ケンのブログ

日々の雑感や日記

名古屋にもちょびっとは慣れたけれど

2024年02月28日 | 日記
桂米朝さんが落語の前振りで 大阪の人は海遊館の水槽の魚を見ながら「うまそうやなあ」とか「あの魚 えげつない顔してるなあ」とか言って通っていくから かなわん。

というような話をしておられた。

魚を見て えげつない顔をしているなあと言ったおじさんの方が魚に勝ってると思ったとも米朝さんは言っておられた。

大阪に住んでいるとこれらの話は誰もがいかにも大阪らしいとわかることで 思わず笑えて来る。

最近は僕も 名古屋らしい というのが 以前に比べてすこしずつわかるようになってきた。

他の街にはない 名古屋の特徴。

先日 名古屋では一番の繁華街と言われる地域の地下鉄駅の コインロッカーの前で いわゆるヤンキー風の子たちが5,6人たむろして これからどこへ行って遊ぶかというような話をしていた。

そこへ 僕が300円握りしめて 荷物を預けに行っても その子たちは 全く 場所を移動しようとしない。

幸い コインロッカー全体をふさいでいたわけではなく 端っこの方は開いていたので そこを使ったから よかった。

でも 最近 コインロッカーの前にヤンキーの男の子がたむろしている、 そして コインロッカーの利用者が来ても どこうとしない、 これって やっぱり 東京や大阪 あるいは 他の大都市ではあまりみかけない 名古屋らしい光景だな と思えるようになってきた。

例えば 大阪の北のターミナルだと コインロッカーの周りには むしろ女の子の方がいるという感じで 例えば その子たちは ぺったんこの靴を おしゃれ靴に履き替えたり とか その他 いろんな用途でコインロッカーを利用しているのだと思う。

まあ 実際に何に利用しているかは そこまで まじまじと みたことはないので 知らなくて今、書いたのは僕の想像だけれど。

大阪などで 仮に コインロッカーの前でヤンキーの子がたむろしていたとしても 利用者が近寄ってきたら その中の誰かが 場所を開けるように リーダーシップをとるような気がする。

コインロッカーの前でたむろしていて 利用者が来ても ほぼ 何も気にしないヤンキーの子っていうのは なんとなく どんくさい というか やっぱり田舎なんだなあと思う。

そもそも 名古屋の一番の繁華街は 地方都市名古屋の中でも 名古屋の周辺の街から 名古屋に上ってくる子が多いだろうから 名古屋の中でも 田舎風の子が多くなる傾向があるのかもしれない。

その子たちは 自分たちの存在を誇示するためにコインロッカーの前から移動しない とうよりも そもそも コインロッカーなどあまり使ったことがないから 人が 来たら どかないとむしろかっこ悪く見えてしまう ということに 気づかないのだと最近 うすうす わかるようになってきた。

こういう名古屋らしさにも 愛着の心をもって観られるようになるといいのだけれど まだ それには しばらくの 月日を要するなと思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事にすごせますように それを 第一に願っていきたい。

京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに行く(第686回)

2024年02月25日 | 音楽
2月17日京都市交響楽団第686回定期演奏会を聴きに行く。

指揮 川瀬賢太郎さん

最初にバイオリン独奏石田泰尚さんで マルサリスのバイオリン協奏曲ニ長が演奏される。

初めて聴く曲なので どの楽章とかいうのは忘れてしまったけれど 指揮台の左手にバイオリン独奏の石田さん 右手に 小ぶりのドラムセットの配置で演奏された場面があった。

そのドラムセットのところに 演奏の途中で 一見したところでは、ドラムセットを普段たたいておられるという感じには見えない雰囲気の方が出ていらした。 そして、その方は、そのセットで いろんなリズムをいろんな音色で奏でられた。

どのリズムも 一般的には そんなにたやすく奏でられるものではないように 僕には思えたけれど その方は いともたやすく それらのリズムを奏でておられて どの奏で方も 僕には すごいというか 完璧なものであるように聴こえた。

かなりシャープで小気味いい音が出ているように思えた。

その方は そのドラムセットでの出番が終わると ティンパニーのところに戻っていかれたので 近眼の僕は ああ あのドラムセットを奏でておられたのは ティンパニーの方だったのだとやっとわかった。

