「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」という言葉は東大の総長だった大河内一男が卒業式でジョン・スチュアート・ミルの言葉として語った訓示として有名になり、その後平成27年度東京大学学部入学式において東京大学教養学部長の小川桂一郎によって色々と訂正された。
ところでこのフレーズの原文が気になったのでJ・S・ミルの『功利主義論(Utilitarianism)』の邦訳である『功利主義論集』(川名雄一郎、山本圭一郎訳 京都大学学術出版会 2010.12.5)の該当部分を引用してみる。
「このような選択は幸福を犠牲にすることによってなされている、すなわち、同じような環境のもとでは優れた存在は劣った存在よりも幸福でないと考えている人は、幸福と満足という二つの非常に異なった観念を混同している。快楽を享受する能力の低い人はそれを十分に満足させる見込みが大いにあるが、高い能力に恵まれた人は、自分の求めることのできる幸福は今あるがままの世界においては不十分なものであるといつも感じていることは疑う余地のないことであろう。しかし、このような人はこの不完全さが何とか耐えうるものであるならばそれに耐えることができるようになる。また、その不完全を伴うのにふさわしい善をまったく感じることができなくなる(と)いう理由によってだけでも、不完全さをまったく意識することのない人のことを羨んだりするようにはならないだろう。満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい。愚か者や豚がこれと異なった考えをもっているとしたら、それは愚か者や豚がこの論点に関して自分たちの側のことしか知らないからである。比較されている相手方は両方の側を知っている。」(p.269)
(“Whoever supposes that this preference takes place at a sacrifice of happiness-that the superior being, in anything like equal circumstances, is not happier than the inferior-confounds the two very different ideas, of happiness, and content. It is indisputable that the being whose capacities of enjoyment are low, has the greatest chance of having them fully satisfied; and a highly-endowed being will always feel that any happiness which he can look for, as the world is constituted, is imperfect. But he can learn to bear its imperfections, if they are at all bearable; and they will not make him envy the being who is indeed unconscious of the imperfections, but only because he feels not at all the good which those imperfections qualify. It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied. And if the fool, or the pig, is of a different opinion, it is because they only know their own side of the question. The other party to the comparison knows both sides.” – John Stuart Mill『Utilitarianism』)
こんどは逐語訳を試みてみる。
「同じような環境の中で、優秀な存在が、劣った存在よりも幸せではないという選択が幸せを犠牲にしてまで起こってしまうと想像するような人なら誰でも幸福と満足という2つが全く違う観念だと論破する。享楽の受容力が低い存在がすぐに十分に満足するチャンスは大いにありえて、天分豊かな存在が彼が求めることができる幸せが不完全であるといつも感じることは、世界が成り立って以来疑う余地はない。でもその不完全性がどれも耐えられるものであるならば、彼はその不完全性に耐えることを学ぶことができ、その不完全性は不完全性に全く気付かない存在に対して天分豊かな彼に羨ましいと感じさせることはないだろうが、そもそも彼が、不完全であることが当たり前であるような類の美徳を全く感じないためだけだからである。満足している豚よりも不満足な人間でいた方が良く、満足している愚か者よりも不満足なソクラテスになる方が良い。もしも愚か者であれ豚であれ違う意見を持っているならば、それは彼らが自分たちの事情しか知らないからである。比較されるもう一方の側は両方の事情を知っている。」
つまりここのパラグラフでは最初のセンテンスだけで幸福の性格を、残りのセンテンスで満足の性格を描写しているのである。これはもはや哲学ではなく文学だと思うのだが、いかにも頭の良い人の意見である。例えば、一生自分たちの事情しか知らないで生きていければ不満足な人間よりも満足している豚の方が絶対に良いと思うのだが、満足している愚か者よりも不満足なソクラテスになりたいと思うのであるとすれば、それは愚か者が余計なことを知ってしまう可能性が無いことは無いからである。だからもはやバカにはなれない東大生に「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」という言葉は発破を掛けるという意味では正しいのである。