ケンのブログ

日々の雑感や日記

守ってあげたい

2020年12月29日 | 音楽
実家で何気に新聞のベージをめくっていたら松任谷由実さんが大晦日の紅白歌合戦で「守ってあげたい」を歌われると出ていた。

今年はコロナということで松任谷由実さんがこの歌を歌うという企画になったのだろうと想像する。

僕は芸能ニュースにうといのであくまで想像だけれど。

さて、この「守ってあげたい」という歌。

もちろん松任谷由実さんの代表曲の一つでかつ屈指の名曲の一つと思う。

楽曲構成もユニークで

“”you don’t have to worry worry 守ってあげたい
あなたを苦しめるすべてのことから“”

という歌詞で始まる。

ここは、いわば歌のサビの部分でいきなりサビで始まる歌というのも珍しいと言うかユニークだなと思う。

かなりここは高音でたやすく歌えるわけではないし。

守ってあげたい あなたを苦しめるすべてのことから
という倒置法の歌詞もインパクトがあるなと思う。


いろいろと苦しい時、「あなたを苦しめるすべてのことから守ってあげたい」という歌詞を聴いて、そして心に思い浮かべて自分の心の糧にしたことも僕自身、過去に何度かある。

しかし、僕がこの「守ってあげたい」という歌の歌詞で最も好きなフレーズは、このサビの「守ってあげたい」ではなく歌のいわば主部に当たる部分の最初の言葉だ。

その言葉はこんなふうになっている

「はじめて言葉を交わした日のその瞳を忘れないで」

もう、女性にしか書けない歌詞だと思う。

彼と 彼女と 妻と 夫と、初めて言葉を交わしたときのことって覚えている人は案外多いのではないだろうか。

そしてその初めて交わした言葉に運命を感じた人というのもきっと少なからずいることと思う。

僕もいろいろ初めて交わした言葉を覚えている人っている。

職場で「ナカシマさんの顔って案外悪くないよ」と言ってくれた人のこと。

「ナカシマさんのことだからこの夏も烏龍茶飲みすぎてお腹壊してるかと思いました」と言ってくれた人のこと。

「何やの?そのハンカチ。クシャクシャでゴミかと思ったわ。もう少しでほかすとこやった」と言ってくれた人のこと。※ほかす は大阪の方言で捨てるという意味です。

僕が「君は仕事のやり方を丁寧に教えてくれるね」と言ったら
「丁寧に教えへんかったら、間違ったやり方されて、尻拭いでしんどいめせなあかんのは結局、私自身やから」と返してくれた人のこと。

やっぱり、交わした言葉が素敵で印象深かった人のことは、僕もずっと覚えている。

“”はじめて言葉を交わした日のその瞳を忘れないで“”
なんて素敵な松任谷由実さんの言葉だろうと思う。

その瞳って、気になる子に、ちょっと勇気を出して「その服似合うね」と言った時の瞳だったかもしれないし、「放課後の校庭で部活動に励んでいる君をおもわず目で追ってしまうよ」と言った時の瞳だったかもしれない。

でも、もっと一般化して語れば、初心のフレッシュな心でこれからなにかに向かっていこうとした時のその瞳を忘れないでと松任谷由実さんは言いたいのだと思う。

そういう時の瞳はきっと輝いているのだろうと思う。

さて、「初めて言葉を交わした日」という松任谷由実さんの言葉を読むと
新約聖書のヨハネによる福音書の書き出しが
「はじめに言葉があった」というものであることを、また、僕は思い出す。

僕は宗教学者ではないので、今、流行りの単語であるエビデンスに基づいてものを言うわけではないけれど、直感的に、このヨハネの福音書の「はじめに言葉があった」という書き出しは
旧約聖書の創世記の書き出しの部分に「神は光あれと言われた、すると光があった、神はそれを見てよしとされた」と書かれていることに呼応してヨハネがこのような書き方をしていると思う。

天地を創造して神が最初に口にした言葉、それは「光あれ」という言葉だった。

今、本当に光がないと言うよりは、みんな、何が光なのか、その光を見失ってしまっている時代だと思う。

そして「神は光を見てよしとされた」という言葉もとても大切。

今は、みんな、何が光なのかもわからず、それゆえに「これでよし」と自分に言い聞かせることもできない、みんながどうすればいいのだろうと思ってしまっている時代であるように思う。

どうすれば光が見えるのか、これでよしと思えるのか、
それを具体的に書くことは僕にはできない。

しかし、パウロが「最後まで残るのは愛と希望と信仰。この3つの中で最も大切なのは愛である」と言っている、そこに光を求めることにつきるのではないかと思う。

八王源先生も「愛を失ったら、もう人間ではありません」と生前にみんなの前で、心の底からおっしゃったことがある。おっしゃったというよりは、あれは訴えかけるような言い方だったなとしみじみと思い出す。

