ケンのブログ

日々の雑感や日記

京都市交響楽団を聴きに行く。

2023年06月29日 | 音楽
6月24日京都市交響楽団第679回定期演奏会を聴きに行く。

京都への往路で名鉄岐阜駅を通ったのだけれど 改札口の近くで5歳前後の娘を連れたお母さんが娘に向かって「お父ちゃんについてきゃー」と言った。

いやあ久々に聴く純正岐阜弁というか純正名古屋弁 いいものだなあと思う。

まあ 無事 京都について 演奏会。

最初に演奏されたのは指揮 エリアス グランティさん バイオリン独奏 金川真弓さんでチャイコフスキーのバイオリン協奏曲ニ長調作品28

演奏しているオーケストラは京都市交響楽団だけれど なんだか来日したドイツのオーケストラが演奏しているかのような印象を受ける。

サウンドに独特の重厚感がある。それは金川真弓さんのバイオリンの印象とも近かった。

金川さんの場合は重厚というのとはちょっと違うのだけれど 比喩的に言えば体幹のしっかりした しかるべき引っ掛かりのある音が出ている。

安心して聴いていられる。

20世紀の後半に 様々なレコードでクラシック音楽を聴き始めた僕にとっては どこか 原点に戻るような しっかりした音がなっているように感じられる。

音楽が先へ 先へと進んでいくイメージよりも むしろ その瞬間 瞬間の 音 曲調をしっかり体感しながら 音楽が進んでいく という感じに僕には思われた。
とても丁寧に演奏されている。

端的に言えば 僕が好きなタイプの演奏と思った。

第二楽章の演奏中に 指揮者の腕が かなり 大きい振幅で動いているのに オーケストラの音は意外に静か と思う場面があった。

要するに オーケストラは それを 意識する しないに かかわらず 結果として 指揮者というよりも バイオリン独奏の金川さんに合わせているだと思った。

ただ、 そうなるように もっていくのも 指揮者の 力があってこそ とも思った。

もちろん 金川さんの力が すごいから ということもあると思うけれど、、、。

この曲は バイオリン独奏が休止して オーケストラのみで演奏される場面もかなりあるのだけれど 京響の音は そんなところでも とても充実しているなと思った。

バイオリン独奏が奏でた音のモチーフが オーケストラのいろんな楽器に受け継がれていくさまを見るというか聴くのも楽しかった。

本当に オーケストラ 指揮者 バイオリン独奏 三者の息があった演奏でとてもよかった。

金川真弓さんはアンコールでプロコフィエフの無伴奏バイオリンの曲を弾いてくださった。

無伴奏だとプロコフィエフでも 無意識にバッハを思い浮かべてしまう。

バッハはいろんな作曲家に多大な影響を与えているのだろうか などど思って聴いているうちに ちょっと お茶目な感じで ピチカートがポロンとなって 演奏が終わった。

とっさに お茶目というか 楽しい感じが出せるのも 金川さんの個性というか いいな と思った。

20分の休憩をはさんで 次に演奏されたのは バルトークの管弦楽のための協奏曲作品35

生演奏を聴いていると本当にいろんな要素のある音楽なのだなと思う。

曲調が不安げになるところでは なんとなく悲痛な感じがするな と思う場面もあった。

同じ 不安げな感じでも ショスタコーヴィチの場合だと どこか 力強さというか 不屈の精神というか そういうものが感じられる場合も多いけれど バルトークの場合は悲痛に感じることが多いな となんとなく思った。

ただ、 そういう悲痛さがあるからこそ 曲調が ちょっと明るくなったり おどけたりした場面では それが 一瞬の変化であっても とても 明るく あるいは おどけた感じに聴こえるので やはり 音楽に限らず 芸術では 対比ということは とても大切なのだなと思った。

指揮のグランティさんは 特に上半身はかなり体格がしっかりしておられるのだけれど 腕の振り方は 独特の柔軟性があって そこが 面白いと思ったし また それが いい効果を出していると思った。

