ケンのブログ

日々の雑感や日記

甲子園大会は中止になったけれど

2020年07月29日 | 日記
今年は高校野球の甲子園大会は残念ながら中止になってしまった。

しかし、各都道府県の地方台会は行われているようでその結果も新聞に出ている。

僕は毎年夏の高校野球の地方予選の結果はわりと新聞でチェックすることが多い。

なので今年も各都道府県の独自大会の結果が新聞に出ているとおもわずチェックしてしまう。
僕の大学の同級生の母校はどうだろうかとか、今、世話になっている人の出身の県はどうなっているかとかそんなことを考えながら見ることが多い。

しかし、どこが甲子園に出てくるかという思いはやっぱり湧いてこないのでその分はちょっとさびしい。

でも各都道府県でベストエイトなどに勝ち進んでいる学校を見ると甲子園で見覚えのある名前の学校が多いなと思う。

甲子園に常連になるような学校は甲子園大会があってもなくても常に全力、前向きで頑張るという習慣があるのではないだろうか。

そしてそういう習慣がなければよい伝統というのは生まれないというのもまた事実であるように思う。



小椋佳さん オリビア ホランドさん

2020年07月28日 | 日記

僕が中学生から大学生くらいの頃にかけてよく聴いていた小椋佳さんの歌をユーチューブで何曲か聴いてみた。

どうするとこんなにしみじみとした歌ができるのだろうかと思った。


小椋佳さんって東大の法学部を出ている。なんか僕の偏見かもしれないけれど東大を出ていてあれだけしみじみとした味わいのある人ってそんなにいないような気がする。


それでネットで小椋佳さんのエピソードを調べてみると毎日新聞の記事としてこんなことが書いてある。


 ‘’東京大の法学部を出て銀行に入ったのは、官僚なんかって思ってたからです。地方出身の同級生には、天下国家を動かす人間になってみせるなんてのが結構いたけど、そういうこと言われると白けちゃうんですよ。

 サラリーマンだって、うちの料理屋に宴会に来て、社長とか上に立つ連中が威張っているの見ると、ばかばかしくて。偉くもないのに偉ぶりたいんだなって。そういう人が裏に回って白紙の領収書くれっていうんですから、なんだこれ?と。

 だから、父も母も政治家、官僚、サラリーマンが大嫌いでした。でも、僕は銀行のサラリーマンになっちゃって。オヤジは「お前、サラリーマンになるの? 俺も昔『赤字銀行』に3カ月勤めて辞めたけど、お前、もつわけないよ」って。赤字銀行なんて、うそですよ。お袋も僕の勤め先なんてどうでもいいって感じで。

 お袋が59歳で糖尿で亡くなった時、僕はアメリカに留学中で死に目に会えませんでした。しばらくして帰国し、お骨納めをしたんです。近所の人が集まって「(母の名)トクちゃん、にぎやかなのが好きだから」って宴会を催してくれ、酔っ払って皆で墓に向かいました。山の手じゃ考えられないですね。【聞き手・藤原章生、写真・藤井太郎】‘’


小椋佳さんが東京、上野の料理屋の息子だったって初めて知った。

そういう育ちがあるからかもしれないけれど、東大卒の中ではちょっと異色の雰囲気の方だなと思う。

今日の新聞の国際欄に映画「風とともに去りぬ」などに出演された女優のオリビア ハビランドさんが104歳でパリで亡くなられたと出ている。

新聞の記事には老衰でなくなったと書いてあるがその部分のAP通信の原文は次のようになっている。

Havilland died peacefully of natural causes.

