ケンのブログ

日々の雑感や日記

ネイティブでない僕にとって大阪は不思議なところ

2021年05月12日 | 日記
僕が住んでいる自治体の近くの自治体で、コロナの予防接種の予約をめぐる混乱で、市民が市長に抗議のために詰め寄っている新聞写真が出ている。

市の対応もまずかったのだろうとおもう。

一方、この市の携帯ショップに随分以前に行ったときに、「お店で大声を出された場合は警察に通報します」という張り紙がしてあったことがある。

そんな張り紙がしてあるということは要するにお店の人が、お客様の大声に悩んだ経験があるということなのだろう。

また、この市のあるカラオケボックスに以前、電話したら、「この電話は品質向上のため録音しております」という自動音声が流れてから、職員かバイトの子が電話に出た。

コールセンターで、応対品質向上のために電話を録音というのは、確かにそういう目的もあるけれど、同時に、電話での暴言などを抑止する作用もあるとおもう。

コールセンターでそのような電話の録音というのは当たり前だけれど、カラオケボックスの電話で、通話を録音しておりますという音声が流れることは珍しい。

ひょっとしたら、ここの市民には一部、感情が激しやすい人が多いのかもしれないと思った。

では、この町の雰囲気が悪いかと言うと、必ずしもそういうわけではなく、駅前のベンチで、座っているおじさん、おばさんなどは、素朴な感じの人も多い。

以前、大阪の南の方に住んでいたときには、ラーメン屋に、「ラーメンのご注文なき方がメンマのみ食べるのはご遠慮ください」という張り紙が、メンマの器にしてあったことがある。

それを見たときも、要するに、ここのラーメン屋は、ラーメンを注文せずに、無料のメンマや、キムチだけ食べていくお客さんに悩んでいるんだろうなと思った。

大阪の北部に越してきてからなそういう張り紙を見ることは、少なくとも僕は経験していない。

もっとも、そんなに、ラーメン屋にいかなくなったということもあるけれど。

昔、藤井寺球場に、近鉄バッファーローズの試合を見に行ったときに、藤井寺の駅前通りで交通整理をしていたガードマンの方に「こら、はよ通さんかい」と言っていたおじさんがいたけれど、あれは河内の雰囲気があっていいなあと思った。おじさんも、そんなに、まじで怒っている雰囲気ではなかったし、、、。

本当に、大阪のネイティブではない僕にとっては、大阪というところは不思議なところだなあとおもうことがあるといえばある。

それはともかく、一日、いちにち無事に過ぎていきますように、それを第一に願っていきたいとおもう。


長引くコロナ

2021年05月10日 | 日記
今日の新聞に次のようなことが書かれている。

“”
感染予防のマスクも、捉え方次第では安心感と勇気をくれる装置に違いない。他人の視線という緊張から解放され、少し違う自分になれるのだ。コロナ後は顔を隠すのが目的の「だてマスク」が広がるのではないかとの指摘もある。“”と。

マスクに顔を隠す効果があるというのは、最近よく感じるようになった。

お店の店員さんの顔がマスクのために以前より覚えにくくなっているような気がする。

それで、人違いを恐れて、つい声をかけにくくなることもある。

マスクをしていると耳のあたりがむずむずしたり、呼吸がしんどいことがあるとおもう反面、いつもしていると、マスクをすると妙に落ちつくなとおもうことも確かにある。

口元が隠れるというのもあるかの知れないけれど、マスクをした時の感触が心地よく思えることもある。

特に僕の場合、綿のマスクをしたときにそれを感じる。

他方、電車の車内で「飛沫感染防止のために車内ではマスクの着用にご協力ください」
というアナウンスを度々聞いていると、暗示にかかってしまって、マスクをしていない人の口からウイルスが飛んでくるように思えてしまうこともある。

