円山のてるさんんからコメントをいただきました。
こちらのエントリーをご覧ください。
ようは「カミングアウトをしていくほか、LGBTが社会的認知を得る手段はない」ということだとおもいます。
カミングアウトの是非ということであれば、カミングアウトをしていくほか存在を知らせる手段はないのだから、それをしていくしか社会的認知をあげていく手段はありません。
したがって、できる人はしたほうがいいわけです。
円山さんの説は対外的にはそれしかないと思われます。
ところが、「カミングアウトができる」ということ自体が、カミングアウトできないゲイからすると抑圧的だったりもするんですよね。
カミングアウトするほうは、「勇気」を出してカミングアウトをしてある種の達成感を味わっていたりしますが、それをみてカミングアウトできない人は「カミングアウトしても社会的な不利益を被ることのない強者」にしかみえないのです。
カミングアウトは勇気の結果などではなく、単に社会的におかれた状況の違いであり、カミングアウトできるのはそれがたまたまできる状況を与えられた幸運な人でしかない。
カミングアウトが発するメッセージは、対外的にはおおむね円山さんがおっしゃるような肯定的なメッセージと捉えられてきていると思いますが、対ゲイ的には必ずしもそうなってないんですよね。かなり多くの人が「あちら側で起こっていること」と思っています。
「恥の文化」を背負い、それを解除できない人に対して、「恥の文化を解除するほうが正しい」といっても受け入れられないことも多いと思います。「それがそんなに簡単にできるんなら誰も苦労しないよ」といわれておしまい。
カミングアウトする人は、周辺の人を教育し、自分がカミングアウトした程度で解雇されたりしないよう業績を上げ……などなどの努力をした結果であれば、そこに自負を持つのは当然でしょう。学生のように、な~~んも考えなくてもカミングアウトくらいできる状況もありえますが…これならまさに幸運以外のなにものでもないですね。
いずれにしろ、今年何度か行われた選挙の結果をみて、ゲイの内部的に支持層を拡大して政治的な影響力を持っていこうとするなら、カミングアウトできない層に対するメッセージを戦略的に練らないといけないと思います。
そのためには、「恥の文化」をゲイであったって内包しており、それを克服できる人間はたまたま幸運なだけだという信念が、彼らの行動を規定していることは織り込まないといけないんじゃないかと思います。
カミングアウトを志向する人は、僕の観察では元来そういう日本的な恥の観念からはずれた人で、それは日本人である以上少数派ではないかと思います。
そこから広げていくには、また別の論点を考える必要がありそうです。
理念の正しさは必ずしも動員には結びつかないんですよね。
こちらのエントリーをご覧ください。
ようは「カミングアウトをしていくほか、LGBTが社会的認知を得る手段はない」ということだとおもいます。
カミングアウトの是非ということであれば、カミングアウトをしていくほか存在を知らせる手段はないのだから、それをしていくしか社会的認知をあげていく手段はありません。
したがって、できる人はしたほうがいいわけです。
円山さんの説は対外的にはそれしかないと思われます。
ところが、「カミングアウトができる」ということ自体が、カミングアウトできないゲイからすると抑圧的だったりもするんですよね。
カミングアウトするほうは、「勇気」を出してカミングアウトをしてある種の達成感を味わっていたりしますが、それをみてカミングアウトできない人は「カミングアウトしても社会的な不利益を被ることのない強者」にしかみえないのです。
カミングアウトは勇気の結果などではなく、単に社会的におかれた状況の違いであり、カミングアウトできるのはそれがたまたまできる状況を与えられた幸運な人でしかない。
カミングアウトが発するメッセージは、対外的にはおおむね円山さんがおっしゃるような肯定的なメッセージと捉えられてきていると思いますが、対ゲイ的には必ずしもそうなってないんですよね。かなり多くの人が「あちら側で起こっていること」と思っています。
「恥の文化」を背負い、それを解除できない人に対して、「恥の文化を解除するほうが正しい」といっても受け入れられないことも多いと思います。「それがそんなに簡単にできるんなら誰も苦労しないよ」といわれておしまい。
カミングアウトする人は、周辺の人を教育し、自分がカミングアウトした程度で解雇されたりしないよう業績を上げ……などなどの努力をした結果であれば、そこに自負を持つのは当然でしょう。学生のように、な~~んも考えなくてもカミングアウトくらいできる状況もありえますが…これならまさに幸運以外のなにものでもないですね。
