闇に響くノクターン

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パゾリーニ詩集刊行!

2011-02-19 12:00:22 | テクストの快楽
このほどみすず書房から、四方田犬彦さんの訳で、待望ひさしい『パゾリーニ詩集』が刊行された。今、本書を手にして、これからじっくり読んでみようとおもっているところだが、以下、この詩集およびパゾリーニについて、本書の巻頭に付された四方田さんの解題「詩人としてのピエル・パオロ・パゾリーニ」のなかの文章を引用して紹介しておきたい。

     ☆     ☆     ☆

「20世紀を代表するイタリア詩人は誰であったか?」

「イタリアの民衆に一番近いところにあって、日常生活の卑小な悲しみから天下国家の行く末までのいっさいを射程に入れ、この国の言語的多元性、多層性を肯定的に取り上げるばかりか、ときに過激な実験に訴えつつも伝統的な韻律に忠実であった詩人は誰かといえば、それがピエル・パオロ・パゾリーニであることを否定する人はいないだろう。」

「パゾリーニといえば、日本ではゴダールやマカヴェイエフと並んで、1960年代から70年代にかけて一世を風靡した映画監督としての印象が強い。なるほど彼は傑出した映画監督であり映画理論家であって、『奇跡の丘』や『アポロンの地獄』といったフィルムは映画史上の古典として、現在ますますまその意味が高く評価されている。だがパゾリーニは単に映画人であったばかりではない。『生命ある若者』や『あることの夢』、さらに未完に終った大作『石油』まで、短編長編を問わず旺盛な筆を振るった小説家であり、『カルデロン』をはじめとする戯曲の作者であった。『ルター派書簡』『海賊評論』といったエッセイ集を通してつねに物議を醸す批評家であり、『異端経験論』では独自の言語論・映像記号論を展開し、ミラノの学者一派と論戦してやまない理論家であった。画家であり、バレエ作家であり、その政治的発言によって論壇を挑発してやまない知識人であった。その八面六臂のあり方に拮抗できる芸術家としては、わずかに本朝の三島由紀夫の名が思い出されるくらいである。」

「『異端経験論』の中心をなす記号学的論文は、「ポエジーとしての映画」と題されている。このことからもわかるように、パゾリーニにとって詩とは、単に散文に対立する特定の文学ジャンルを示しているばかりではない。それはむしろ思考の根元的な形態であり、混乱と矛盾を湛えながらも世界が存在しているという事実をめぐって、その価値を確認し肯定するためのモードであった。ポエジーとしての小説。ポエジーとしての民謡蒐集と翻訳。ポエジーとしての政治評論。その意味でパゾリーニに比較すべきなのはフランスのジャン・コクトーである。コクトーもまたあらゆるジャンルを自在に横断して創作を続けたが、その根底にはつねに詩が横たわっており、現実に彼が手掛けた映画作品や小説は、ポエジーがださまざまな形態をとって表出されたというだけのことであった。とはいえパゾリーニが、コクトーが得意とした天使的な軽快さからはほど遠い存在であったことも書き添えておかねばなるまい。長編詩「掘削機の涙」のなかで彼は書いている。「ぼくはさまざまな情熱を生きたが、/それを知る者は少ないと知った。」このイタリア詩人にとって人生とは、孤独と後悔の果てにうっすらと垣間見ることのできる希望として、まず体験されていたのである。」


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