コロナが収まっても、マスクをしていない人とは、ウイルスが怖くて話ができないという人も出てくるかも知れない。

本当にマスクと言ってもいろいろな側面があるなと思う。

僕自身も、コロナが収まっても、防寒とか、喉を潤すとかそういう観点でマスクをする機会が増えるかもしれないとおもう。

ある航空会社では、接触感染を防止するために、肘で開閉できるトイレのドアを開発し導入したという記事も出ている。

手でドアを開閉することを不安視する声が航空会社に寄せられていたとも新聞には書いてある。

本当に肘でドアを開閉って、慣れていなくてやりにくいという苦情も来そうな気もするけれど、航空会社も大変とおもう。

接触感染の予防のために肘でドアを開閉というのが建前で、手でドアを開閉するのが心配という声に答えるというのが本音という側面が強いように思えてならない。

コロナも、本当に長くなり、いろんな不安がみんなの間に出てきたと言うことなのだとおもう。

僕の場合は、あれも、これも、気にしているとキリがないので、手洗いとマスクをまずするようにして、いきたいとおもう。

それと同時に、考えすぎないように、気にしすぎないように、ということも自分の心に言い聞かせるようにつとめている。

どうぞ、毎日、無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたい。




不透明な先行き

2021年05月09日 | 日記
新聞を開くと、コロナ関係の記事は、やはり思わず、最後まで読んでしまうことが多い。

コロナ以外の記事だと見出しと、リード文だけ読んですます記事も多いのに、、、。

コロナに関する記事を読んでいて、もはや、政治家も、それ以外の公務員も、新聞の編集者も含めて、誰一人、コロナの行く末について、自信をもった展望を語ることはできない様相を呈しているなとおもう。

一般に、正しいと言われていることさえ、本当に、そうなのだろうかとつい思ってしまっていたりする僕がいる。

人の流れを止めることが肝心、とか、ワクチンが決め手、とか、物事を単純化して事態の解決をあせるのも今となっては逆に考えものではないかと思えてきた。

電車の中で、紙媒体の、少年ジャンプのような漫画雑誌を読んでいる人がいた。

あまりにもスマホを見ている人が多い中で紙の漫画を読んでいるというのが、まだ、健全なことのように僕には思えてきてしまう。

ただ、途中で、その人が、電車の中で、缶入りのウイスキーを飲みながら、漫画を読んでいることに気づいた。

飲酒が、どうのこうのと、話題になっているときなので、ちょっと気になってしまったけれど、一人で漫画を読みながらの飲酒なので、まあいいかとおもう。

電車に、乗り込んできて、いきなり話し始める人がいると、つい気になってしまうけれど、逆に気にしないほうがいいのだとおもう。

あの人が規則を破った、この人も破っている、と思っていると、また、そういう思いが、状況を余計に悪くしていまいそうな気がする。

コロナであろうがなかろうが規則に無頓着な人は一定数いるわけだし、僕自身も、一般にガイドラインとして言われていることをすべて守っているわけではない。

すべて守っていたら、息が詰まってしまいそうで、逆に怖かったりする。

マスクと手洗いはしているけれど、、、。

自宅近くの路上で、ペアの水玉模様のマスクをした、カップルを見る。

いいなあとおもう。

結婚前のカップルなのだとおもう。

日本人は、特に関西人は照れ屋が多いので、結婚したら、ペアのマスクなんてあほくさとおもう場合が多いから、、、。

日暮れには、顔を大きく覆うようなスポーツマスクをしてジョギングをしている女性を見かけた、

みんな、それぞれに、いろいろ工夫して、体調や気持ちの維持を図っているのだとおもう。

スポーツ用とはいえ、マスクをしながらのジョギングは通気の面でしんどい気もするけれど、ふだんジョギングに慣れている人は、マスクをしたらしたなりのペースで走れるとおもうので、、、。

本当に、なるべくあれこれ考えないように、なるようになると思って、一日一日無事すごせますように、それを第一に願っていきたいとおもう。


長引く緊急事態

2021年05月07日 | 日記
今日の新聞の編集手帳は、こんな書き出しになっている。

“”
まど みちお作品の中に1行しかない詩がある。「ケムシ」と題し詩人は書いた。
〈散髪は きらい〉“”