こういうコロナというときにあって、そして世界の経済やエネルギー問題などの大きな変革のときに、なんとか光を見失わないように日々、生きていきたいものだと思う。

※松任谷由実さんの歌詞ももっと詳しく見ると
「守ってあげたい。あなたを苦しめるすべてのことから。なぜなら私はあなたを愛しているから」となっていますね。






故郷の風景

2020年12月28日 | 日記
岐阜の実家に帰ってきた。JRの在来線、京都、米原 大垣で乗り継いで来た。

コロナの自粛要請の影響などで電車はかなり空いている。

電車が岐阜に近づいてきて揖斐川の鉄橋を渡った時、ああ揖斐川だなあと思って通路側の席から外を眺めると窓側に座っていた人が揖斐川の鉄橋を電車が渡っている間スマホで動画を撮影していた。

岐阜駅で電車を降りて階段をホームの下に降りていく。

階段中央の踊り場で、その踊り場まで登ってきた僕と同じくらいの年格好の女性が、階段の下から登っくる足元のおぼつかない老人の男性に
「ほれ、ちゃんと見とらなあかんて」と声をかけていた。
ほれ、ちゃんと見とらなあかんて というのは岐阜の方言で標準語に直すと
「ほら、ちゃんと見てなきゃだめよ」ということだ。

石川啄木の歌に

ふるさとの なまりなつかし 停車場の人混みの中に そを聞きに行く

というのがあるけれど、鉄道の駅できく、ふるさとのなまりは本当にいいものだな
心をほっとさせてくれるなと思う。

石川啄木は岩手県 僕は岐阜県でふるさとのなまりも全く違うけれど、そもそもふるさとのなまりが懐かしいというのは時代や土地の違いを超えても同じなんだなと思う。

時を経ても、感動が変わらない芸術が、時を超えて残っていく。

そういうものだなと思う。

岐阜駅を降りて、駅の南のレンタカーの事務所に行く。

事務所のお兄さんが僕に保険などいろいろな重要事項を説明されるたびに僕は老眼鏡を取り出してかけた。

契約に関する重要事項を生返事で聞くのが僕は不安になる性格で、書面を老眼鏡をかけて見ながら話を聞いてしまう。

そんなことをしていたせいだろうか

レンタカーを出すときにお兄さんは僕に
「枯れ葉マークは必要ないですよね」と言った。
「まだ58歳なので彼はマークはいりません」と僕は言った。

大体、免許証をチェックしたときに年齢はわかるはずなのに
僕が何度も老眼鏡をかけていたので、きっと僕のことがかなりのおじいさんに見えたのだと思う。

状況に寄って年寄りに見られたり、逆に若く見られたり、いろいろだなと思う。

ただ、平気で枯れ葉マークと口に出してしまうところが田舎だなと思う。




年の瀬

2020年12月28日 | 日記
100円ショップに行ったら、今日は大安 お正月の準備をするのに良い日です、というようなポップ広告が出ていて、鏡餅やらしめ縄やらが売っていた。

スーパーマーケットに行くとベートーヴェンの交響曲第9番の第四楽章のテーマのところがくり返しBGMで流れていた。

僕はカレンダーを買う時、大安とか仏滅とかいわゆる六曜の入ったものは買わない。

僕は、金光さんの「大安吉日と言って、その日を建て前の日に選んでも雨が降ったらなんにもならない。それよりも毎日が大安になるように神様にお祈りするべき」という主旨の言葉が好きで、それを信じているつもりだけれど、それでも六曜の入ったカレンダーを見ると、つい今日は仏滅か、とか、先負かとか思ってしまう。

たぶん、暗示にかかりやすい性格なのだろう。

なので知らぬが仏ということで六曜の入ったカレンダーは買わないようにしている。

2021年のスケジュールノートも六曜の入っていないものを選んだ。

なんとか毎日無事にすごせますようにとそれを一番に考えている。

家ではシベリウスの交響曲を聴いた。本当にコロナになってからブルックナーやシベリウス、といったいわば自然讃歌的な音楽を心が求めているなと思う。

なかにし礼 菅原洋一さんのコメント

2020年12月26日 | 音楽
作詞家のなかにし礼さんがなくなった記事が新聞に出ている。

新聞には歌手の菅原洋一さんの談話も添えられている。

菅原洋一さんはなかにし礼さん、そして菅原洋一さんの双方にとっての出世作となった「知りたくないの」という歌に関してこのように語っておられる。

“”
彼(なかにし礼さん)は「あなたの過去など知りたくないの」というそれまでの歌にはない言葉を発見した。

流れるメロディーに「過去」という言葉は歌いにくかったけれど「歌手なんだからしっかりと歌え」と譲らなかった。その信念がヒットにつながった。“”と。

過去 この言葉は発音するとカコ カもコも「か行」の音になっている。実際に「カキクケコ」と口に出して言ってみるとわかると思うけれど、「か行」の音はとんがっていてメロディや言葉の流れを止めたり、とがらせたりする作用がある。