いずれにしろ、今年何度か行われた選挙の結果をみて、ゲイの内部的に支持層を拡大して政治的な影響力を持っていこうとするなら、カミングアウトできない層に対するメッセージを戦略的に練らないといけないと思います。
そのためには、「恥の文化」をゲイであったって内包しており、それを克服できる人間はたまたま幸運なだけだという信念が、彼らの行動を規定していることは織り込まないといけないんじゃないかと思います。
カミングアウトを志向する人は、僕の観察では元来そういう日本的な恥の観念からはずれた人で、それは日本人である以上少数派ではないかと思います。
そこから広げていくには、また別の論点を考える必要がありそうです。
理念の正しさは必ずしも動員には結びつかないんですよね。
私は玉野さんが書いておられるようなカミング・アウトの社会論には疑問をもっており、カミング・アウトは、あくまでも個人が個人として考えるべき問題ではないかとおもっています。
たとえば、カミング・アウトに対する心理的抵抗ということを考えたとき、自分がよく知っている人に対するカミング・アウトと、まったくの他人に対するカミング・アウトでは抵抗が異なるのではないかとおもうのですが、いわゆるカミング・アウト論というのはそこのところがごっちゃになっているとおもうのです。
これをもうすこしくわしくいえば、完全な他人に対するカミング・アウト、たとえば極端な話、外国でカミング・アウトするというのは心理的抵抗もすくなく比較的容易ではないかとおもうのですが、はたしてこれを「カミング・アウト」といえるのか、私は疑問におもうのです。ただ、玉野さんのおっしゃるように、カミング・アウトというのが単にLGBTに対する社会的認知を増すために行われるのであれば、これも充分なカミング・アウトということになるのではないでしょうか。あるいは、電車のなかで、「私はゲイ」ですといったバッチをつけて歩くといったことも考えられる。
でも、ふつう「カミング・アウト」といった場合には、そうではなくて親へのカミング・アウトとか、知人へのカミング・アウトとか、特定の人へのカミング・アウトのことをいうようにおもうのですが、こちらは心理的抵抗が大きい。また心理的影響が大きいわりには社会的波及効果が少ない。それと、この後者の意味でのカミング・アウトを行っている人でも、逆に、不特定多数が乗り合わせる電車のなかでカミング・アウトしているといった人は少ないようにおもうんです。
ですから、「カミング・アウト」といった場合、どのような意味で「カミング・アウト」というのかを明確にしないと、議論がしずらいのではないでしょうか?
また、私はこれはセクシャリティと直接の関連はありませんが、私はこれまで髭をはやしていましたが、面接用にそれもそりました。この点も、そうした方が被採用確率が高くなるのではないかという判断からです。(ついでにいえば、私はふだんネクタイをしませんが、履歴書にはスーツにネクタイという写真を貼っています。)
そういう意味では、セクシャリティの問題も外見の問題も、程度差はあっても、社会的禁忌という点ではあまり違いはないとおもうんです。
ですから、うまく企業のなかに入り込んだとき、その企業のなかで自分の個性を出していったり、ましてや私はゲイですとカミング・アウトすることには強い抵抗が生じるとおもうのですが、その場合も、企業のなかでは、私はノンケでとおすつもりです。それでも、たとえば同性愛のパレード参加なら、そんな私にもできるかもしれない。
ですからやはり、カミング・アウト論という場合に、原則を一律に適用するのではなく、その辺のさまざまなことを踏まえて議論をする必要があるのではないかと私はおもいます。
せいぜい「何度も何度も結婚のことを聞かれたりして面倒なんで言っとくかね」ってくらいなもんです。それも晩婚化、未婚化が進んでしまったので、結婚しないこと自体珍しいことではなくなり、大きな問題になることはだんだん減ってきていると思います。田舎の旧家の長男くらいは大変かもしれません。
したがって、カミングアウトはどういうシチュエーションであれ、ほとんどの場合社会に関心がある人間でなければ実行しないことだと思います。(ひねくれたことをいうと、社会的な正義を実行していると思うことで、自分に酔いたい人もカミングアウトをするほうに傾きます)
社会的波及効果ってことでいうと、多少社会的にテレビやら出版やらで顔をさらしたところで、よほどの有名人でなければ社会は何の関心も持ちません。結局、個人の交際範囲内で行われるカミングアウトが一番身近なものとして捉えられるので実効性があります。
