みどり市議会議員 宮崎 武

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相沢忠洋23回忌献花式

2010年05月22日 | Weblog
 本日は、岩宿時代を発見した郷土の先駆者、故【相沢忠洋】氏の献花式に参列をいたしました。            [岩宿ドーム相沢忠洋胸像前]

 昨年度が、岩宿遺跡発見60周年という事で、岩宿博物館に【槍先形尖頭器】を展示し大成功の60周年をおえて今回の23回忌という流れとなりました。

ここで、少し相沢忠洋氏の事績を紹介いたします。

功績

 1949年(昭和24)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫氏などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。

 そうした時代背景の中で、1946年(昭和21)、相沢氏は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢氏は岩宿での発掘を独自に続けていった。

 1949年(昭和24)夏、相沢氏は岩宿の関東ローム層中から明らかに人為と認められる槍先形石器を発見した。この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介氏(当時)は、同大学助教授杉原荘介氏-(当時)に連絡した。これを受けて同年秋、明治大学が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。

 しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢氏の存在はほとんど無視されたかのようで。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢氏の功績は無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介氏の功績として発表した。さらには、相沢氏に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に無根の誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人などいわゆる先生方)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった財産も学歴も有しない相沢忠洋氏の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。

 だが、相沢氏の考古学への情熱は冷める事はなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相沢氏への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学のさきがけとして正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42)には吉川英治賞を受賞した。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾けた。

 相沢氏の絶え間ぬ努力がなければ今の日本の歴史はどうなっていたのか?と言うくらいの発見をされた郷土の偉人です。

平成元年逝去。という事です。[享年63歳]勲五等を授与される。

式典は、いつも通りの故人の威徳を偲ぶ大勢の方の参列で大成功でした。