確かに、ケムシは散髪などしないので、嫌いなのだろうなと思う。

この編集手帳は「公園などを歩けば、チョウが花々の間を飛び回っている。小さな命の輝きに出会える季節が来ている」と結ばれている。

文章全体として、小学生によるカブトムシの観察の成果のニュースとからませながら、いろいろ想像力を働かせ、そして自然を観察しようという内容になっている。

コロナのときだからこそ、生命を見つめ直してみようという気持ちで編集手帳の筆者は文章を書かれたことと思う。

ところで、まどみちおさんといえば、團伊玖磨さんが作曲された「ぞうさん」という童謡の作詞も有名。というか僕はそれしか知らない。恥ずかしながら、、、。

その2番の歌詞はこんなふうになっている。

“”ぞうさん ぞうさん だれが好きなの
あのね 母さんが 好きなのよ“” と。

あのね、という言葉の使い方が僕はとても好き。

好きな人のことを誰かに打ち明ける時のためらいがでているところがいいなと思う。

本当に心から好きな人のことを誰かに打ち明けるときって、どんな人にもある種のためらいってあると思うから。

もちろん團伊玖磨さんの作曲も好き。

ぞうさんの、おもい感じ、ユーモラスな感じがよく出ているとおもう。

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僕にとっては久々に、大阪 北のターミナルに行く。

駅のエスカレーターを降りたところにある、フラワーショップがしまっている。

あれ、と思ってあたりを見回すとしまっているお店だらけ。

いやあ、実際に、その様子を目の当たりにすると、緊急事態宣言中なんだなという実感が、湧いてくる。

昨年、初めて、緊急事態宣言が出たときは、みんな、マスクをして乗り切るぞという感じだったようにおもう。

今日、北の、ターミナルを歩いていると、なんだか僕も含めて、こんなこといつまで続くんやろう という感じの顔をして歩いている人が多いように感じられる。

本当に、今日は、僕も道を歩きながら、先の大戦が、昭和16年から20年まで、4年足らず。そのくらいはかかるのかなあ とつい、考えてはいけないことを考えてしまっていることに気づく。

コロナになったらという心配ももちろんあるけれど、生活のパターンが制約を受けることが、しんどいなとはおもう。

辛抱するという意味での気力が続きますようにということを心の中で祈っている。

僕にできることは、まず、マスクと手洗い。

できることをやって、あとは、なるようになるという気持ちを持つことも大切だと個人的には思っている。

少なくとも、今の、状況を見る限りでは、コロナを封じ込めるという考え一辺倒ではむりがあるような気がするし、、、。


一日、いちにち無事に過ごせますように、それを第一に願っていきたいとおもう。




条件反射

2021年05月06日 | 日記
今日は新聞がおやすみ。

そういう日はタブロイド紙やスポーツ新聞を買うことが多い。

しかし、今日はそれも忘れてしまった。

それで、久しぶりにネットのアプリのニュースを見る。

普段、新聞を読んでいて、たまにネットアプリのニュースを見ると、ニュースのスピードは早いけれど、府知事がテレビで、こんなこと言ったとか、そういう情報が垂れ流し状態のようになっているような印象を受ける。

そして、そうした垂れ流しのようなニュースに、ネット利用者の垂れ流しのようなコメントが載っていたりする。

読んでいると、心がすさんでくるような、井戸端会議レベルのコメントも多い。

井戸端会議レべルの話が井戸端会議ですめばいいけれど、それがネットの上で文字になると、単なる井戸端会議よりも、僕には重苦しいように思える。

たまに見るからそういうことを余計に感じるのかもしれない。

ちょっと、考えさせられてしまう。

ネットのゴシップは原則、見ないという方針の人もいると聞くけれどそういう気持ち、僕もわかる気がする。

見たとしても、これは井戸端会議のような話、と割り切ってみたほうが心のためにはよいように僕には思える。

その割り切りがなかなかできそうで難しいのだけれど、、、。

でも、なるべく割り切って見るようにしたいと思う。

やはり、紙媒体の新聞は、デジタルのように、手軽に修正したり、編集したりできないので、限られた紙面に何をどのように収めるかという、その吟味はできているなということをたまにネットのニュースを見ることで感じることができる。