ちょっと前(90年代前半くらいのいわゆるゲイブーム)は、「カミングアウトをすることは素晴らしいこと」としてたまさかカミングアウトをしていればそれだけで取り上げられるようなことがありました。そのころは、テレビで顔をさらしたりするのは結構楽チンでした(なにしろ錚々たる大学教授たちや有名人が勇気ある行動として援護射撃をしてくれたので)。それよりは家族にカミングアウトをするほうが難しかったかもしれません。
もちろん、社会的な意味でカミングアウトをすることで大きく変わってきたところもあります。しかし、それは全体にどの程度の波及効果を及ぼしているのかは定かではない。結局、モザイク状にカミングアウトの敷居が下がったところもあれば、そうでないところもあるというくらいのことしか言えないのかなと思うんですよね。
それと比べると、自分が身近な人にカミングアウトすることによって、確実に自分の周囲の認識は変わります。全体としてのモザイク状況は変わりませんが、自分に関する場所は変わります。
あとは、カミングアウトをする人が変わることを望むかどうかということに尽きます。「変わる」ときに、悪いほうに転ぶ可能性が高いと思えばカミングアウトを控えるし、自分にとってよい方向に転ぶと思えばカミングアウトをするということです。
たとえば、今回の選挙でいうと、今回投票した人の3倍の人が入れていれば尾辻さんは当選していたことを考えても、尾辻さんに投票した人があと2人にカミングアウトして投票を取り付けていれば良かったわけです。その程度の人数ならちょっとしたカミングアウトによって可能なんですよね。
したがって、カミングアウトをするというのは、いずれにしろ多分に社会的な行動なんだと思います。
もちろん、個々のカミングアウトをミクロに見ると、それぞれにさまざまな問題があるだろうし、ひとつひとつのカミングアウトにはそれぞれドラマがあるだろうと思います。逆にそうだとすると、どこまで分割してどこまでまとめておくのが妥当なのかが帰って難しくなるんじゃないかと思います。
カミングアウトの原則といっても、「カミングアウトしやすい社会環境ではカミングアウトをする確率が増えるし、そうでない社会環境ではカミングアウトする確率が減る」というだけです。闇太郎さんの行動選択も、これで説明ができてしまいます。パレードというカミングアウトをしやすい環境ではカミングアウトをし、会社ではカミングアウトをしないわけですから。
いまは、社会の中で、ゲイが自分の思いにしたがってカミングアウトしたければすればいいし、したくなければしなくてもよい社会を構築するために、どういう方法を考えていけばいいかを考えてみたいんですよね。現状として、カミングアウトしないという選択はかなり容易なのですが、カミングアウトをするという選択は場合によっては難しいこともあり、それを平等な立場で認めるためには、カミングアウトを容易にできるようにするほかないので、みんなカミングアウトを肯定する方向で考えているのだと思っていますがいかがでしょうか?
HIVの問題なんかも予防啓発の予算がもらいたいところですが、国会議員の1人もいらっしゃらないとなるとなかなか難しい。厚労省は人が死んだら考えてやるってところですから、薬物療法がそこそこ功を奏してしまったばっかりに、予算がなかなかつかないわけです。
政治的な動員を考えなくてよいならば、「できる人がカミングアウトをしましょう」ってのでいいのかもしれません。先鋭部隊が社会を切り開くのです。フリーライダーたちはその後をついてくるくせになんの感謝もしないでしょうが、まあ、そんなもんですね。
コメントを投稿するまで、玉野さんのお考えと私の考えはものすごく懸け離れたもののようにおもっていましたから、お返事を拝読してその辺は考えを少しあらためました。なんというか、これまで、玉野さんのお考えはあまりに原則論に過ぎると私はおもっていたのです。
ところで、コメントのやりとりをとおし、少なくとも私と玉野さんのあいだで、カミング・アウトという行為が無前提なマストではないという点では、一種の合意ができているようにおもうのですが(コメント以前の段階では、私と玉野さんのお考えの相違はカミングアウトが無前提のマストであるかどうかという点にあるとおもっていたのです)、すると問題点というか相違点は、カミング・アウトの動機付けということになるようにおもいます。
この点になると、セクシャリティの問題以前に、私には玉野さんのおっしゃる「社会的な行動」全般に対する忌避感があるので、セクシャリティの問題に限定してその忌避感を解除して行動しようという気にはなかなかなれないのです。