昔、阪神の掛布選手が現役だった頃

「かこかけ けこかけ かけふさん 蚊に効くものはなんでしょう?
蚊には 金鳥マットです」
という、うたい文句のテレビコマーシャルがあった。

これは「か行」の音をたくさん使うことで音をとんがらせて印象深くして、金鳥マットという商品名を視聴者の耳に焼き付ける作用があったと思う。

事実、僕の耳にもこの言葉は焼き付いて離れない。

流れるメロディーに「過去」という言葉は歌いにくかったけれど(なかにし礼さんは)「歌手なんだからしっかり歌え」と譲らなかった。その信念がヒットにつながった。と菅原洋一さんは言っておられる。

「知りたくないの」という歌は金鳥マットのようなコマーシャルのうたい文句ではなく、全体に柔らかいメロディラインの中に「過去」という「か行」のみからなる言葉が入っている。

それは確かに「過去」のところだけ他の音とは違う流れで歌わなければならないと言うか、もっと言えば「過去」の二文字のところだけ、音楽の流れを止める、あるいは変えなければならない。

まあ、僕も菅原洋一さんの談話を読んでそのことに気づいたのだけれど、いかにも菅原洋一さんらしいコメントではないかと思う。

菅原洋一さんがいかに言葉を大切にして一つ一つの歌を丁寧に歌ってこられたかの証明になるようなコメント。

せいさんという方が書かれた本の中に「今日のあなたは昨日までのあなたの延長でしかないのです」という主旨の言葉があった。

結局、人間って、何かのきっかけで出るちょっとした言葉のなかにその人が歩んできた道が現れるものだなあと菅原洋一さんのコメントを読んでしみじみと思う。

言葉を大切にしてきたなかにし礼さんと菅原洋一さんの歩みだったのだと思う。

なかにし礼さんのご冥福をお祈りします。

菅原洋一さんが歌う「知りたくないの」の動画です



カラヤンのブルックナー

2020年12月25日 | 音楽
本当に今年も残り僅かになってきた。

コロナということで何かと不安な気持ちになることも多く、これまでの僕がそうであったように音楽に心の救いを求めようとする気持ちもいろいろと湧いてきた。

僕のブログに何回か書いていることだけれど、長年一貫して聴くと心が落ち着くという音楽は僕にとってはベートーヴェンの交響曲第5番。

曲がとても緊密に書かれているので、その緊密さが心の隙間を埋めてくれて心が落ち着くということなのだと僕は自分なりに理解している。

会社に勤めていて、周囲からの圧力のようなものに悩んでいたときはショスタコーヴィチの音楽がとても救いになった。

やはりショスタコーヴィチは共産主義という権力からの圧力、社会的圧力に屈せずにやってきた人なのでその音楽に見られる暗さ、しかし、ただ暗いのではなくその暗さの中にある、負けてたまるかという壮絶な気迫、というのはとても救いになった。

そして今回コロナということになったら、ブルックナーの音楽が、恋しくなってきた。

やはり、懐の深い、広大な音楽に抱かれたいという気持ちが強くなったためと思う。

それで、従来、持っていたオイゲン ヨッフムのブルックナー交響曲全集を引っ張り出してきて聴いたのだけれど、どうも、こういうときになるとヨッフムの演奏はちょっと物足りないように思えてきた。

ちょっと走り過ぎかなと思う部分が多いのがその一因なのだと感じた。

それで僕なりに考えて、ベルナルト ハイティンクの演奏を聴くようにしたらこれはかなりいいと思えた。

それと並行してずっと以前、カラヤン生誕90年のときに出たブルックナーの交響曲第4番の廉価版CDを久しぶりに出してきて聴いたら、やはり音の響きという点では他のほとんどの演奏を凌駕するほど美しい。

カラヤン生誕90年のときは、まだ、まだ僕もそれほどブルックナーに惹かれていなかったし、まあCDを買ってちょっと聴いただけで長年カラヤンのブルックナーのことは意識から遠ざかっていた。

しかし、いざ、ブルックナーを聴きたいと思ってカラヤンが指揮した交響曲第4番を聴くと響きは美しい。

いや、これは、カラヤンも4番だけではなく全曲聴いてみたいという気持ちがふつふつと湧いてきた。

幸い、今は、CDは全集でそろえると価格的にはお得な時代だし、また売る方も、全集でセットで売ってお得感を出すという売り方が結構クラシックのレコードでは多くなっている。

そういう流れで、かなりの廉価でカラヤンのブルックナーの交響曲全集の輸入盤をネット通販で買って聴いてみた。

やはり、4番に限らず、どの曲も響きは無類に美しい。

特に5番 7番 8番 など広大、長大なブルックナーの交響曲のなかでもひときわ大きい規模の曲でその美しさが顕著であるように僕には思える。

その響きの美しさは、カラヤン独特の柔らかさと繊細さのある美しさであるように思える。

そういう響きの美しさに身を任せるというのもブルックナーを聴く時の醍醐味だし、それは心に落ち着きを与えてくれるものだと気づいた。

やはり、その時々の気持ちに応じて、美しいと思える音楽、演奏というものがあるのだなあと改めて思う。

そして、カラヤンというのはやはりすごい指揮者だったんだなということも改めて感じる。