ってくれ
顎のくぼみを見るな、行手に落し穴がある
心よ、そなたはこんなに急いでいずこに行く
想い出楽しい結ばれた日々は去り
かの秋波はいずこに去り、かの謗りはいずこ
友よ、ハーフィズに安らぎと熟睡を望むな
安らぎとは何か、忍耐とは、熟睡はいずこ
(『ハーフィズ詩集』2)

【訳注】
1 両者の大きな違いを示す。
2 酒場を指す。
3 敵の暗い心が消えた燈火、恋人の明るい面が太陽の燭。
4 ソルメともいい、アンチモニーの粉末を目の縁につけると涼しさを感じる。

黒柳氏の訳注にもあるが、「中世において酒場をイランではわずかに残っていた拝火教徒が営んでいたことを示す」(黒柳氏)という。

来たれ神秘主義者よ、酒杯は鏡の如く澄む
紅玉の色をした美酒の清らかさを視よ
帳の内にある秘密(訳注1)を酔える遊蕩児に問え
高い位の隠者にはこの状態が分らない
鳳凰(訳注2)はだれの獲物にもならない、網(訳注3)を解け
かなたで網にかかるのはいつも風だけ
世の宴では一、二杯を飲んで去れ
つまり永遠の契りを望んではならぬ
心よ、青春は去り、そなたは愉しみの薔薇を摘まず
老いては徳を示し、名声を求めるな
今ある愉しみに努めよ、泉が涸れた時
アダムは平安の都、天国の楽園を去った
われらはそなたの門辺で仕える権利を持つ
大人(訳注4)よ、憐れみの眼差しを奴隷に向けよ
ハーフィズは酒杯の弟子、微風よ、行って
ジャームの老師(訳注5)にわが挨拶を届けよ
(『ハーフィズ詩集』7)

【訳注】
1 愛の秘密。
2 恋人を指す。
3 手練手管の意。
4 恋人またはハーフィズの保護者カワーム・ウッディーン・ハサンを指す。
5 ジャームはこの句で二つの意味を持ち、一つは酒杯、他は現在のアフガニスタンにおける地名。ジャームの老師とは著名な神秘主義者シェイフ・アフマド・ナーマキーを指す。

また、ハーフィズの詩における「酒」が意味するところのものについてさまざまな見解があることはすでに記したが、黒柳氏によればザッリーンクーブ教授は、「ハーフィズにおける酒は神秘主義的陶酔と現実の酒の双方を恐らく意味していよう」と述べているという。ただし、「学者たちの論議とは関係なく、イラン人大衆がハーフィズを愛唱するのはその表面上の意味をそのまま現実的に受け取り楽しんでいるら」ともいう。同性愛を含む恋愛に関しても、学問的なレベルにおける真意の追求を別にすれば、現実的な享受においては、彼の詩が内包する象徴的意味と具体的意味を区別してとらえるのは不可能であろう。
最後にもう一度、ハーフィズのいう遊蕩と神秘主義の関係を黒柳氏の解説からみておく。

「彼は詩の中でたびたび「遊蕩児(リンド)」を自認し、またそれを誇っているので、まず彼が言う遊蕩児とは何かについて考えねばならない。何故ならこの語は日本語における放蕩者、道楽者とは同意でないからである。英語ではこの語は一般にlibertine訳されるが、リンドの場合は第一義の放蕩者よりもむしろ第二義の宗教上の自由思想家、懐疑論者の意に近い。彼が生活信条とした遊蕩道(リンディー)は、彼の思想の大きな特色の一つである思想の自由に合致している。換言すれば遊蕩道は神秘主義道よりもはるかに幅広く、束縛されていない。確かに彼の詩には現世の全ての出来事、現象を象徴的に見て、あらゆるものに神を見るという神秘主義的傾向が強く作用しているが、これで全てを律することはできない。彼の思想の底流には神秘主義と遊蕩道が平行して流れているようであるが、さらに深く観ると両者にはかなりの共通点があり、必ずしも矛盾はない。ここでいう神秘主義とはハーフィズの時代に堕落した神秘主義者が売りものにしていたえせ神秘主義ではなく、本来の真の神秘主義をいう。元来神秘主義とは儀礼、形式に囚われないものであったが、時代とともに本来の姿は失われた。そこでハーフィズは当時のゆがめられた神秘主義と区別するために、11世紀後半以降カランダリー托鉢僧(デルヴィーシュ)たちが唱えてきた遊蕩道(リンディー)を人生哲学としたのであろう。全般的に彼が神の存在と慈悲、コーランの真理、来世を信じた真の敬虔な回教徒であったことは彼の詩から理解できよう。しかし彼は世の一般の宗教家、信者のように宗教的儀礼、慣習、形式、伝統、制約等に束縛されるのを何よりも嫌った。真の信仰と人間生来の欲求とを調和させようと努めたといえよう。彼が何よりも嫌悪したのは既述のように偽善、欺瞞であった。人前では欲求を克服しているように見せかけ、かつそれをもっともらしく説きながら、隠れてこそこそと欲求を満たしている、当時の神秘主義者の姿が彼には我慢できなかったのであろう。そこで彼は自ら遊蕩児であることを公言し、二心の表裏なく自由に恋もし、酒も飲み、かつ真の信仰を抱いて世を渡ろうとしたのであろう。ハーフィズの詩を神秘主義的に解釈する者は遊蕩児(リンド)を神秘主義者(スーフィー)と同意にしているが、これが誤りであることは彼の詩から明らかである。彼がいう遊蕩児とは要約するならば、真の信仰を抱いているが宗教上の束縛に拘束されることなく、人間生来の欲求に即しながら自然に生き、現世に囚われず清貧に甘んじ満足を旨とする自由なる思想家の謂われであろう。」

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