特に 曲調がロマンチックになる場面では 指揮者の 腕の 柔らかいふり方が 無類の強さを発揮しているなと思った。

映画音楽を思わせるような場面もかなりあって このバルトークの曲が アメリカで書かれたことに思いをはせた。

指揮者は かなり 精力的に身体を動かしておられるのだけれど オーケストラを その動きで 自分の思うようにドライブするというよりも どこか オーケストラを信頼して オーケストラの自発性にまかせつつ 演奏を構成する という感じの指揮であるように僕には思われた。

結果として 僕にとっては とても 満足のいくコンサートになった。

曲が終わった時 後ろの方の席にいる僕にとっては まだ 残響が残っているうちに 勢いのいい拍手が鳴り始めるという感じだった。

その さまを 体感して なんとなく コロナの流行そのものが収束したわけではないけれど もう コロナによる自粛ムードは だんだん 薄くなってきているな ということをとっさに感じた。

本当に 演奏会というのは 生を体験する場だから 音楽そのもの以外にもいろんなことを感じることができるな と思った。

コンサートが引けて 地下鉄北山の駅に向かう途中で 「あそこは 音が よう鳴っとったなあ」という声が聞こえてきた。

見ると 僕と同じくらいの年齢の人が たぶん妻の方に演奏の印象を語っておられるところだった。

僕 こういう 「音がよう鳴とった」 という感じの シンプルな会話表現って 好きだな と思った。

いいコンサートでよかった。

それは ともかく 一日 いちにち 無事にすごせますように それを 第一に願っていきたい。



気づけば夏至も過ぎて

2023年06月24日 | 日記
気づけば夏至を過ぎていて。例年6月21日か22日ということは知っているのだけれど今年は21日だったようだ。

さすがに暑くなってきて エアコンもそこそこかけるようになったけれど まだ 一日の気温の較差も大きいなと思うこともあって 日が暮れるとヒヤッと感じて 寒暖差で鼻水が出たりすることもある。

数年前から 冷房の風が直接当たることがとても苦手になってきて そういうところは体質がかわってきたのかなと思う。

いつもかも そんなことを思っているわけではないけれど ふっと一人になった時など 自分がこれまでに歩んできた道を振り返って もう少し野心的 (例えば社会的な地位をつかんだり 多くの人に認められるような業績を上げるというようなことにどん欲になるという意味)であってもよかったのかなとぼんやり考えたりすることがある。

高校生くらいのころは 一生けん命努力して 人に認められるようになるんだ という漠然とした気持ちがあったように思うけれど 大学生になって以降は どうも それなりに努力はするものの 野心的になる という気持ちになぜかブレーキがかかってしまって どちらかというと コツコツ地味に生きてきたような気がする。

時々 功名を立てるというか 名を成した人というのは それで 例えば 最晩年とか 死ぬときとかに満足を感じるのだろうかと思うことがある。

もし 名を成すことで 最晩年や死ぬときに 満足を感じるのならば それは うらやましいことだなとは思う。

ただ 最晩年や 死ぬときの感じ方は 名を成したかどうかとは 別の要因で決まるとすれば 名を成すかどうかは あまり 重要なことではないかもしれない とこの歳になって思うこともある。

でも ときどき 特に一人でいるときや さびしさを感じたときなどは 名のある人は みんなに尊敬されたりしていて さびしくないのだろうか などど 思ってしまうこともある。

これだけは 他人の気持ちは おしはかれないから 考えて答えの出ることではないのだけれど。

ただ 夏至になると もう これからは日が短くなっていくという考えとも重なって ついメランコリックになるのかもしれない。

昔のロシアの小説にも黄昏時になると 急に憂鬱になる人物が 描かれた場面があったけれど その時々の状況で人間の気持ちは変わるものだなと思う。

神様に感謝するとか 生きていることそのものに 感謝することで 人生にたいする満足度や幸福度があがるのならば 感謝ということに努めていきたいと思う。

故郷に帰ってくると 母や 母に関係のある人たちが だんだん 年老いていくということを 大阪にいたころよりも身近に感じる。

例えば だんだん 立ったり座ったりが困難になったり 歩くのが遅くなったり 耳が遠くなったり そういうのは ほとんど 老化にともなうものだけれど そういう状況を 一般論としてではなく 自分に身近な人から 感じると やはり 寂しさもひとしおだな とこれも 特に 一人で 考えたりするときに思ったりする。

