◎前置き(言い訳?)
昨日、あまり動きたくなかったけれど、午後から4時間ほどスティールパンを弾き倒し(笑)、帰ってきてご飯を食べたら、そのまま4時間?5時間?毛布にくるまって大爆睡してしまいました…💦
ゆえに、ラインやメールで返信していない方々ごめんなさい、起きたらすぐに連絡します!(11/20の童謡唱歌解説作りが終わって、ブログを書いている今am2:50😅)
◎小話?
楽器を運ぶときに必須!
軍手いろいろ…の中で、お気に入りのパンダ軍手♡
一昨日演奏に行った小学校の校歌を作った作詞家さん作曲家さんが、童謡唱歌でよくででくる方々で、おぉー!!!と思いました☆
葛原しげるさんと、弘田龍太郎さん。
葛原しげるさんは…『とんび』や『夕日』、
弘田龍太郎さんは… 『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『春よ来い』『靴が鳴る』など、
結構演奏してきましたねー!
そして、文章を書いていて、スマホの予測変換に注目してみると…!
野口雨情サンに関しては、「の」と入力しただけで「野口雨情」サンが予測変換に出てくるという…!笑
童謡唱歌、1年近くやっていたら、スマホも学習してこの人?この人?って主張してくるのかな?😆
*****♪*****
◎本題?😆
11月20日。
スティールパンで童謡唱歌(324)
『五木の子守唄』
作詞:熊本県民謡
作曲:熊本県民謡
この曲は、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄だそうで、子守唄には子守女がみずからの貧しく恵まれない薄幸な境遇(年貢代わりに働かされる)を嘆き、悲しい日々の生活心情を基盤に、この種の子守唄は伝承されてきている…とのこと。
◎第2次大戦後レコードになってから大流行したけれど、地元のものとはやや曲節の違ったものになっているようです。
現在では熊本県を代表する民謡としても知られています。
◎1930年に、田辺隆太郎サン(人吉市の小学校教師)によってはじめて発見されて、採譜、編集されたといわれているそうですが、当時この歌は、すでに五木村では歌われなくなっていて、どのようにして発見されたかは謎とされているとのこと。
◎現在一般に「五木の子守唄」として知られているメロディーは、戦後に古関裕而サンが採譜し、民謡歌手によって初めてレコーディングされたものだそうです。
◎『五木の子守唄』は、伝承者により様々な歌詞が伝えられていて、どの歌詞が元歌かはっきりしていないそうです。
似た内容の歌詞が、五木だけではなく熊本県の他の地域にもあるということでした。
【歌詞】(代表的なもの)
1.
おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ
早よもどる
2.
おどまかんじんかんじん
あん人たちゃよか衆(し)
よか衆ゃよかおび
よか着物(きもん)
(他、たくさんの歌詞が存在します。)
◎さて。
日本の民謡や童歌などで、「子守唄」とされる歌には、本来の童話(子供を寝かしつけるための歌)と、守り子唄(もりこうた)と呼ばれる唄とがあるといわれていて、『五木の子守唄』は、守り子唄のひとつ…だそうです。
"守り子唄"とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌で、かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多かったようです。
◎上記、歌詞の2番に、「おどま勧進(かんじん)勧進」という言葉が出てきますが…。
ここに出てくる「かんじん」とは、「三十三人衆」と呼ばれる地主層に対しての「勧進」(小作人)という意味で、ここでは「物乞い」「乞食」という意味で用いられているとのこと。
なので…、
歌の意味は、「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちは良か衆(お金持ち、旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」ということになるそうです。
◎歴史は苦手なので、Wikipediaより引用。
↓↓↓
伝承によれば、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れた平氏一族が五家荘(八代市)に定着したので、鎌倉幕府は梶原氏や土肥氏など東国の武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。
その後、これら武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成され、「かんじん」と呼ばれた小作人(名子小作)たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで旦那衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。
娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。
『五木の子守唄』はこの悲哀を歌ったものである。
◎ このような歴史・流れがあって、現代まで歌い継がれている曲なんですね。
今日も深いところまで行きましたね。
…難しい〜!!!
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近づいてきました、11/23!
甲府えびす講祭り
出演時間は13:25〜です!
(30分のステージです😄)