日本語に逐語訳すると

ハビランドは自然な原因で平和に亡くなった

ということになるだろう。

平和に亡くなったというのは、せめて安らかに亡くなったと意訳すべきかもしれないけれど、、、。

どうせ死ぬならそんなふうに死ねればいいなと思う。

新聞にはハビランドさんが新聞写真に記載された年号から計算すると

88歳のときの写真が掲載されている。

88歳とは思えないすごい眼力だなと思えるようなお顔をされている。

それでハビランドさんの名前で画像検索すると女優として全盛期の若い頃の写真もいっぱい出てくる。

信じられないくらい美しい。アンビリーバブルという形容詞はこういう気持ちを表現するためにあるのかと思うくらいだ。

調べると彼女は日本で生まれたということだ。

彼女の両親が日本に滞在中に生まれた子だという。

不思議なご縁だなと思う。

僕は眼力があるというのは要するに気持ちが前向きでしっかりしているということのなのだと思う。

しっかりと気持ちを持つこと、そういうことを僕もできるだけ意識したいなと思う。


声をかけてもらえるとうれしい

2020年07月27日 | 日記
最近僕がよく行くカレーショップではお会計のときにドリンク無料券というものをくださる。

次にお店に行ったときにそのドリンク券を出せば烏龍茶など一定範囲のドリンクが一杯無料になるというものだ。

僕はそいいう無料券の類には無頓着なので家に帰ってくるとほかしてしまって使ったとこは一度もない。

先日、男性の店員の方がお勘定のときに僕にドリンク無料券を渡しながら、「たまには無料券使ってくださいよ」とおっしゃった。

僕はカレーショップに行くと黙々と食べているので店員の方の顔はほとんど知らない。その店員の方の顔も知らなかった。

そういう方に「たまには使ってくださいよ」と言ってもらえると実際に使う、使わないにかかわらずうれしいものだなと思う。



祭りもいろいろ中止になって

2020年07月26日 | 日記
気づけば7月ももう数日しか残ってないんだなと思う。

今年は冷房が本当に寒いことが多いと思う。特に電車の冷房。換気をしながら冷房しなければならないので温度の調節がうまく行かないのだと思う。

それにしても強烈に冷房が効いていることが多いなと思う。

それで体調を壊さないように上着をカバンの中に入れておいて自衛しなくてはと思う。

大阪天神祭、そして京都の祇園祭の季節だけれど、花火や山鉾巡航など一般の人にも祭りだとわかりやすい行事はのきなみ中止なのでなんか祭りの気分がいつもの年とは全然違うなと思う。

僕の故郷の郡上踊りは今年はどうなるのだろう。

ドラッグストアにウェットティッシュや、小さい扇風機がいっぱい目立つところに陳列してある。二三年前からうちわの代わりに小さい扇風機で顔をあおいでいる若い子が出てきたけれど今年はミニ扇風機が本当によく出回っている。

コロナでマスクということでみんな暑さに敏感になっているのだと思う。

京都市交響楽団第647回定期演奏会

2020年07月25日 | 音楽
京都コンサートホールへ京都市交響楽団、第647回定期演奏会を聴きに言った。

オーケストラのコンサートに行くのはいつ以来だろう。ひょっとしたら今年初めてかもしれない。

ソーシャルディスタンスをキープしての演奏会だった。

ステージの上の奏者の数はざっと数えて30名程度で京都市交響楽団というよりも室内管弦楽団というような規模だった。

指揮は秋山和慶さん。

最初に演奏されたのはシチェドリンのカルメン組曲。

カルメン組曲とはいうものの通常私達が、録音やコンサートで聴くビゼーのカルメン組曲とはずいぶん趣の違うものになっている。

モダンな感じにも聴こえるし、ムード音楽的だなと思うところもあったし、鎮魂の音楽だなと思うような場面もあった。

闘牛士の歌のところでプログラムの楽曲解説には後半では旋律が断片化され巧みに再構成されると書いてある場面がある。

ここは実際にビゼーの組曲を想起しながら聴いていると、闘牛士の歌の伴奏をオーケストラは奏でているのになぜか伴奏だけで闘牛士の歌の旋律は出てこない、という感じに聴こえる。期待したものが出てこないというなんとも言えないもどかしさのようなものがある。

しかし、ここで闘牛士の歌が勢いよく出てくると聴く側の気持ちは盛り上がってしまう。やったぜ、闘牛士の歌だぜというように。

そうならないところがよいように思う。

今はそんなに盛り上がるときでもないしかと言って悲しむときでもない。なんだかそういう単純にはカテゴライズしにくい今のみんなの気持ち(これは奏者も聞き手も含めての気持ちという意味だけれど)を象徴するような場面であったように思う。

それはファランドールのメロディが出てきたときもそうだった。ファランドールのメロディが出てくるとビゼーの原曲を想起して聴くと、三人の王の歌も心に浮かんできてそれを期待してしまう。そしてそれがでてくると気持ちは盛り上がってしまう。

でもそうはならなくて三人の王のテーマはなぜか出てこなくてファランドールの旋律のみがでてくる。

そんなちょっとしたもどかしさのようなものがとてもよかったように思う。

秋山和慶さんは2015年にマルタ アルゲリッチさんと組んで広島の被爆70年の平和の祈りのコンサートでベートーベンのピアノ協奏曲第1番を演奏された。

そういう被爆70年という年ならもっと大曲というかそういうものを選びたくなるような気がするのだけれどベートーヴェンの1番というのがいかにも秋山さんとアルゲリッチさんらしい選曲だなと思ったことがある。

特に被爆70年と関係ありそうな曲でもないけれどコンチェルト1番はベートーベンの音楽の中で最もみずみずしいものの一つで70年という年にそれを演奏することはなにかよいことのように思わせてくれる。

今日、秋山さんがこういうビゼーの原曲に基づきながらそれとは趣の違う、ちょっと感情をカテゴライズしにくい音楽を演奏されたのも秋山さん独特の思いやりというかそいういうものがあったように感じる。

そして演奏はもちろん秋山さんらしい熟練の演奏で素晴らしかった。

次にはストラビンスキーのバレエ組曲ブルチネルラが演奏された。

これも管楽器が入ってステージは奥に広くなったけれどやはり奏者の数は30名程度でソーシャルディスタンスを保った人数なのかなと思った。

ストラビンスキーなのでどんな音楽かと思ったら、バロックに近いような感じの音楽だった。
弦楽合奏の随所にチャイコフスキーの弦楽セレナーデと共通するような独特の緊張感のあるアタックのようなものが見られ、やはりこういうのはロシアという土地に特有の共通性なのかもと演奏を聴きながら思った。

客席も僕が座っていたあたりは3つの席のうち2つは使用しないという感じになっていた。本当に準備をされた方々も大変だったと思う。

演奏の途中で久しぶりに生演奏が聴けてよかったとちょっとうるうるしてしまったときもあった。

本当に久しぶりに京都市交響楽団をなまで聴けてよかった。