そして 親の世代の次には 自分たちにも老化というものはやってくるわけだし。

というか 若い人から見たら 僕も もう老人というか 初老の人間だけれど、、、。

般若心経には 老いや死もなければ 老いや死が尽きることもない と書いてある。

「老いや死はない」 と書かれた 直後に 「老いや死が尽きることもない」 と書いてあると 関西弁で言うと「どっちがホンマやねん」と突っ込みをいれたくなるけれど きっと 仏教のエッセンスとして伝わっている般若心経は どちらも言えると考えて そのように書かれているのだと思う。

般若心経でいちばん大切な 考えは すべては空 ということだから 老いや死はないし 逆に老いや死が尽きることもない つまり 空なのだよ ということが きっと ここでは言いたいのだと思う。

要するに こだわりをとるといいよ ということになるのだけれど。

その こだわりが 一人になった時とか ふっと頭をもちあげてくることがあるから 心というものは なかなか 一筋縄にいかないなと思う。

祈りや 感謝が こだわりを 少なくするもとになるのなら もっと 祈ったり感謝したりしていきたいし 親からは そのように教わってきた。

特に 今のような不確実な 時代には こだわりがあると 逆に 不確実さが ストレスになってしまうことも多いように思う。

計画性も大切だけれど 成り行きにまかせる という気持ち 出たとこ勝負という気持ちもそれと同様に大切だなと思う。

それは ともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを 第一に願っていきたい。











気になることは人それぞれ

2023年06月13日 | 日記
読売新聞の発言小町というコラムに隣家からバラの花びらが風に乗って我が家の駐車場に集まることを悩んでいるという投書というかスレッドが紹介されていた。

何が気になるかということは 本当に個人個人の問題なので そんなこと気にするなんて と安易にいうことは出来ないと思う。

ただ 最近 近所の子のシャボン玉が我が家のベランダまで飛んできて不快とか あそこのお店は タバコのにおいがして不快とか 近所の花びらが飛んできて不快とか その手の苦情というか その手のことを気にする人が 昔よりは増えたなと思う。

もちろん 気にする人の数 あるいは 率 という統計を自分でとったり また 見たりしたわけではないので 総体的にどうなのか ということはわからない。

しかし 昭和の時代の 松田聖子さんの「赤いスイートピー」という歌には 「たばこのにおいのシャツにそっと寄り添う」という一節がある。

彼氏のシャツにたばこのにおいがあって それに そっと寄り添う というシチュエーションでこの歌詞は書かれている。

そして この歌は とても ヒットした。

そういうことから考えると やはり 清潔感というたぐいの意味において 細かいことを気にする人は 昔より 増えたのではないかと思う。

気になる ということは 理屈では割り切れないことなので 理屈を言うのは申し訳ないかもしれないけれど 花びらは 不織布のマスク タバコのフィルター コンビニの袋 などと違って ほっておけばいつかは 土にかえる。

ただ 今は その 土の面積も居住地から減ってしまったから 花びらもきになってしまうということもあるのだと思う。

ちょっと ここまで 気になる人が増えているというのは 世の中の閉塞感の一つの象徴でもあるような気がする。

先日 母が 「○○さんの家に 回覧板を届けに行ったら うちの庭に いつもやってくる 猫が 寝てたわ。あの猫は○○さんとこの猫やとそれでわかったわ」と言っていた。
○○さんとは 僕が生まれる前から ご近所同士 文句など言いに行くというのは ちょっと考えにくい。

考えて見れば 僕の家の庭は 僕が子供の頃も よく 近所の猫が昼寝などにきていて それで気持ちがよくなって うんちなど していく場合もあるけれど おばあちゃんが 黙ってそれを掃除していたな と思い出す。