ですからこれは、カミング・アウトの善悪というより、もしかすると、個人が社会とどう向き合うか、どのような政治的行動をとるかというセクシャリティを超越したより一般的な問題なのかもしれないのですが、そのあたりの、私からするとより根源的な問題を素通りしてカミング・アウトの政治論を行われても、善であれ悪であれ響かないし、自分の行動を変化させるにいたらないのですね。
感謝なきフリーライダーの無責任な発言で、あまりクリエイティブな書き込みにならなくて申し訳なくおもいますが、私としては、このあたりが個人としてのいつわらざる考えです。
以前のブログ記事などで問題にしたところははしょってしまってます。
こうして対話ができると、お互いの立場が見えてきてよいですね。
「カミングアウトありき」に見えてくるのは、もし「社会的にLGBTのビジビリティを上げることで住みよい社会を作る」ことが目的なのであれば、カミングアウトをするほかやりようがないからです。
それを望まないのであれば、カミングアウトもそれを論ずることも無駄ですよね。
政治的な問題についての性向は、以前尾辻さんの敗因を分析したときに書きましたので、そちらをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/tamano_syndicate/e/a239d3966cdb285d3d826a1c116a7671
とくに社会に不満も無く過ごせる間は、人は政治を重視しません。特に日本人は、政治は「お上」がやることで、下々はそれに従うしかないと思っていますので、よほどのことがないと声を上げない。
ゲイにとっては、黙っているだけでとくに重大な問題が発生しない世の中になっているので、そのことを通して政治的な関心は抱かないわけです。
そうすると、そこを問題にしようがしまいが、響く言葉になどなりはしないわけです。今の社会で言うと、貧困の問題や年金の問題のほうが関心を引く話題になりますね。
結局のところ、ゲイたちが総意としてどういう社会を望むのかというところが分かれ目でしょう。
「総意」というのは、個々の欲望の集積によって形成されるので、個々人の感受性がなにを求めるかということによります。それが現状のところ、セクシュアリティについてとくに大きな問題になるようなことが、多くの人にとってはないということなんだろうなと思っております。
それでも「同性パートナーシップ制度」などの制度的な保障を求める少数の人間たちが、それを実現するためにどういう戦略で動員を図るかというのが、円山さんと私の議論になるんだと思います。
円山さん的に「カミングアウトをしてノンケも取り込んだ勢力を形成する」というのも1つ、ぼくのスタンスは「まずはゲイの支持を取り付けるためにできることをする」というものです。
ぼく自身はカミングアウトをして社会的な立場を確立していくほうがよいと思っている人間なわけですが、その言動だけでも多くのゲイに対して抑圧的に響いてしまうという現状がありました。理念としては間違っていないとは思いますが、尾辻さんが立候補されて動員を考えなければならない場面ではむしろ逆効果になってしまうんですよね。このジレンマに現在苦しんでいるところだとご理解ください。カミングアウトをする側はある種の社会的正義を実現しようとしていると思い込めるわけで、それを自分がカミングアウトするかどうかはともかく支持すらしない人間たちをどこか疎ましく思っていたところも、僕の中にはあったんだと思います。ここにゲイの内部での相互の排他現象が生まれます。そこを深く反省して、相互に理解しあえるにはどうすればいいのかを考えたいなと思っているのですが、なかなか有効な手段を思いつきません。
そうするとゲイに期待するのはやめて、カミングアウトによるノンケ取り込み作戦のほうが有効なのかもしれない。どちらの戦略が結局有効なのかは、僕も分かりません。ただいろんな選択肢を考え抜いてできる方向性を模索していくための踏み台を提示しているわけです。本当は両面作戦で行くといいはずなんですが、、、。
闇太郎さんのご意見は大変勉強になります。
これからもまたいろいろご教示ください。
ありがとうございました。
再三、自分のブログには上げてきたことなのですが、僕が言うカミングアウト論は次のような流れを持ちます。
ゲイ諸君諸氏の中に、カミングアウトなど、したくてもできない、しようなどと毛頭思わない、など全く関知せずの方たちが多数おられます。圧倒的多数派かも知れません。それぞれに、さまざまな事情があります。カミングアウトなど容易ではないことは、当然のことだろうと充分、理解しているつもりです。