そういう意味では、たまに視点の違うニュースに触れてみるのもいいのだとは思う。

それとともに、自分なりに、できるだけ新聞は続けたいなとも思った。

紙の教科書か、デジタルの教科書かという議論が新聞に出たとき、齋藤孝さんが、紙の教科書は、これだけは必須という内容を厳選して収めることができる、だから、学習するときもそこに的を絞りやすいという主旨のメリットを指摘しておられたと思う。

最近の齋藤孝さん、ちょっと本の出し過ぎじゃないかと思っていたけれど、デジタル教科書と紙の教科書の違いを斎藤さんが論じた文章を新聞で読んだときは、さすが、ご道理ごもっともと思った。

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僕、いつも行っているスーパーマーケットで、「カードはお持ちですか」と聞かれると、毎日来ているのだから、いい加減、僕がカードが好きでないということ覚えてくれよ、という気持ちになって、「カードは持ってない」と強い語気でいうようになってしまった。

そんな自分に、嫌気がさしてきて、数ヶ月前から、もう聞かれる前に自分から、「カードとレジ袋はなしでおねがいします」と言うように切り替えた。

自分が、相手に言われたと腹を立てているより、あのおっさん、毎日同じことを言うと思われていたほうがまだまし、と思った。

3日ほど前に、久しぶりにそのスーパーでもベテランのバイトの子がレジに立っていた。

レジには「レジ袋が必要な方はここからお取りください」と書いてレジ袋もカウンターの前においてあった。

それで、僕はあの子はベテランの子だし大丈夫だろうと思って、レジ袋のことは省略して「カードはなしでお願いします」と言った。

すると、その子は「買い物袋はお持ちですか」と聞いてきた。
「はい、袋は持ってますよ」と僕は言った。
するとその子は「カードはお持ちですか」と聞いてきた。
「だから、カードはなしでお願いします」と僕はもう一度言った。

そのベテランのバイトの子、ちょっとばつの悪そうな顔をしていた。

もう、レジ袋のこととカードのことは言わなあかん、と思っていると、この人はカードいらないとわかっていても条件反射で言ってしまうのだと思う。

緊張すると、余計に条件反射のスパイラルにはまってしまうということもあるし。

今日は、祝日明けの夕方で、スーパーのレジが混んでいた。

しかも、僕の後ろにはちょっといらちの男性が並んでいた。

妙に、距離をつめてくるおっさんだったので、その気配だけでいらちの人が僕のうしろにいるとわかる。

そこへもってきて、僕の並んだレジには、3日前に条件反射で僕にカードのこと聞いてきた子が入っている。

これはまずいなと僕は思った。

いらちのひとが後ろにならんでいると、余計にあせって条件反射が出てしまう。

僕の順番になったときにその子は「袋はお持ちですか」と聞いてきた。

僕は、あかん、と思った。相手に質問させる形にすると、また条件反射で、全部聞かれてしまう。

とっさに「あのう、レジ袋と、カードはなしでお願いします」と僕は一気に言った。

それで、その子は、うなずいてもう何も聞いてこなかった。

ただ、僕が細かくお金を出そうとすると、うしろのおっさんが妙に距離をつめてきたので、もう、コインを細かく出すのはやめて、千円札を何も考えずに出してお釣りをもらった。

こういうお金の出し方していると、財布がコインで重くなって、早く痛むので、なるべくしないようにしている。

たとえば625円と言われたときは1125円出して500円硬貨一枚おつりをもらうとか、普段はそれが習慣になっている。

距離を詰められると僕もあせってそれができないなと思う。

本当に、ネットの世界も、現実の世界も、世の中いろいろだなと思う。

それにしても、カード、レジ袋と気にせずに、買い物をすると「毎度おおきに」「お買い上げありがとうございます」と言っていた時代が恋しいなと思うし、それが、人間の本来の姿であるようにも思う。

それはともかく、毎日、無事にすごせることを第一に願っていきたいと思う。