やはり クラシックで プロとしてティンパニーをしておられる方は ドラムセットもお手の物なのだな と生まれて初めて悟ったというか そういう場面を目撃した。

曲の途中で ラベルのピアノ協奏曲ト長調のリズムを連想した場面が何度かあった。

それで 家に帰ってきて 僕が連想したリズムは どれだったのだろうと ユーチューブで聴いてみたけれど 該当するリズムを見つけることは出来なかった。

ただ そうして ラベルのピアノ協奏曲を改めて聴いてみて この曲もジャズの影響が強いことを改めて 悟った。

本当に 音楽はいろんなところで 影響を与え合っているのだなと思った。

20分の休憩をはさんで次に

ドボルザークの交響曲 新世界より 作品95が演奏された。

第二楽章 いわゆる「家路」のメロディーが様々な形で出てくるのを聴いていたら、やっぱりいいな と思って涙と鼻水が出てきた。

涙はほっとけばとまるけれど 鼻水はちょっとやばいかも と思って ひとえに巻いていたマフラーを二重に巻きなおしたらとまったので ほっとした。

僕の場合 鼻水は 花粉症というよりも寒暖差アレルギーで出ることが多いので 温めればよいとは思っていたけれど 温めたら止まったのでよかった。

しかし、20歳代のころ この曲を生演奏で聴いた時 前の列に座っていた 女の子が第二楽章のメロディを涙を流して聴いていて 確かに 美しいメロディだけれど あれで泣くなんて、、、と思ったことがある。

その時は 将来 自分が同じメロディで泣くことになるとは思っていなかった。

きっと 最近の音楽や歌が 言葉数が多い割に 乱暴に聴こえたり 投げやりなものに聞こえたりすることが多いので やっぱり 家路のように根源的なメロディはいいなと思ったことで涙がでてきたような気がする。

第四楽章の終わりの方でちょっと観客席の周りを見回してみたら みんな かたずをのむようなすごい集中力で聴いている。

この お客さんの集中力は あるいは ベートーヴェンの第九で 歓喜の歌が流れている場面をしのぐかも と思った。

同様のことを2019年に同じ京都コンサートホールで フィラデルフィア管弦楽団の演奏で「新世界から」をきいた時にも思ったので やはり ドボルザークのこの曲には 人の心をひきつけてやまない 何か 根源的なものがきっとあるのだろうと思う。

そして その 何かの中身の一つがやはり 民族音楽の影響ということなのだと感じる。

コンサートが終わって 北山駅に向かう道を歩いていると 年配の女性の 「しかし あの人も じじむさならはったなあ」(しかし あの人も いかにもお爺さんという感じになったなあという意味の関西風の言い回し)という声が聞こえてきた。

話しの状況として コンサートの最後にステージに上がられた 今度引退される市長さんのことを話されていることは ほぼ明らかだった。

まあ いかにも 京響のコンサートの帰りに聞こえてくる言葉という感じで それもよかった。

それはともかく 一日 いちにち 無事に過ごせますように
それを第一に願っていきたい。






              

名古屋フィルの名曲シリーズを聴きに行く(第89回)

2024年02月01日 | 音楽
1月25日は名古屋の金山へ名古屋フィルハーモニー名曲シリーズを聴きに行った。

オーボエ・指揮 シェレンベルガーさん

ハープ マルギット アナ シュースさんで

モーツァルト フルートとハープのための協奏曲ハ長調 K.299
シューベルト 交響曲第8番ハ長調 グレイトが演奏された。

2曲ともハ長調 親しみやすい旋律で始まるな とか考える。


最初に演奏されたモーツァルト フルートとハープのための協奏曲K.299は
柔らかい感じの演奏だった。

なお この曲はフルートのパートはシェレンベルガーさんがオーボエで演奏された。



演奏中にオーケストラを指揮するシェレンベルガーさんの手の動きがふわっとして柔らかい感じだった。

オーケストラからもその手の動きの感じに応じた音が出ていたと思う。


次に演奏された
シューベルトの交響曲は
オーボエがこんなに活躍する曲なのかと思った。

それはオーボエ奏者の方が指揮をされるのと無関係ではないかもと思った。

オーケストラ全体ということで考えると
1無駄に大きい音を出さない 2無駄に音を伸ばさない 3しかし 一つ一つの音にはしかるべき引っ掛かりを作る。

ということが演奏を通じて意識されていたような気がする。

そして それは 演奏にとてもいい効果を出していたと思う。


オーボエ奏者の方は聴き手の僕から見ていると絶えず音を出しているという感じで、大変だったような気がするけれど こういうことに力を注げる人生はいいなと思った。
(もちろんオーケストラの人全員 一生懸命だったけれど割と管楽器の方に目が行く癖があるのでそう見えました)

シェレンベルガーさんが前半のアンコールにシューマンを演奏されたのは きっと後半のシューベルトの交響曲を世に出したのがシューマンであること そして シューマンがこの曲を「天国のように長い」という主旨のことを語ったというエピソードも意識されてのことであるような気がする。

演奏を聴きながら本当に 天国のように美しいなと思う場面も幾度かあった。

それと同時に 天国のように長いのか 冗長なのか紙一重というところもあるなと思った。

でも シューベルトの美しさは紙一重というところにあるわけだから、、、 とそんなことも考えていた。

第一楽章の終わり近くで 弦楽器が冒頭のホルンの旋律を回想した。

そこの表現が とても 情熱的でかつ優雅であるように聴こえた。

ハープと共演して触発されたということもあるような気がするけれど演奏全体を通してピチカートがとても美しく聴こえた。

今までに聴いたこの曲の生演奏の中で僕にとっては最も印象深い演奏だった。

それはともかく 一日いちにち無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。