彼らに、カミングアウトを強制することなど考えられません。僕だって彼らと同じでしたし、ある部分は今でも同じです。なぜなら、僕自身、実践しているカミングアウトは、部分的・段階的カミングアウトに過ぎず、即時全面的、全方位的カミングアウトではありません。僕ができないことを、ほかの人たちに押し付ける意図など、全く有り得ません。
僕が申しているのは、カミングアウトのできる人から、できる相手に、できるタイミングで―――時間はたっぷり必要ではありましょうが、しようかな、できるかな、やってみよう、じゃあ誰に、どんな風に、どういうタイミングで、……と、それぞれ個人が、左様な切っ掛けを、頭の隅に、潜在意識に、置いていて欲しいなとの提案なのです。
一生カミングアウトなどしないと宣言される方々があろうと、それはそれ、僕から何の異論もありません。
これは、外への訴えではなく、内部への訴えなのです。対外的には、いわゆる可視化なくしてゲイの置かれている状況を理解してもらう術はありません。カミングアウトが何の苦でもないゲイは、どうぞなさって下さいと申し上げればそれで良いのです。問題になっているのは、さきに述べましたように、いわゆるクローゼットに徹しているゲイの皆さんに、どう向き合ったら良いかとの姿勢なのでしょう。カミングアウトの強制指向など、とんでもないことです。しない人、できない人は、それでよろしいのです。しかし、いつの日か、それぞれが置かれている状況、環境、あるいはそれぞれの考え方が変化するときが訪れるかも知れません。そのときは、どうか僕の提案””できる人が、できる相手に、できるタイミングで””を思い出して欲しいと申しているに過ぎません。
そして、カミングアウトを部分的・段階的にでも果たせた人たちは、””話せば解る””の一念で、身近なノンケさんたち一人一人に、僕らの気持ちを伝える機会を、ことあるごとに見つけて欲しいとも思います。
ゲイと、そうでない人たちを隔てている(かも知れない)”目に見えない壁”を、まさに一点一点、小さな小さな風穴を、ちょっとずつちょっとずつ開けてゆき、時間をかけて、やがて段々とその風穴を大きくすることができたとき、世間さま一般が、僕らゲイをゆったりと受け入れてくれる時代が来るのではないだろうかとの、左様にささやかな願いを込めて、僕は””できる人が、できる相手に、できるタイミングで””を提案しているのです。
もちろん、いずれは、その”目に見えない壁”など、全くまぼろしの如きものだったと、笑顔で回想できる日が迎えられることを夢見ています。
玉野さんが簡潔にまとめられた僕の意想は、
「カミングアウトをしていくほか、LGBTが社会的認知を得る手段はない」と、記事の冒頭にあります。
残念ながら、これは正確ではありません。
LGBTが社会的認知を得るためには、全てのLGBTが無条件に(無理矢理にでも)ではなく、””できる人が、できる相手に、できるタイミングで””カミングアウトを模索し合ってゆくことしか、ほかに方法はないのではないか―――と、先般のコメントに書いたつもりでした。
インとアウト、クローゼット・ゲイとアウト・ゲイとが手を携えることが如何に重要であるか―――を、こののち、僕は自分のブログで書いてゆこうと思います。対立でも抑圧・被抑圧でもなく、協力し合い、互いに思い遣る意識を携えながら、LGBTが可能な限りの総体を以て、世間さまに対して存在感を獲得してゆくのです。
僕のモットーとも言える””できる人が、できる相手に、できるタイミングで””の「心」は、クローゼット・ゲイとアウト・ゲイとが手を携え、互いに思い遣ることにあります。そのこと”こそ”にです。
まだまだ明快な解決策など浮かびませんが、玉野さんや闇太郎さんのお知恵を借りながら、どうしたらLGBTの底辺から湧き上がる”うねり”を起こせるのかを、これからも思索して参りたいと思っています。
最後に、僕の筆名は’円山てのる’でございます。
今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
私はけして「多数派代表」として書いているわけではなくて、自分の考えていることを好き勝手に書いているだけなのですが(笑)、この議論の文脈のなかでは、たしかに多数派的にみえてしまうかもしれませんね。
それはさておき、円山さんの書いておられることを読むと、円山さんのカミング・アウト論とカミング・アウトについての私の考えは、本質においては、そんなに違いがないようにおもいます。
私は、自分はけして誰にもカミング・アウトしないと言っているわけではなくて、むしろ、一般的にいえば、いろいろカミング・アウトしている方ではないかとおもいます。でも、それを人にすすめるとか、自分が行っていることをもっと意識的にいろいろな局面にひろげていくとかいうことになると、ものすごく抵抗というか疑問があるわけです。