おばあちゃんは 専業主婦だったから それが 仕事と思っていたから さほど苦にならなかったのかもしれない。

こんなふうに書くと そして こういう部分だけを 切り取ると いかにも 昔は そして田舎はのどかなように見えるけれど 田舎の方が 現在のシステム化された世の中のしくみに うまく 適応できない人が多くて それで 都会に比べると そういう点でぎくしゃくする場面が多いことも また 事実と思う。

どちらがいいということは言えないけれど なるべく カリカリしないように意識したいなとは思う。

それはともかく いちにち いちにち 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。



安全を心がけて

2023年06月07日 | 日記
二日前 片道一車線の道路を走っていたら 自動車同士の衝突事故らしく ボンネットがへこんだ自動車がとまっていて 傍らに人が 倒れているというか寝転んでいた。

僕が見た限りでは 意識はあるようだったけれど あれだけ 自動車のボンネットがへこめばきっとショックは大きいだろうと思った。

倒れている人のほかには 若い女性と 若い男性の二人が事故現場にいた。

女性が スマホで何か連絡をとっているところだった。

僕はとりあえず自動車から降りて行って 「救急車は呼びましたか」と女性にきいた。

女性は ちょっとおぼつかない感じだったけれど とりあえず 呼んだというような返事をしておられた。

僕は 事故は まずは 当事者同士の 法的関係の問題だと思ったし 少なくとも 若い男女二人いれば けがをした人への対応はできるだろうと思ったから それ以上は関わらずに自分の自動車に戻った。

でも 事故車が 道路をふさいでいたから 道を迂回せざるを得なかった。

事故の時は けが人がいたら けが人の救助 それから 警察への連絡 保険会社への連絡 そういう順序は こういう機会にもう一度おさらいしておきたいと思う。

映画 男はつらいよの 寅さんも いざ 家に泥棒が入った時 電話機のところに行って 義理の弟のヒロシに「ヒロシ ひゃくとうばんって何番だ」と聞いてしまったくらいだから。

やはり 普段からおさらいしておくことが大切と思う。


昔のダイヤル式の黒電話が記憶にある人ならわかると思うけれど 110番は 1はすぐにダイヤルが元に戻る しかし0は180度以上まわって元に戻るから その元に戻るために時間がかかる。

最初はテンポよく1 1とダイヤルして最後に0 はダイヤルが戻るのに時間がかかる。

これは 110番する人が心を落ち着かせるためにわざと時間のかかる0を最後にもってきたという話をラジオで聞いたことがある。

説得力のある話だから きっと本当の話なのだと思う。

いざというときほど 落ち着くように心に言い聞かせていきたいと思う。

それでも 事故を目撃すると 安全を第一に考えて運転することが大切だなと改めて思う。

いちにち いちにち 無事でありますように それを第一に願っていきたい。



蒸発現象

2023年06月04日 | 日記
一昨日 台風が近づいているということを 人から話題を振られて知った。

夜 自動車を運転していたら 対向車が停止していた。

停止している自動車はライトを点灯していたので その自動車の前がよく見えなかった。

見るとそこは横断歩道で ライトを点灯している自動車の前を 自転車に人が乗ったまま横断している。

あわててブレーキを踏んだけれど 確実に止まろうとすると 路面で自動車が滑るかもしれない 目いっぱいの急ブレーキはいけないと思って瞬時迷ったけれど 自転車が僕に気づいて ライトを点灯している自動車の前を通過した直後に止まったので 自転車と衝突せずにすんだ。

あのまま 自転車が突っ込んできていたら 自転車と衝突 というか 自転車を引いて いるところだった。

たすかった。

家に帰ってきて調べてみると 夜間 特に雨の時 自分の自動車と 対向車のライトが交錯するところにいる人は ドライバーの目から見えなくなる 蒸発現象というものがおきるらしい。

僕が体験したのは まさに その蒸発現象の典型的なものだった。

本当に気を付けていても 起きるもので 事故というのは 自動車と 自転車相互の注意があって防げるものだと 改めて思った。

でも もし 自転車をひいていたらと思うと ぞっとする。

それはともかく 無事でよかった。

いちにち いちにち 無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。