以下はまったくの私見ですが、私のなかでは、カミング・アウト論というのはコミュニケーション論といわく言い難く結びついており、一般論として、人は自分のことを果たして他人に100%理解してしてもらえるのだろうかという疑問があって、カミング・アウトというメッセージが他者に伝えることができるのも自分のほんの一部ではないかとおもうわけですね。ですから、自分の全体像をある程度もっている人に対してならばカミング・アウトは容易だし、ある意味では蛇足というか無意味という気がするんですが、逆に自分の全体像をもっていないとおもわれる人にセクシャリティを語るのは、自分に対する誤解を生じさせるのではないかという懸念がある。加えて、日本の場合、他人とセクシャリティを語るということはほとんどないわけですから、さほど親密ではない人とカミング・アウトというかたちでセクシャリティを語るという状況そのものが、やはり非日常的という感じがします。
こういった言い方は、LGBTにとってカミング・アウトはマストであると考える人や、同性愛的であれ非同性愛的であれ人は何らかのセクシャリティをもっているのだからそれについて人と語るのは当たり前の行為だと考える人からすると、心のなかの抵抗を違う方向にすりかえて理論武装し、自分をごまかしているだけだということになってしまうかもしれないともおもうんですが、それでもやはり、私は、セクシャリティというのはその人の人格の一部ではあってもすべてではないとおもうし、セクシャリティについて語るにしても「場」というものがあるとおもうんです。ですから、「自分らしく生きる」というときに、そのなかにカミング・アウトしない、さらにはセクシャリティについて語らないという考え方、生き方があってもいいのじゃないかと私はおもいます。
それと、非LGBTの人たちは他者に自分の内的メッセージをすべて伝えることができていて自分らしく生きれているかといったら、やはりそれはそうじゃないとおもうんですね。
社会的抑圧ということにしても、セクシャリティだけが社会的抑圧の対象となっているわけではない。その辺のところで、LGBTも非LGBTも、他者との社会的コミュニケーションがどうあるべきかということで悩みを抱えているんだということに、「非LGBTとの連携」の手がかりがあるんじゃないでしょうか。
この記事の冒頭で、玉野さんはLGBTの社会的認知をどのように拡大していくかという枠組みのなかでカミングアウト問題を考えるとしておられるわけですが、世の中には、グレイゾーンの、自分がLGBTなのかLGBTではないのかわからないという人もかなりの数いるわけでしょ。そういう人は潜在的LGBTなんだというのは建前論であって、私はやはり、その人たちは自分のアイデンティティに関して迷っているグレイゾーンなんだとおもいます。
「自分らしく論」のなかでいうと、ゲイであることを自覚しながらカミングアウトに否定的な私なぞは、さぞかし「自分らしく」あることを拒否しているひねくれものということになるのかもしれませんが、グレイゾーンの人たちというのは、何が自分らしくかを確認すること自体こばんでいる。当然、勉強会とかパレードとかいった場にもでてこない。ネット等で行われているLGBTの議論に参加することもほとんどない。ある意味では、この人たちは世間体原理主義の一番の被害者なのだとおもいます。
ですから、このグレイゾーンの人たちは、世間体原理主義とか、LGBTがかかえているさまざまな問題や主張に共感できる可能性をもっているとおもうんですが、問題の焦点をカミングアウト論にしぼってしまうと、当面の議論から排除されてしまうだけでなく、社会的な性的抑圧というより大きな問題からも非当事者としてはじきだされてしまうとおもうんです。
じゃあこの人たちは、社会的な性的抑圧の当事者ではないかというと、私はやはり当事者だとおもう。というか、抑圧でがんじがらめになって自分のアイデンティティを自覚することを先送りにしているんじゃないですか。そういう人たちからすれば、カミングアウトしているかしていないかにかかわらず、LGBTの自覚をもっている人間というのは先にすすんでいるということになるのではないでしょうか。
玉野さんの意図は別にして、私の書き込みは、LGBTの自覚をもった人間がカミングアウトするかしないかという二分法で議論を組み立ててきたんですが、社会的問題ないし政治的問題としてカミングアウトを考えるならば、このグレイゾーンの人たちとどう向き合うかということも視野に入れる必要があるのではないかという気がしてきました。
またお詫び遅れまして誠に申し訳ございませんでいsた。
平身低頭、お詫び申し上げます。